キム・フィルビー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ハロルド・エイドリアン・ラッセル
“キム”フィルビー
キム・フィルビーを顕彰するソ連切手 
(1990年発行)
生誕 1912年1月1日
イギリスの旗 イギリス イギリス領インド帝国、アンバラ
死没 Flag of the Soviet Union.svgソビエト連邦モスクワ
1988年5月11日
職業 MI6
イギリス外務連邦省
KGB

ハロルド・エイドリアン・ラッセル“キム”フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby:1912年1月1日 - 1988年5月11日)は、イギリスMI6工作員でソ連KGBの協力者。「ケンブリッジ5人組」のうちの1人として知られる。ケンブリッジ5人組の中でも、特にフィルビーはMI6の長官候補まで昇りつめるなど中心的存在とされ、彼らの活動によりイギリスの対ソ協力者網は大きな打撃を受けたとされる。「キム」は、ラドヤード・キップリングの小説の主人公にちなむニックネーム。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

イギリス領インド帝国のアンバラ(Ambala)で、著名なアラブ学者ジョン・フィルビーを父として生まれる。1929年に、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。当時多くの学生が、新たに出現した思想である「マルクス主義」にかぶれたが、フィルビーも例外ではなかった。

ソ連のスパイ[編集]

ケンブリッジ大学時代に、フィルビーと彼の友人達(アントニー・ブラントガイ・バージェスドナルド・マクリーン)はソビエト情報機関に徴募されたものと考えられている。後にフィルビーは「ソビエトのエージェントとなることに一秒の迷いもなく、大きな名誉だ」と回想している。

1933年にフィルビーはヨーロッパ諸国を歴訪した。ウィーンでは、コミンテルンと社会主義地下組織間の連絡役となった。ここで、共産主義者のアリス・フリードマンと結婚し、オーストリアハンガリー間を行き来した。暫く後に帰国し、自由主義的な雑誌「レビュー・オブ・レビュース」の編集長となり、「英独同胞」組織の依頼により、ソ連にとって価値ある情報を出版し始めた。

MI6[編集]

スペイン内戦時にフィルビーはイギリスのタイムズ紙の記者として、ドイツが支援していたフランシスコ・フランコ軍の本部を取材し、様々な情報をソ連へと流した。テルエルの戦い中の1937年12月にはテルエル近郊で砲撃を受けて負傷しているが、これはフィルビーのスパイ行為に勘付いた同僚の記者を暗殺するための自作自演であるとも言われている[1]1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、イギリスが参戦した翌年の1940年までに、バージェスの助けでMI6に入り、防諜部ピレネー課長に就任。

その後フィルビーは1944年にMI6の部長となり、ソビエト情報機関への防諜活動に従事した。この結果、MI6の全作戦計画は適時にソ連に流れるようになった。フィルビーは非常に警戒深く行動し、何ら疑われることなくMI6における働きが評価され勲章すら受章した。

1945年に駐イスタンブールのソ連副領事で、実際にはソ連情報機関の駐トルコ副代表であるコンスタンティン・ヴォルコフがイギリスへの亡命を申し出た。これに対してフィルビーは「ヴォルコフを個人的に尋問する」と称して、直ちにイスタンブルに向かった。フィルビーはヴォルコフの亡命を阻止すべく活動し、その結果ソ連はヴォルコフを奪還し飛行機でトルコから連れ出した。その後間もなくヴォルコフは拷問の末にモスクワで処刑された。

1947年にフィルビーは、駐トルコのイギリス大使館一等書記官に任命され、この際にトルコのアメリカ空軍のインシルリク基地の情報をソ連に引き渡した。2年後にフィルビーはアメリカのワシントンD.C.に赴任し、MI6支局長として米国の情報機関との連絡役になる。間もなく、駐米国のイギリス大使館二等書記官に任命されたバージェスもワシントンD.C.にやって来た。

戦後エンヴェル・ホッジャによって共産主義が確立していたアルバニアにおいては、英米による政権転覆作戦が試みられようとしていた。しかしこれは本作戦を察知したフィルビーがホッジャに内通することで失敗をみた。

疑惑[編集]

1951年初めにフィルビーは、CIAMI5が、フックス及びローゼンバーグ事件の捜査中にバージェスとマクリーンにソ連の協力者であるという疑いを持ったことを知った。その後フィルビーはバージェスとマクリーンに、2人に向けられた容疑について知らせた。これを受けてバージェスは、召還を早めるために意図的に交通違反を繰り返した。イギリスに帰国した後の5月25日に、バージェスとマクリーンはフランスチェコスロバキアプラハ)を経由してソ連に亡命した。

フィルビー自身も、バージェスとマクリーンに「警告」したという嫌疑がかけられイギリスの本省に召還された。しかし証拠不十分のため、処分はMI6から解任されるだけにとどまり、ジャーナリストとなり、オブザーバー及びエコノミストの中東特派員としてレバノンベイルートで働き始めた。

1954年にソ連からイギリスに亡命したV.ペトロフが、「1951年初めにロンドンで、マクリーンが秘密文書をKGBのエージェントに手渡すのを見た」とMI6職員に伝えた。しかしながらバージェスとマクリーンはスパイ活動への関与を否定し、記者会見において「亡命の動機はマルクス主義への信奉のみだ」と表明した。

ソ連への亡命[編集]

1962年末にソ連からイギリスに亡命したアナトリー・ゴリツィンによる様々な証言により、フィルビーがソ連のスパイではないかという疑いが強まり、フィルビーはイギリス当局によりベイルートで再三尋問され、その結果スパイ活動を間接的に認めた。その直後の1963年1月23日にフィルビーは、ソビエトの汽船でベイルートからオデッサに向かった。

同年7月1日に「イズヴェスチヤ」紙は、「フィルビーがソ連政府に亡命を要請した」と報道した。その後フィルビーはKGBにおいて、イギリス担当顧問として働いた。1965年にソ連政府から赤旗勲章を、1970年には名誉称号勲章を、1980年レーニン勲章を授与され、ソ連邦が崩壊し冷戦が終結する2年前の1988年に死去した。

出典[編集]

関連書籍[編集]

外部リンク[編集]