大谷祖廟

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大谷祖廟
Ootani sobyo01n4272.jpg
所在地 京都府京都市東山区円山町477
位置 本堂
北緯35度0分7.8秒
東経135度46分57.5秒

御廟
北緯35度0分7.1秒
東経135度46分58.7秒
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
創建年 大谷廟堂 - 文永9年(1272年)
大谷祖廟 - 寛文10年(1670年)
別称 東大谷
公式HP 東本願寺・参拝のご案内「大谷祖廟」
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大谷祖廟(おおたにそびょう)は、京都府京都市東山区にある真宗大谷派(本山:東本願寺)の宗祖である親鸞墳墓の地である。墳墓は「御廟」と呼称される。通称は、「東大谷[1]」。江戸時代は「大谷御坊」と呼称される。

境内の「本堂」と「御廟」、ならびに大谷祖廟に隣接する「東大谷墓地」には絶えることなく参拝者が訪れる。

概要[編集]

境内[編集]

本堂
本尊である阿弥陀如来立像を安置する。
御廟
宗祖親鸞ならびに「真宗大谷派御歴代」の墓所。
表唐門
総門・四脚御門とも。東大谷参道側の門。
太鼓堂
かつては、2階部分の太鼓で時間を知らせていた。現在は、時計が普及したため使用せず。
定例法話の会場として使用する。
賀慶殿
茶所

行事[編集]

花まつり
4月1日〜8日に開催。
暁天講座
8月1日〜5日(毎朝6:30〜7:30)に催される早朝法座。
「東大谷万灯会」(ひがしおおたにまんとうえ)
8月14日〜16日に、「大谷祖廟」と「東大谷墓地」において催される。
期間中の18:00〜21:00には、吊るされた約1万個の提灯の蝋燭に火が灯される。
期間中の19:00〜20:00に、本堂において「万灯会お盆法要」を厳修する。
報恩講
9月27日・28日
定例法話
先門首の命日である13日と、宗祖親鸞の命日である28日に「太鼓堂」にて開催される法話会。
8月13日・9月28日・11月28日・12月28日は休会。

年表[編集]

弘長2年11月28日1263年1月9日)、押小路南 万里小路東[2]にある実弟の尋有が院主を務める「善法院」[3] にて、享年90(満89歳)をもって入滅する。

荼毘の地については、親鸞の曾孫で本願寺第三代覚如の『御伝鈔』に「鳥部野[4]の南の辺、延仁寺に葬したてまつる」と記されている。大谷派は、「延仁寺」(京都市東山区今熊野)にて荼毘に付されたとしている[5]。現在の「延仁寺」は、第二十一代嚴如が再興したもの。

文永9年(1272年)、東国にいる親鸞の弟子たちの協力を得た覚信尼により、「大谷」から「吉水の北辺」に改葬し「大谷廟堂」が建立される。

元応3年(1321年)、「大谷廟堂」は覚如によって寺院化され、「本願寺[6]」と号し成立する。

寛正6年(1465年)、延暦寺西塔の衆徒らによって「大谷本願寺」が破却される。

破却後は、井上願知によって祖墳が守護され「大谷道場」と称した。

天文元年(1532年)、「山科本願寺」が破却される(天文の錯乱)。「大谷道場」も破却される。願知の子孫・祐願によって復興。

元亀2年(1571年)、石山合戦に際し「大谷道場」が破却される。

天正17年(1589年)、祐願の妻・妙祐と子息・祐誓、「大谷道場」の復興にあたって豊臣秀吉から地銭免除の朱印状を受ける。

慶長5年(1600年)、知恩院の造営に先立って、東本願寺第十二代教如は、祐誓に「大谷道場」の御堂の移築を命じる。祐誓は、御堂を四条富小路へ移築し「徳勝寺[7]」を創建する。

慶長8年(1603年)、知恩院拡張造営に際して祐誓の妹婿の善了の申し出により、親鸞荼毘の「延仁寺」の旧地と伝えられる鳥部山に代替地を拝領し、大谷道場を改めて「勝久寺」を創建した。

旧地には知恩院塔頭「崇泰院」が建立されたが、知恩院作事奉行の一人、勝誉道清によって祖墳遺跡が残されることになる。

寛永16年(1639年)、勝久寺は西本願寺に属する。

その後、勝久寺は西本願寺の親鸞廟所として整備され、「大谷本廟」(西大谷)となる。

大谷本願寺旧跡由緒の勝久寺が西本願寺の傘下に入ったことにより、第十四代琢如の代になって、東本願寺では新祖廟造営が求められるようになる。

慶長7年(1602年)、本願寺の東西分立に際して、教如は東本願寺境内に親鸞、および本願寺歴代の仮墓を建立する。

寛文10年(1670年)、第十四代琢如は、東本願寺境内の親鸞、および本願寺歴代の仮墓を教如・宣如の両墓と共に現在地に移し、「大谷御坊」と称する。

元禄12年(1699年)、第十六代一如は、祖廟の改築に着手する。

元禄13年4月12日1700年5月30日)、一如が入滅する。入滅にともない改築工事は一時中断となる。

元禄14年(1701年)、第十七代真如は、一如の一周忌厳修の後に改築工事を再開し、本堂が完成する。同年に祖墳の改葬を行う。

元禄16年(1703年)、真如、遷仏会を行う。

宝永6年(1709年)、虎石を祖墳上に置く。

延享2年(1745年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗より一万坪の寄付を受け、寺基を拡充する。

文政3年(1820年)、大谷新道を開く。

安政4年(1857年)、大谷新道南北の畑地を買い取る。

明治5年(1872年)、「大谷管刹」(おおたにかんさつ)と改称する。

明治9年(1876年)、「大谷別院」と改称する。

昭和27年(1952年)、東本願寺の飛地境内[8]と定められて「大谷本廟」と改称する。

昭和56年(1981年)、現名称である「大谷祖廟」となる。

東本願寺は江戸時代に四度の火災に遭っているが、その際には大谷祖廟が御真影(親鸞の影像)の避難所となった。文政6年(1823年)の2度目の火災は11月15日であったため、この年の11月21日から28日までの七昼夜の御正忌報恩講は大谷祖廟において勤められた。

平成22年(2010年)、「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」の記念事業「大谷祖廟木造諸建物整備事業」の一環として「本堂」と「表唐門」(「総門」)を修復する[9]

表唐門の修復工事の際に、屋根内部より「文久二年壬戌歳 二月廿日上棟 四脚御門建立」と記された棟札が発見される。それまでは「上壇間日記[10]」の記録から、唐門(四脚御門)は安政4年以降に東本願寺から移築されたものと考えられていた。しかし、安政5年(1857年)の東本願寺焼失により移築予定の門も焼失したため、現存する「表唐門」は新築されたことが確定する[9]

アクセス[編集]

鉄道

バス

脚注[編集]

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  1. ^ 東大谷…京都市東山区内に、浄土真宗本願寺派西本願寺)が親鸞の墓所としている「大谷本廟」があり、便宜上本願寺派の墓所を「西大谷」・大谷派の墓所を「東大谷」と通称する。
  2. ^ 押小路南 万里小路東…「おしこうじみなみ、までのこうじひがし」と読む。
  3. ^ 入滅の地である「押小路南・万里小路東の善法院〈善法坊〉」には諸説ある。本願寺派は、「善法坊」の場所を西の万里小路とし、善法院を再興する(現、本願寺派角坊別院)。大谷派は、「善法院」の場所を「親鸞ヶ原」と呼ばれるようになった地に建立された法泉寺の跡地(現、京都市立京都御池中学校〈虎石町〉)付近として、「見真大師遷化之旧跡」の石碑を建立する。〔また、光円寺(京都市下京区)で入滅され、何等かの理由により善法院に御遺体を移されたとする説もある。〕
  4. ^ 鳥部野…とりべの
  5. ^ 延仁寺…浄土真宗本願寺派は、鳥辺山南辺(現在の大谷本廟の「御荼毘所」)にて荼毘に付されたとしている。
  6. ^ 本願寺…元応3年〜寛正6年「大谷本願寺」と呼ぶ場合がある。
  7. ^ 徳勝寺…現在は、「徳正寺」。真宗大谷派に所属する寺院
  8. ^ 京都観光Navi:大谷祖廟”. 京都市産業観光局観光部観光企画課. 2010年8月26日閲覧。
  9. ^ a b 「大谷祖廟整備事業」表唐門(総門)から棟札『同朋新聞』2010年8月1日、第5面を参照。
  10. ^ 上壇間日記…東本願寺に残る当時の事務記録。

参考文献[編集]

  • 細川行信 『大谷祖廟史』(東本願寺出版部)1953
  • 『同朋新聞』第633号、真宗大谷派宗務所、2010年8月。

関連項目[編集]

近隣情報[編集]

外部リンク[編集]