スタニスラフ・レフチェンコ

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スタニスラフ・アレクサンドロヴィチ・レフチェンコロシア語: Станислав Александрович Левченко, ラテン文字転写: Stanislav Alexandrovich Levchenkoスタニスラーフ・アリクサーンドラヴィチュ・リェーフチェンカ1941年 - )は、1979年ソ連からアメリカ合衆国へ亡命した元ソ連国家保安委員会(KGB)少佐である。1989年にアメリカ国籍を取得。

経歴[編集]

KGB[編集]

レフチェンコは、第二次世界大戦中の1941年にモスクワで生まれ、1964年にモスクワ大学東洋学部を卒業する。

漁業研究所に勤務していたが、大学で日本語英語を身につけたことを買われ、1968年にKGB入り。KGB大学校で情報工作課程と日本語課程を受け、KGB第1本部第7部に配属された。この間、日本万国博覧会の際などにKGB高官の日本語通訳として、東京大阪に何回か出張している。

1975年にはKGB東京代表部に赴任。カバーの役職はソ連誌Новое Времяの東京特派員であった。KGB東京代表部ではPR班に所属し、積極工作に従事していた。積極工作とは、ジャーナリストなどと接触し、その国の世論が親ソ的なものになるよう謀略をしかけることである。レフチェンコは、渋谷マンションに住居を構え、日本の政財界、官僚ジャーナリストなどの人物を情報提供者としたスパイ網を構築した。

亡命[編集]

1979年10月に、東京都内にあるアメリカ軍関係者用ホテルである山王ホテルへ駆け込み、亡命を申請しアメリカへ亡命した。ソ連の法廷は1981年にレフチェンコを徹底的に非難した他、ソ連共産党国際部日本課長のイワン・コワレンコはその著書内でレフチェンコを「性格に問題がある嘘つき」と非難した。

さらにKGBエージェントのスヴェトラーナ(Svetlana Ogorodnikov)とニコライ(Nikolai Ogorodnikov)はアメリカでレフチェンコを探し出そうとしたが、これらの試みは「リチャード・ミラー・スパイ事件(Richard Miller spy case)」で露見することとなった。

レフチェンコ事件[編集]

1982年12月にはアメリカ議会などで、KGBによる日本のスパイ組織網に関する証言を行い、さらにKGBの日本人協力者およそ200人の名前を供述した。協力者リストには、自由民主党石田博英労働大臣日本社会党勝間田清一委員長などの政治家テレビ朝日専務三浦甲子二産経新聞編集局長の山根卓二などジャーナリスト、外交官内閣調査室など情報機関員の名前が記載されていた。

自伝[編集]

レフチェンコは自叙伝On the Wrong Side: My Life in the KGB1988年に出版した。

関連項目[編集]

脚注[編集]