前田夕暮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 文学 |
|---|
![]() |
| ポータル |
| 各国の文学 記事総覧 |
| 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
| 作家 |
| 詩人・小説家 その他作家 |
| お知らせ |
| このテンプレートの解説ページができました。使用されるべき記事が決まりましたので一度ご確認ください。 |
前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、本名:前田 洋造(洋三とも)、1883年7月27日 - 1951年4月20日)は、明治から昭和期にかけての歌人。
[編集] 経歴
神奈川県大住郡南矢名村(現・秦野市)の豪農の家に生まれる。1898年、中郡共立学校(現・神奈川県立平塚農業高校・秦野高等学校)に入学。1899年、家族に無断で上京したことを厳格な父親に咎められ、自殺を図る。同年秋、中学を退学し、近畿地方へ放浪の旅に出る。
1902年、東北地方を徒歩で旅行。この頃より「夕暮」の号を名乗り、文学に目覚め投稿を開始する。1904年、上京し尾上柴舟に師事、同時期に若山牧水も入門し、以後、交友が続いた。この頃漢学塾の二松学舎(のちの二松学舎大学)に学ぶ。1906年、白日社を創立。この年、洗礼を受けクリスチャンとなる。1907年、雑誌『向日葵』を発刊するが資金難より2号で廃刊する。
1909年、文光堂へ就職し『秀才文壇』の編集者となる。竹久夢二と知り合う。1910年、牧水の歌誌『創作』の創刊に編集同人として参加。栢野繁子と結婚。1911年、雑誌『詩歌』を白日社より創刊。1916年、第4歌集『深林』を刊行した際に、島木赤彦が『アララギ』にて夕暮を批判、赤彦と激しく対立した。1918年、『詩歌』休刊。1919年、前々年に死去した父親の経営していた関東木材合名会社と山林事業を引継ぐ。1921年、牧水と互いの歌選集を出す。1923年、東海道線小田原付近で北原白秋と再会し、そのまま2人で三浦半島へ吟行の旅に出る。以後、白秋との交友が続いた。1928年、『詩歌』復刊、口語自由律短歌を提唱。のちに「新短歌」を創刊する宮崎信義が参加。1942年、定型歌に復帰。1945年、経営する関東木材は秩父兵器木材株式会社に吸収され、秩父兵器の株券を得る。太平洋戦争終結と共に秩父兵器の株は無価値となり、奥秩父の資産を失う。
1948年、亡き友人・白秋を偲び『白秋追憶』を刊行。この頃より斎藤茂吉との交友が始まる。1949年、持病の糖尿病が悪化。1951年、年初より重篤となる。4月20日午前11時30分、結核性脳膜炎にて死去。享年69。多磨霊園に葬られる。法号は青天院靜観夕暮居士。
長男の前田透も歌人。夕暮の歌誌「詩歌」を引き継ぎ、井辻朱美や林あまりを輩出した。また透没後「詩歌」後継誌の一つとなった同人誌「かばん」は穂村弘、東直子、千葉聡といった現代を代表する歌人たちを擁している。
[編集] 代表歌
- 木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな(『収穫』)
- 向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ(『生くる日に』)
- 小中学校の教科書に採られることも多い作品。
- 自然がずんずん体のなかを通過する――山、山、山(『水源地帯』)
- 初めて飛行機に乗った時の感慨を詠んだ歌。口語自由律期を代表する作品。
[編集] 作品リスト
- 収穫(1910年)
- 陰影(1912年)
- 生くる日に(1914年)
- 深林(1916年)
- 原生林(1925年)
- 水源地帯(1932年)
- 富士を歌ふ(1943年)
- 耕土(1946年)


