小林一茶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
小林一茶
Kobayashi Issa-Portrait.jpg
小林一茶の肖像(村松春甫画)
誕生 1763年6月15日
信濃国北国街道
死没 1828年1月5日
職業 俳諧師
ジャンル 俳句
代表作 雪とけて村いっぱいの子どもかな
Portal.svg ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日1763年6月15日)- 文政10年11月19日1828年1月5日))は、江戸時代を代表する俳諧師の一人。本名を小林弥太郎。別号は、圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など。[1][2]

経歴[編集]

小林一茶の住んだ土蔵(長野県信濃町)
一茶が逗留した久保田家の離れ屋(長野県高山村)

宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)の中農の長男として生を受ける。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎える。継母に馴染めず、安永6年(1777年)、14歳の時、江戸へ奉公に出る。

25歳のとき小林竹阿(二六庵竹阿)に師事して俳諧を学ぶ。[3]

寛政3年(1791年)、29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の修行のため近畿四国九州を歴遊する。

享和元年(1801年)、39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去、以後遺産相続の件で継母と12年間争う。父の発病から死、初七日を迎えるまでの約1ヶ月を描いた「父の終焉日記」は、私小説の先駆けと言われる。

文化9年(1812年)、50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻きくを娶り、3男1女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に一番上の子供は生後数週間で亡くなった。きくも痛風がもとで37歳の生涯を閉じた。62歳で2番目の妻(田中雪)を迎えるが半年で離婚する。64歳で結婚した3番目の妻やをとの間に1女・やたをもうける(やたは一茶の死後に産まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。1873年に46歳で没)。

残された日記によれば、結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語障害を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった[4]

文政10年6月1日(1827年7月24日)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の11月19日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不退位。[5]

俳号「一茶」の由来[編集]

『寛政三年紀行』の巻頭で「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」と一茶自身が記している。

作品[編集]

作風[編集]

正岡子規は「俳人一茶」(1897)の「一茶の俳句を評す」の中で「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。」と述べている。 幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風をはじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が目を引く。その作風は与謝蕪村の天明調に対して化政調と呼ばれる。

代表的な句[編集]

  • 雪とけて村いっぱいの子どもかな
  • 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
  • めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
  • やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
  • 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
  • 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
  • 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
  • やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
  • 名月をとってくれろと泣く子かな
  • これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
  • うまさうな雪がふうはりふうはりと
  • ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
  • 我ときて遊べや親のない雀

一茶の作った句の数[編集]

一茶のつくった句は約2万句と言われ、芭蕉の約1000句、蕪村の約3000句に比べ非常に多い。最も多くの俳句を残したのは、正岡子規で約24000句であるが、一茶の句は類似句や異形句が多いため、数え方によっては、子規の句数を上回るかもしれない。よく知られている「我と来て遊べや親のない雀」にも、「我と来て遊ぶや親のない雀」と「我と来て遊ぶ親のない雀」の類似句があり、これを1句とするか3句とするかは議論の分かれるところである。

現代の一茶研究で最も権威のある『一茶全集』第1巻(信濃毎日新聞社、1979年)には、一茶のほぼ全作品が収録されている。なお、その後の発行された『一茶発句総索引』(信濃毎日新聞社、1994年)で、198句が新出句として追加されるとともに、『一茶全集』第1巻に久保田兎園等の句が40数句あったと記述されている。一茶の句の発見は、これ以後も続き今日に至る。

平成に発見された一茶の句[編集]

  • ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
  • けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
  • 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
  • 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
  • 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
  • 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
  • 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)

代表句集等[編集]

生前の一茶の著書には、「旅拾遺」「さらば笠」「三韓人」などがあるが自身の俳書はない。 著名な「一茶発句集」「おらが春」は没後に刊行されたもので、「寛政三年紀行」「父の終焉日記」「我春集」「株番」「志多良」もいずれも遺稿である。 また、「寛政句帖」「享和句帖」「文化句帖」「七番日記」「八番日記」「文政句帳」など克明な記録は、いずれも出版を意図して書かれたものではなく、一茶のプライバシーまでも公にしてしまっている。

など

小林一茶の登場する作品[編集]

小説
映画・テレビ等
  • 「信濃風土記より 小林一茶」 1941年16mm 製作:東宝 監督:亀井文夫、解説:徳川夢声
  • 「一茶と歩む 信濃奥紀行」 1998年 DVD テイチクエンタテインメント、ナレーション・歌:さだまさし
  • おらが春」(2002年、NHK正月時代劇) - 小林一茶:西田敏行
  • 「まんが偉人物語 小林一茶」(1978年、毎日放送 TBS)

資料館・博物館[編集]

一茶記念館(長野県信濃町)

脚注[編集]

  1. ^ 一茶の誕生日は、9月4日という説もある(矢羽勝幸『小林一茶ー人と文学ー』(勉誠出版2004)
  2. ^ 俳号を読んだ句に*春立や弥太郎改一茶坊(七番日記、文政元年)*鶯よけさは弥太郎事一茶(七番日記、文政元年)*春立や弥太郎改はいかい寺(八番日記、文政2年)
  3. ^ 論拠不詳であるが、藤沢周平著『一茶』では、小林竹阿には実際会ったこともなく、弟子というのは一茶の詐称との記述がある。
  4. ^ 大場俊助「一茶性交の記録―七番日記・九番日記より」 『新編秘められた文学 - 国文学解釈と鑑賞』 第48巻5号 1983年3月臨時増刊号
  5. ^ 一茶の菩提寺は浄土真宗本願寺派明専寺である。大正時代に火災にあい、鐘楼を除き当時のものは残っていないが、この寺と親戚関係にある長野県高山村にある徳正寺の寛政期に建造された本堂は、同じ棟梁により建造されたもので明専寺と全く同じ造りで当時をしのぶことができる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]