白井晟一

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ノアビル(1974年)

白井 晟一(しらいせいいち、1905年 - 1983年11月22日)は日本建築家

生前からしばし丹下健三と比較され、戦後日本を代表する建築家の1人とされている。

京都出身。京都高等工芸学校を経てベルリン大学哲学科に留学、ヤスパースらに師事した。

1935年に帰国し、建築設計を始めた。第二次世界大戦中、秋田に疎開。戦後はモダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生み出した。彼の作品を特徴付けるものは、象徴的で物語性に満ちた形態と光に対する独特の感性にある。

また、白井の「縄文的なるもの」(「新建築」1956年)をきっかけに建築界に伝統論争が起こった。佐世保市にある「懐霄館」と呼ばれるヨーロッパの石造の塔を思わせる建物は、機能としては親和銀行本店のコンピューター棟であるのだが、機能的にはおよそ不必要な形態・空間・材料が与えられており、常識的にはオーバー・スペック(やりすぎ)である。また、ノアビル(東京都港区飯倉の交差点に屹立する。)は、事務所ビルであるが、楕円形平面をしており、又窓も極端に少ない。しかし、これらの建築物の独創的形態は強烈な存在感を放ち見る者を圧倒する。このように、彼の作品は機能的・論理的に形成されたものではなく、極端に芸術的である。また、内部空間はしばしば独特の暗さを持っている。しかし建築空間としては、近代主義モダニズム)が前近代を打ち破って産み出した、「空間」を建築創造の主題とする手法から、むしろ後退し、部屋単位の組み立てに終わっていることも否めない。そういう意味で、彼は、近代以前の造形感覚で建築設計を行い、それが長所にも短所にもなっていると言える。

[編集] 主な作品

善照寺本堂

[編集] その他

秋田県内(特に湯沢市)には白井が手がけた建築が多数残されている。羽後町の「羽後病院」が県内で最初の作品として知られている。「羽後病院」「雄勝中央病院」の図面は「白井晟一研究会」(本部・京都市・石沢加津子主宰)が2006年2月に探し、湯沢市内の建設会社で見つかる。なお、京都市出身の白井が、なぜ秋田で仕事の機会を得ることができたかは、疎開中に秋田の知人宅に家財道具を預けた縁であった。

[編集] 関連書籍

  • 「白井晟一の建築」(中央公論社、1974年)
  • 「白井晟一研究Ⅰ~Ⅴ」(南洋堂出版、1978~1984年)
  • 「懐霄館」(辻邦生・磯崎新解説、中央公論社、1980年)