宮城与徳
宮城 与徳(みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本の洋画家、左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連のスパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。
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[編集] 生涯
沖縄県名護市生まれ。沖縄師範学校中退後、1915年に渡米する。カリフォルニア州立美術学校、サンディエゴ市立美術学校卒業。在学中に社会主義運動に傾注し、1925年、社会問題研究会を屋部憲伝らと結成。1931年、アメリカ共産党に入党する。1932年合同国家政治保安部(OGPU)のエイチンゴンの徴募に応じ、情報活動の訓練を受けた。
アグネス・スメドレーの工作により、1933年コミンテルンの指示で(アメリカ共産党員木元伝一に指示されて)帰国、10月24日に横浜に到着し、同年末フランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲとブランコ・ド・ヴーケリッチに上野美術館で接触する。
当初は、「ジョンソン」の任務を共産主義の宣伝活動であると聞かされていたため、諜報活動に従事することを拒否していたが、ゾルゲの説得に負け、翌1934年1月末にスパイ活動を行うことを決意する。その後、近衛内閣嘱託の尾崎秀実らと国際的な諜報活動をはじめる。当初は情報の日本文を英文に翻訳することだけに使われていたが、後に情報収集を行うようになった。1936年3月、共産主義者の三田村四郎の内縁の妻であった九津見房子と知り合い、情を通じたうえ情報収集の補助者とした。また、元日本共産党員の山名正実、田口右源太および共産主義者で医師の安田徳太郎を情報収集員とした。さらに、アメリカで知り合った秋山幸治を英訳の補助者として1934年6月ごろから報酬を与えた。宮城のアメリカでの情婦であった北林トモは、1936年12月、夫を騙して宮城の後を追って帰国し、渋谷の洋裁店に勤めながら、宮城の情報収集員となった。これらの6人はいずれもゾルゲの承認を受けていなかった[1]。
1941年に検挙され、1943年に巣鴨拘置所において結核のため獄死。
[編集] 評価
軍人の肖像画を描かせたら秀逸との評価があるが、生前は国内ではほとんど無名に近い画家であった。
ソ連のために働いた功績からソ連政府より勲章と表彰状を受けたとされていたが、近年その存在が確認された。それを受けて、ロシア政府は与徳の親族らに勲章と賞状を授与した[2]。遺族や関係者は、平和活動と評価されあわせて名誉が回復したなどと述べている。
[編集] 親族
従兄の宮城与三郎は、1932年にアメリカでアメリカ共産党党員として活動していたことから逮捕追放され、ソ連に渡った。しかし、多くの在ソ日本人共産主義者同様大粛清に巻き込まれ、1938年日本のスパイの疑いで銃殺されている。
[編集] 脚注
- ^ 竹内春夫『ゾルゲ謀略団』
- ^ 与徳の勲章ロシアで発見、初確認、親族に授与へ(沖縄タイムズ2010年(平成22年)1月13日配信)