コモン・ロー
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コモン・ロー(common law)とは、多義的な概念であるが、もっとも広く用いられている用法においては、イギリス法において発生した法概念のことで、昔のイングランドで行われた(弾劾的)当事者主義 (adversarial system) を背景として、伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことに由来する。広義の英米法を示す場合、イギリス領、またはイギリスの植民地であった歴史を持つ国々(アングロ・サクソン系諸国)において主に採用されている法体系を指す。現代においては、一般に大陸法との対概念として用いられ、ローマ法などとの区別にも用いられる。
コモン・ローは、不文法を広く含む概念である。不文法は、幾多の判決(判例)が積み上げた合意を基盤として成り立っている。
普通法とも訳されるが、教会法においての普通法や、ドイツ法の概念で同じく普通法と訳されるゲマイネス・レヒト(Gemeines Recht)とは異なる概念である。
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[編集] その多義性
コモン・ローとは、歴史的にはそれぞれの地方における特別な慣習に対し優先する、より一般的な慣習にしたがって裁判の準則を醸成する過程において登場した概念であり、教会法においての普通法や一般法(jus commune、ユス・コムーネ)の意味で用いられるコモン・ローという概念はこの意味である。また、アメリカ法における一般法(general law、全国法)という概念が連邦コモン・ロー(federal common law)と称されたこともある。
コモン・ローが、特にイングランドの国王裁判所が発展させてきた法体系を示す用語となった理由としては、ノルマン人の王朝が従来のアングロサクソン人のそれぞれの地方の慣習に優越する概念として「王国の一般的慣習」(general custom of the realm)の意味でコモン・ローという用語を用いたのがきっかけである(コモンロー#歴史を参照)。この意味でのコモン・ローはイギリスの国王の世俗的権力の強大化に伴い、教会法(カノン法)の対概念である世俗法のことを意味して用いられるようになる。また、コモン・ローとは別の救済をもたらす法体系としてエクイティという概念が定着すると、コモン・ローはエクイティの対概念として用いられるようになる。(コモン・ロー#歴史を参照。)
イギリスの国際的地位の向上に伴い、コモン・ローは、大陸法(シビル・ロー)と並ぶ二大法体系の一つとして認識されるようになり、大陸法の対概念にあたる英米法(広義)として認識されるようになった。また、制定法(成文法)の整備に従い、コモン・ローはそれらの対概念である判例法や不文法のこととして用いられるようにもなる。この意味で用いられるコモン・ローという概念にはエクイティや商慣習法、カノン法など、本来のコモン・ローとは異質なものも含まれる。コモン・ロー#法体系も参照。
[編集] 歴史
[編集] 成立
1066年にウィリアム征服王が統治制度を安定させるまで、イングランドの市民は、共同体ごとに異なり、上層階級が気まぐれに押しつけることも少なくない不文の地域的慣習によって支配されていた。例えば、裁判所は仲間内の記録も残さない非公式の会議によって構成され、対立する申立てを比べあわせて判断し、もし結論に達することができなければ、真っ赤に熱した鉄器を運ばせたり、熱湯が煮えたぎる大釜の中から石を掴み出させたり、その他正直さを試す課題を受けさせて被告人が有罪か無罪かを判断することもあった。もし被告人の傷が所定の期間内で治癒すれば、彼は無罪として釈放された。もし治癒しなければ、その後直ちに死刑が執行されるのが普通であった。
1154年、ヘンリー2世が、プランタジネット朝最初の王として即位した。彼の業績は数多くあるが、中でもコモン・ローを確立したことは特筆に値する。彼は、地域的慣習を全国的なものに組み入れたり、格上げしたりして、法(ロー)制度を全国共通(コモン)のものに改め、地方ごとの支配体制のバラツキをならし、恣意的な救済をなくした。また、宣誓をした市民による陪審制度を復活させ、刑事事件や民事訴訟を確実に取調べさせた。ここで裁判を担った陪審は、その地域の常識に基づいて評決すればよく、必ずしも証拠が存在しなければならないというものではなかった。この点が、今日の民事及び刑事の裁判制度と異なる特徴的な要素である。
このように、ヘンリー2世は、強力で統一された司法制度、裁判システムを創設した。このことは、カノン(教会)法裁判所の権力を幾分か制約することになり、彼(とイングランド)を教会との抗争に巻き込むことになった。中でも最も有名なものは、カンタベリー大司教トーマス・ベケットとの抗争である。この抗争は、しばらくした後にともかくも鎮まった。ヘンリー2世が熱病に苦しむ中、彼の配下がベケットを殺害したのである。教会側では、すぐにベケットを列聖した。
[編集] 展開
15世紀には早くも、コモン・ローの制度によっては認められるべき救済が得られないと考える当事者が、国王に直接訴願することもできるという慣行が成立した。例えば、コモン・ローにより与えられる損害賠償では、所有地に侵入され、占拠されたことに対する賠償として不十分であり、その代わりに不法占拠者を立ち退かせるべきであるなどと主張するがごときである。ここからエクイティ(equity、衡平法)という制度が発達した。エクイティに関しては、大法官が大法官部裁判所において所管した。元来、エクイティとコモン・ローはしばしば矛盾する。そのため、一方の裁判所と他方の裁判所とが相反する裁判をなし、法廷での争いが何年にもわたって続くということもしばしば起こった。こうした状況は、17世紀にエクイティの優越が確立された後も続いた。有名な例としては、架空の事案ではあるが、チャールズ・ディケンズの『荒涼館』に登場する Jarndyce 対 Jarndyce の訴訟がある。
イングランドでは、コモン・ローとエクイティの裁判所が、1873年と1875年の裁判管轄法で統合され、抵触事例(conflict case)ではエクイティが優越することになった。
アメリカ合衆国では、1750年頃から、各地の植民地(そして、後に各州)が、イングランドで行われていたコモン・ローの影響から離脱し始め、各州の刑事法は、1750年代からイングランドのコモン・ローを離れて独自の進化を遂げ、後に法典化が進行していった。20世紀までは、金銭賠償を規定する通常法と状況に応じた救済を与えるエクイティとが併存する状況が続いていた地区がほとんどであった。現在においては、連邦裁判所ではコモン・ローとエクイティとは同じ裁判所が管轄する。しかし、デラウェア州では今もなお通常裁判所と衡平法裁判所とを分けている。また、一つの裁判所の中で通常法を管轄する部とエクイティを管轄する部とを分けている州も多い。
[編集] 現在
[編集] 法体系
歴史的にはイギリス法に由来するコモン・ローは、現在ではイギリス(スコットランドを除く)のみならず、アイルランド共和国、アメリカ合衆国(ルイジアナ州とプエルト・リコを除く)、カナダ(ケベック州を除く)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、インド、マレーシア、シンガポール、香港、その他一般に英語圏の国やイギリス連邦の国の法体系の基礎をなしている。基本的に、かつてイギリスの植民地であったことがある国々はいずれもそうである。ただ、ケベック州・ルイジアナ州(ある程度までフランス法を継受した)や南アフリカ(オランダ化されたローマ法をある程度まで継受した)のように、イギリスが他の帝国主義国家から奪取した植民地で既に大陸法系の法体系を有しており植民者の市民権が尊重されていた地域は例外である。インドのコモン・ローの体系も、イギリス法とヒンドゥー法の混合である。
コモン・ローに代わる主な法体系は、大陸法の法体系であり、大陸欧州やケベック州、ルイジアナ州、かつての共産圏諸国やその他の世界の大半の国々で用いられている。スコットランドは大陸法を用いているといわれることがしばしばある。しかし実際には、スコットランドは、ローマ法大全 (Corpus Juris Civilis) にまで遡る法典化されていない市民法の要素と、1707年にイングランドと統合した後に受けたコモン・ローの影響とが合わさった、独特の体系を有している。
[編集] 法典化
コモン・ローは、制定法や法典として成文化されたものもあれば、成文化されていないものもある。イギリスのコモン・ローを背景として策定された制定法は、コモン・ローの伝統をふまえた解釈をすべきであると考えられている。それゆえ、従前の判例法や慣習からみて当然のこととされるような暗黙の前提が数多くある。その例は、刑事法の分野では容易に見出せる。イングランドでは、刑事法の大部分がコモン・ローによって動いている。これに対して、アメリカ合衆国では、法典化が完了している州が多い。法典化というのは、コモン・ローの命題を一つの文書にまとめた成文法を議会が制定してゆく過程のことである。これによって、いかなる命題が法として通用しているのかを確認するために、法の限界に挑む者が新たに現れて、彼に有罪判決が下されるのを待つ必要もなくなるわけである。
アメリカ合衆国カリフォルニア州は、コモン・ローに基づく法体系を有しているが、大陸法圏流の法典化がなされている。カリフォルニアが19世紀に法典を制定したのは、従前存在していたスペイン流の大陸法を他のほとんどの州と同様のコモン・ローに置き換えるためであった。カリフォルニアやアメリカ西部のいくつかの州には大陸法に由来する夫婦共有財産という概念が存在するなど、大陸法の影響を残している。カリフォルニア州の裁判所は、判例によりコモン・ローを形成するのと同様のやりかたでこうした法典の遺産を解釈により発展させ、コモン・ローの一拡張として取り扱ってきた。その最も著名な例が、リー対イエローキャブ判決(カリフォルニア州判例集第三シリーズ(1975年)804ページ)であり、カリフォルニア州最高裁判所は、コモン・ローの伝統である寄与過失 (contributory negligence) という法理を法典化したカリフォルニア州民法典の条項があるにもかかわらず、比較過失(comparative negligence、過失相殺)という原理を採用したのである。
ニューヨーク州にはオランダの植民地だった時代からの大陸法の歴史があり、19世紀に法律の法典化が始められた。この法典化の過程が完了したと考えられているのは、フィールド法典として知られる民事訴訟に適用される法典のみである。ニューネーデルラントの植民地はもともとオランダ人が建設したもので、法律も同様にオランダ製である。イギリス人は、既存の植民地を奪い取った際にはその地域の植民者には彼ら自身の市民法を維持することを認めるのが常態であった。しかし、オランダ人植民者はイングランドに再び反抗し、植民地を奪還したため、イギリス人は、ニューネーデルランドの支配を回復すると、大英帝国の歴史でも他に例を見ない懲罰として、オランダ人を含む全ての植民者にイングランドのコモン・ローに従うよう強制した。ただ、封建制度と大陸法に基礎を置くパトルーンシステム (patroon system) という土地所有制度が19世紀中葉に廃止されるまで植民地で運用され続けたのは問題であった。オランダ流ローマ法の影響は、19世紀末まで続いた。一般債務法の法典化作業の跡をたどれば、ニュー・ヨークでオランダ人の時代以来の大陸法の伝統がいかなる影響を及ぼしてきたのかが分かる。
[編集] 変容
このように、コモン・ローの成文法による法典化が進められているのとは対照的に、コモン・ローとは無関係の制定法がコモン・ローの限界を乗り越えた新たな請求原因を作り出すこともある。一つの例として、生命侵害の不法行為があり、故人に代わって特定の人(通常は配偶者、子又は相続財産法人)が損害賠償請求の訴えを提起することができる。イングランドのコモン・ローにはこのような不法行為は存在しない。このため、生命侵害に関する制定法を持たない法域では、愛する人の生命を侵害されても生命侵害の責任を追及する訴えを提起することはできない
- 訳注:生命そのものは財産的評価が不可能であるから、故人は生命侵害による損害賠償請求権を取得し得ない。しかも、生命侵害により故人が何らかの請求権を取得し得るとしても、その請求権が発生したその瞬間に故人は既に死亡しているのであるから、その請求権は誰にも帰属することができず消滅する。したがって、生命侵害により故人に生じた損害の責任を訴えにより追及することはできない、というのがコモン・ローの(そして大陸法の)伝統的な発想であった。残念事件も参照。
生命侵害に関する制定法が存在する法域でも、与えられる賠償又は補償は、その制定法が設定する大枠の範囲内に制限される(賠償額の上限が設定されるというのがその典型例である。)。裁判所は、新たな請求原因を創設する制定法を狭く(すなわち文言どおりに限定して)解釈するのが一般的である。それは、裁判所は、こうした制定法が「上位の」(second order) 憲法的法律(constitutional law;憲法その他の国家統治の基本構造を規定する法律)の条項に違反するものでない限り(訳注:違憲審査制を参照)、立法府の判断は判例法の射程を決めるに当たって最高の権威を有するものと考えるのが一般的だからである(司法積極主義とも比較せよ)。
- 訳注:立法府の判断は制定法の文言という形で示されるから、立法府の判断を尊重するためには、制定法を文言どおりに理解するのが大原則となる。例えば、制定法の文言上適用範囲に含まれない問題については、立法府はその問題にその制定法を適用しないとの判断をしたということができるから、制定法の文言の解釈をあれこれ工夫して適用範囲を広げれば立法府の判断に逆らうことになるわけである。
ある不法行為に基づく損害賠償請求が、コモン・ローに根拠を有する場合には、現行の制定法にこれらの損害賠償に関する規定があろうとなかろうと、伝統的にその不法行為により生ずるものと認められてきた損害である限り、訴えをもって、現在・過去にわたる全損害の賠償を請求することができる。たとえば、他人の過失によって身体に傷害を負わされた者は、治療費、苦痛、恐怖、休業損害や稼働能力の喪失、精神的又は感情的な不安定、人生の価値(クオリティ・オブ・ライフ)を損なわれたこと、醜状痕その他の責任を訴えをもって追及することができる。こうした損害賠償は、すでにコモン・ローの伝統の中に存在しているので、制定法の発布を待つまでもないのである。しかしながら、生命侵害に関する制定法が存在しなければ、これらの損害は被害者の死とともに消滅してしまう。生命侵害による損害賠償がないか又は低額に抑えられていたアメリカ合衆国の各州では、こんな古い格言がある。「法的責任を限定してもらいたければ、もう一度引き返して奴に確実にとどめを刺しておくことだ」。
[編集] 研究
もともとコモン・ローは、昔のイングランドで行われた(弾劾的)当事者主義 (adversarial system) を背景として、伝統や慣習、先例に基づき裁判をしてきたことに由来する点は冒頭で既述した通りだが、コモン・ローを適用する際に用いられる論証の形式は、決疑論とか事例判断として知られている。
- 訳注;要するに、できる限り当事者双方に主張立証を委ね、裁判所は伝統や慣習、先例に照らして各論点ごとにいずれの当事者の論証が説得的であるかということに重点を置いてその事案を裁判すべきとされてきたといってよかろうか。このような、裁判所の中での議論を重視する審理態度は、制定法という裁判所の外から与えられる規範への適合性を重視するという、大陸法圏における審理態度と好対照をなしている。
コモン・ローは、制定法や法典として成文化されたものもあれば、成文化されていないものもあることは既述したが、今日では、コモン・ローは民事紛争にのみ適用されるものと考えるのが一般的である。しかし、コモン・ロー法圏のほとんどが刑法典を導入した19世紀後半以前には、刑事法規をも包含するものであった。コモン・ローの裁判所で行われている手続の型は、当事者主義として知られるが、これもまた、コモン・ローから発展したものの一つである。
イギリスのコモン・ローを背景として策定された制定法は、コモン・ローの伝統をふまえた解釈をすべきであると考えられている。それゆえ、従前の判例法や慣習からみて当然のこととされるような暗黙の前提が数多くある。その例は、刑事法の分野では容易に見出せる。イングランドでは、刑事法の大部分がコモン・ローによって動いている。これに対して、アメリカ合衆国では、法典化が完了している州が多い。法典化というのは、コモン・ローの命題を一つの文書にまとめた成文法を議会が制定してゆく過程のことである。これによって、いかなる命題が法として通用しているのかを確認するために、法の限界に挑む者が新たに現れて、彼に有罪判決が下されるのを待つ必要もなくなるわけである。
アメリカ合衆国において、1750年頃から、各地の植民地(そして、後に各州)が、イングランドで行われていたコモン・ローの影響から離脱し始めたことは既述したが、今日のアメリカ合衆国のロー・スクールで、1750年のイングランドで行われていた刑事に関するコモン・ローまでも教授することには理由がある。
- 訳注:アメリカ合衆国各州の刑事法は、1750年代からイングランドのコモン・ローを離れて独自の進化を遂げ、後に法典化が進行していったが、その基礎となる諸概念はイギリスのコモン・ローに端を発しているために、250年以上も前のイングランドのコモン・ローを勉強しなければ理解できないという趣旨をいうものであろう。
民事事件に適用されるコモン・ローは、過失犯不処罰の原則を採る刑事事件とは異なり、故意 (intent) であると過失 (negligence) によるとを問わず、不法行為(tort) と呼ばれる不正な行為の弁償をさせたり、契約を解釈し、規制する一連の法原理を導く手段として考案されたものである。
コモン・ローに関する論文の中で画期的決定版といえるのが、ウィリアム・ブラックストン卿著で、1765年から1769年にかけて初版が出版された『イングランド法注解』(Commentaries on the Laws of England)である。1979年以降、4巻に別れた複製本が入手できるようになった。今日では、連合王国のイングランド及びウェールズに関する部分については、ハルズベリーの『イングランド法』がイングランドのコモン・ローと制定法の双方に論及しており、ブラックストーンの論文に取って代わるものとなっている。アメリカ合衆国のオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア最高裁判所判事は『コモン・ロー』(Common Law)という短い単行本を出版したが、業界では古典の地位を保っている。アメリカ合衆国では、『判例法大全』(the Corpus Juris Secundum)にコモン・ローの大要と各州の裁判所ごとの偏差が収録されている。
[編集] 参考記事
[編集] 外部リンク
- The Common Law by Oliver Wendell Holmes Jr.

