アダム・ラクスマン
アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(露:Адам Кириллович Лаксман、瑞:Adam Laxman、1766年 - 1806年以降)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の軍人で陸軍中尉、北部沿海州ギジガ守備隊長。父はフィンランド生まれの博物学者キリル・ラクスマンで、漂流民大黒屋光太夫の保護と帰国に尽力した人物。アダム・ラックスマンと表記されることも多い。
事績 [編集]
1789年にフランス革命が始まり、その影響がオランダ共和国にも及ぶようになると、極東で1643年にオランダが領土宣言をした千島列島[1]の所有権が揺らぎ始め、ロシアに南下のチャンスを与えた。
同年、アダム・ラクスマンはペテルブルク大学から派遣されてシベリアのイルクーツクに滞在中、伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となり、1792年9月にオホーツク海を出発して根室国に到着した。
一方、1792年4月20日にフランス革命軍がオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、オランダも戦場となり、極東ではオランダ領千島の防衛が手薄になった。
幕府は遣日使節に応対した松前藩から、ラクスマンが江戸に出向いて漂流民を引き渡し、通商交渉をおこなう意思が強いことを知らされた。しかし、老中松平定信らは、ラクスマンを箱館に廻航させて漂流民の身柄を受け取ること、シベリア総督の信書は受理せず、もしどうしても通商を望むならば長崎に廻航させることを指示、そのための宣諭使として目付石川忠房を派遣することを決めた。
この結果、ラクスマンらは1793年6月、箱館に入港して上陸し、松前に赴いて光太夫と北浜磯吉の2人[2]を日本側に引き渡した。宣諭使と交渉の末、ラクスマンは長崎への入港許可証(信牌)を交付された。6月30日に松前を去り、7月16日に箱館を退去したラクスマンは、長崎へは向かわずオホーツクに帰港した。
帰国後は1794年、女帝に日本に関する様々な書物や名品を献上したことを賞賛されて、大尉に昇進した。1796年のエカチェリーナ2世の死去により失脚したのか、以降の消息は不明であるが、1806年に『ラクスマン日本渡航日記』を完成させていることから、少なくともそれまでは生存していたものと思われる。
脚注 [編集]
- ^ 根室市‐学芸員日誌‐「最初の千島探検」
- ^ この間に小市は根室で病死している。