秋葉忠利
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あきば ただとし
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| 生年月日 | 1942年11月3日(66歳) |
| 出生地 | 東京府東京市 |
| 出身校 | マサチューセッツ工科大学大学院 東京大学大学院 東京大学理学部 |
| 前職 | 大学教授 |
| 所属政党 | 無所属 |
| 称号 | 博士 修士 理学士 |
| 世襲の有無 | 無 |
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| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1999年2月23日 - |
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| 選挙区 | 広島県第2区 |
| 当選回数 | 3回 |
| 任期 | 1990年2月 - 1999年1月 |
| 退任理由 | 広島市長選挙出馬 |
秋葉 忠利(あきば ただとし、1942年11月3日 - )は、数学者、政治家(広島市長・衆議院議員)。東京都(出生当時は東京市)荒川区出身。
東京大学において数学を専攻し、1966年卒業、1968年修士号を取得。マサチューセッツ工科大学のジョン・ウィラード・ミルナー の下で研究を続け、1970年に博士号を取得。以降、ニューヨーク州立大学(1970年)、タフツ大学(1972年 - 1976年)、広島修道大学(1986年–1997年)で教鞭を執る。専門領域は、トポロジー論分けてもホモトピー論であった。後にCNNデイウォッチのキャスターも務めた。
目次 |
国会議員時代
日本社会党(後に社民党)に属し1990年の第39回衆議院議員総選挙に大原亨の後継者として立候補して初当選。連続当選3回。1993年社会党シャドーキャビネット科学技術委員長、1996年の最後の日本社会党委員長選挙では現職委員長村山富市に惨敗。第41回衆議院議員総選挙は比例復活。この間に社民党の政審会長などを歴任している。旧民主党結党時に多くの議員が社民党を去った時も残留した。
広島市長選挙
1999年に衆議院議員を辞職し広島市長選へ出馬、自民推薦の元厚生省官僚(広島市助役)の大田晋や広島市議会議長経験者など新人5人との激戦を戦い初当選。1999年2月に市長就任、2003年は、再び自民推薦・公明支持の大田晋と古葉竹識の保守系2候補らを破り再選された。2007年は自民推薦・公明支持の柏村武昭前参議院議員と多くの広島市議の支持を受けた大原邦夫元広島市議の保守系2候補らを大差で破り3選を果たした。
いずれの選挙も秋葉は最後に立候補を表明したが、抜群の知名度によって再選できた。たとえば2度目は元広島東洋カープ監督だった古葉が立候補したが、大差でよせつけなかった。また3度目は広島県選出の自民党有力者である中川秀直が党中央による落下傘候補として擁立した柏村を参議議員の任期終了直前に辞職させたうえで出馬させたに対し、自民党系広島市議の大半が党中央に反逆し大原を応援するという、保守分裂選挙選挙になった。この時の柏村は得票順3位と惨敗した。
平和活動
平和市長世界会議の議長として役目を果たすなど、活発な平和活動を展開している。 2003年6月、金正日国防委員長に8.6平和記念式典の招待状を郵送した事が話題になった。2007年4月に広島平和文化センターの理事長に米国人スティーブン・リーパーを起用し、展示内容の見直しを指示、展示内容を見直す検討委員会に、中国、韓国人らアジア出身の委員の起用し、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設」(中国新聞)への変更を推進している。
テレビ出演
- 国会議員時代に、開運!なんでも鑑定団の国会議員のお宝鑑定(出張!なんでも鑑定団のコーナー)で、広島藩主の書を出品、真筆であったが金額は振るわなかった。
著作
- 『真珠と桜―「ヒロシマ」から見たアメリカの心』 1986年
- 『アメリカ人とのつきあい方』 1989年
- 『報復ではなく和解を―いま、ヒロシマから世界へ』 2004年
- 『元気です、広島―市民が創る豊かな未来』 2006年
- 『コンピュータ・パワー―人工知能と人間の理性』 1979年(翻訳)
他
外部リンク
- 市長のプロフィール (公式サイト)
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