キム・フィルビー
| ハロルド・エイドリアン・ラッセル “キム”フィルビー |
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キム・フィルビーを顕彰するソ連切手
(1990年発行) |
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| 生誕 | 1912年1月1日 |
| 死没 | 1988年5月11日 |
| 職業 | MI6職員 イギリス外務省職員 KGB顧問 |
ハロルド・エイドリアン・ラッセル“キム”フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby:1912年1月1日 - 1988年5月11日)は、イギリス、ソ連の職業的諜報員。元MI6職員、二重スパイ、「ケンブリッジ5人組」のうちの1人として知られる。ケンブリッジ5人組の中でも、特にフィルビーはMI6の長官候補まで昇りつめるなど中心的存在とされ、彼らの活動によりイギリスの対ソ諜報網は大きな打撃を受けたとされる。「キム」は、ラドヤード・キップリングの小説の主人公にちなむニックネーム。
目次 |
経歴 [編集]
生い立ち [編集]
イギリス領インド帝国のアンバラ(Ambala)で、著名なアラブ学者ジョン・フィルビーを父として生まれる。1929年に、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学。当時多くの学生が、新たに出現した思想である「マルクス主義」にかぶれたが、フィルビーも例外ではなかった。
ソ連のスパイ [編集]
ケンブリッジ大学時代に、フィルビーと彼の友人達(アントニー・ブラント、ガイ・バージェス、ドナルド・マクリーン)はソビエト諜報部に徴募されたものと考えられている。後にフィルビーは「ソビエトのエージェントとなることに一秒の迷いもなく、大きな名誉だ」と回想している。
1933年にフィルビーはヨーロッパ諸国を歴訪した。ウィーンでは、コミンテルンと社会主義地下組織間の連絡員となった。ここで、共産主義者のアリス・フリードマンと結婚し、オーストリアとハンガリー間を行き来した。暫く後に帰国し、自由主義的な雑誌「レビュー・オブ・レビュース」の編集長となり、「英独同胞」組織の依頼により、ソ連にとって価値ある情報を出版し始めた。
MI6 [編集]
スペイン内戦時にフィルビーはイギリスのタイムズ紙の記者として、ドイツが支援していたフランシスコ・フランコ軍の本部で働き、様々な情報をソ連へと流した。テルエルの戦い中の1937年12月にはテルエル近郊で砲撃を受けて負傷しているが、これはフィルビーのスパイ行為に勘付いた同僚の記者を暗殺するための自作自演であるとも言われている[1]。1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、イギリスが参戦した翌年の1940年までに、バージェスの助けでMI6に入り、防諜課ピレネー班を率いた。
その後フィルビーは1944年にMI6の課長となり、ソビエト諜報部対策に従事した。この結果、MI6の全作戦計画は適時にソ連に流れるようになった。フィルビーは非常に警戒深く行動し、何ら疑われることなくMI6における働きが評価され勲章すら受章した。
1945年にソ連の駐トルコ外交官で、実際にはソ連の諜報員であるコンスタンティン・ヴォルコフがイギリスへの亡命を申し出た。これに対してフィルビーは「ヴォルコフを個人的に尋問する」と称して、直ちにイスタンブルに向かった。フィルビーはヴォルコフの亡命を阻止すべく活動し、その結果ソ連はヴォルコフを奪還し飛行機でトルコから連れ出した。その後間もなくヴォルコフは拷問の末にモスクワで処刑された。
1947年にフィルビーは、駐トルコのイギリス大使館の一等書記官に任命され、この際にトルコのアメリカ空軍のインシルリク基地の情報をソ連に引き渡した。2年後にフィルビーはアメリカのワシントンD.C.に赴任し、英米諜報機関の活動を保障することとなった。間もなく、イギリス大使館の二等書記官に任命されたバージェスもワシントンD.C.にやって来た。
戦後エンヴェル・ホッジャによって共産主義が確立していたアルバニアにおいては、英米による政権転覆作戦が試みられようとしていた。しかしこれは本作戦を察知したフィルビーがホッジャに内通することで失敗をみた。
疑惑 [編集]
1951年初めにフィルビーは、CIAとMI5が、フックス及びローゼンバーグ事件の捜査中にバージェスとマクリーンにソ連のスパイであるという疑いを持ったことを知った。その後フィルビーはバージェスとマクリーンに、2人に向けられた容疑について知らせた。これを受けてバージェスは、召還を早めるために意図的に交通違反を繰り返した。イギリスに帰国した後の5月25日に、バージェスとマクリーンはフランスとチェコスロバキア(プラハ)を経由してソ連に亡命した。
フィルビー自身も、バージェスとマクリーンに「警告」したという嫌疑がかけられイギリスの本省に召還された。しかし証拠不十分のため、処分はMI6から一時的に罷免されるだけにとどまり、その後2つの新聞社の記者としてレバノンのベイルートで働き始めた。
1954年にソ連からイギリスに亡命したV.ペトロフが、「1951年初めにロンドンで、マクリーンが秘密文書をKGBのエージェントに手渡すのを見た」とMI6職員に伝えた。しかしながらバージェスとマクリーンはスパイ活動への関与を否定し、記者会見において「亡命の動機はマルクス主義への信奉のみだ」と表明した。
ソ連への亡命 [編集]
1962年末にソ連からイギリスに亡命したアナトリー・ゴリツィンによる様々な証言により、フィルビーがソ連のスパイではないかという疑いが強まり、フィルビーはイギリス当局によりベイルートで再三尋問され、その結果スパイ活動を間接的に認めた。その直後の1963年1月23日にフィルビーは、ソビエトの汽船でベイルートからオデッサに向かった。
同年7月1日に「イズヴェスチヤ」紙は、「フィルビーがソ連政府に亡命を要請した」と報道した。その後フィルビーはKGBにおいて、イギリス担当顧問として働いた。1965年にソ連政府から赤旗勲章を、1970年には名誉称号勲章を、1980年にレーニン勲章を授与され、ソ連邦が崩壊し冷戦が終結する2年前の1988年に死去した。
出典 [編集]
- ^ “「シリーズ ゲルニカをめぐる3つのエピソード」 そのⅠⅠ ゲルニカ爆撃の報道”. 2012年8月30日閲覧。
関連書籍 [編集]
- キム・フィルビー『プロフェッショナル・スパイ―英国諜報部員の手記』(笠原佳雄 訳)徳間書店 1969年)
- グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(宇野利泰訳 早川書房、1979年)