松平定信

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松平 定信
Matsudaira Sadanobu 2.jpg
松平定信自画像[1] 鎮国守国神社所蔵 天明7年(1787年)
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦8年12月27日1759年1月15日
死没 文政12年5月13日1829年6月14日
改名 徳川賢丸(幼名)→松平定信
別名 楽翁、花月翁、風月翁(号)、
白河楽翁、たそがれの少将
諡号 守国公
神号 守国大明神
戒名 守国院殿崇蓮社天誉保徳楽翁大居士
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
官位 従五位下、上総介、越中守、従四位下、
侍従左近衛権少将
正三位[2]
幕府 江戸幕府老中首座・将軍輔佐
主君 徳川家斉
陸奥白河藩
氏族 田安徳川家久松松平氏[3]
父母 父:徳川宗武、母:香詮院
養母:近衛通子宝蓮院
養父:松平定邦
兄弟 小次郎銕之助友菊乙菊
治察定国定信
正室:松平定邦の娘
継室:隼姫加藤泰武の娘)
側室:貞順院
定永真田幸貫
福姫(松平定則正室)、
清昌院(諏訪忠恕正室)、
保寿院(加藤泰済正室)、
寿姫(牧野忠鎮正室→内藤信敦継室)、
蓁(松浦熙正室)、娘(松平輝健正室)
養子:養女加藤泰候の娘、松平信志正室)、
養女(真田幸貫の娘、朽木綱條継室)

松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代中期の大名老中陸奥白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫に当たる。

生涯[編集]

出生[編集]

宝暦8年(1758年)12月27日、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の7男として生まれる。実際の生まれは12月26日の亥の半刻(午後10時ころ)であったが[註 1]、田安徳川家の系譜では27日とされ、また「田藩事実」では12月28日とされている。宝暦9年(1759年)1月9日に幼名・賢丸(まさまる)と命名された[4]。生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩の家臣として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた[5]。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から4男までが早世し、正室の5男である徳川治察が嫡子になっていたため、同母兄の6男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中近衛氏(宝蓮院殿)が養母となった[6]

宝暦12年(1762年)2月12日、田安屋敷が焼失したため、江戸城本丸に一時居住する事を許された。宝暦13年(1763年)、6歳のときに病にかかり危篤状態となったが、治療により一命を取り留めた。しかし定信は幼少期は多病だった[4]

将軍候補[編集]

幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされた。白河藩の養子になった後もしばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。

一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である。

ただし、定信が白河藩の養子となった当時は、家治の世子の家基が健在で、この時点では定信が将軍後継になる可能性は絶無であり、かつ御三卿は庶子だけでなく世子や当主ですら他大名家への養子へ送り出されることが多かったため、定信の将軍世子候補の件は後世の付託の可能性がある。

同じ久松松平家の伊予松山藩松平定静が、田安家から定信の実兄定国を養子に迎えて溜詰に昇格していたため、定邦も溜詰という家格の上昇を目論んで定信を養子に迎えた。家督相続後、定信は幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。ただし、実現したのは老中を解任された後であった。

白河藩主就任[編集]

藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった。

教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。

文化においては1801年享和元年)、日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した。

寛政の改革[編集]

天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。

老中職には譜代大名が就任するのが江戸幕府の不文律である。確かに白河藩主・久松松平家は譜代大名であり、定信はそこに養子に入ったのでこの原則には反しない。家康の直系子孫で大名に取り立てられた者以外は親藩には列せられず、家康の直系子孫以外の男系親族である大名は、原則として譜代大名とされる。しかし、定信は吉宗の孫だったため、譜代大名でありながら親藩(御家門)に準じる扱いという玉虫色の待遇だったので、混乱を招きやすい。

前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商人による縁故中心の利権賄賂政治から、朱子学に基づいた重農主義による飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。

一方で、『海国兵談』を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、田沼時代の蝦夷地開拓政策を放棄したり、寛政異学の禁で朱子学だけを正統とし、幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせたという見方もある。しかし実際には、寛政の三博士の一人たる古賀精里の子・侗庵及びその子・茶渓ともに昌平黌に奉職しながら朱子学のみならず洋学・国際情勢にも通じ、特に茶渓は、蕃書調所設立を建白し実現させた人物であり、その見方は一面的といわざるを得ない。

ヨーロッパでは、1792年4月20日フランスオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島でオランダ東インド会社1643年に領土宣言[7]をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み[8]他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。

するとロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるのアダム・ラクスマン根室に来航した。

1793年、オランダの戦況はフランス軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がっていた。寛政5年(1793年)6月20日、定信は、光太夫とラクスマン一行を松前に招き、幕府として交渉に応ずるよう指示した。さらに、ロシアの貿易の要求を拒否しない形で、長崎のオランダ商館と交渉するようにという回答を用意し、また、光太夫を引き取るよう指示した。同年6月30日、ラクスマンは長崎へは行かずに帰路に就いた。

対外政策は緊迫した状況にあり、もしオランダがフランスに占領された場合、ロシアが江戸に乗り込んで来る可能性があり、あるいは千島領やオランダ商館の権利がフランスに移る可能性、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。定信は江戸湾などの海防強化を提案し、また朝鮮通信使の接待の縮小などにも努めた。

7月23日、定信は、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した[9]

定信辞任の2ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年11月11日(1795年1月1日)からオランダ正月を開始し、光太夫も出席した。定信の辞任はキリスト教国からの帰国を許し、蘭学者勢力の隆盛をもたらした。

一方で国外では、オランダ正月を祝った月に、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そして1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続することになった。しかし、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。

しかし、定信の辞任は尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。

定信引退後の幕府は、三河国吉田藩主・松平信明越後国長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、その政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。

その後[編集]

老中失脚後の定信は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。

文化9年(1812年)、家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢国桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総国佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある。

最期[編集]

文政12年(1829年)の1月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を発した。3月21日には神田佐久間町河岸から出火し、火が日本橋から芝まで広がり、多数の建物が焼失し2800余人の焼死者が出たが、松平家の八丁堀の上屋敷や築地の下屋敷である浴恩園、さらに中屋敷も類焼したため、定信は避難する事となるが、避難する際に定信は屋根と簾が付いた大きな駕籠に乗せられ、寝たまま搬送されたため、道が塞がって民衆が迷惑したという。さらにこの時、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布した。この時の大火に関する落首や落書があり、「越中(定信)が、抜身で逃る、其跡へ、かはをかぶつて、逃る越前(福井藩のことで、福井藩にも町人を斬り殺した噂が流布していた)」「ふんどしと、かはかぶりが、大かぶり」と無届の一枚刷りによって多数刊行された[10]。これは寛政の改革の際に出版統制を行なった定信に対する業界の復讐であったとされる[11]

屋敷の焼失により、定信は同族の伊予松山藩の上屋敷に避難したが、手狭のため4月18日に松山藩の三田の中屋敷に移った[11]。この仮屋敷の中で病床にあった定信は家臣らと歌会を開き、嫡子の定永と藩政に関して語り合った。一時は回復の兆しも見せたが、5月13日の八つ時(午後2時)頃から呻き声をあげ始め、七つ時頃(申の刻、午後4時)に医師が診察する中で[12]、急に脈拍が変わり、死去した[13]享年72。

辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」

人物・逸話[編集]

  • 白河藩主としては、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている。ただし老中としての評価は分かれる。近年の田沼意次の再評価に伴い、田沼時代の政策を全否定した定信への評価は相対的に厳しいものとなっているが、その多くは歴史学者でなく主に作家によるものである。
  • 学問を好み、著書に『花月草紙』、『宇下人言(うげのひとこと)』、『集古十種』等100以上を残す。また、頼山陽をはじめ多くの学者との交流を持った。白河藩に日本初の公園(南湖公園)を造るなどの文化人だった。
  • 詩歌もよくし、「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞ迷ふたそがれの宿」(一説に「心あてに見し夕顔の花散りて尋ねぞわぶるたそがれの宿」とも)から、たそがれの少将とも呼ばれた。
  • 『宇下人言』は定信の字を分解して付けた名前として知られている(定⇒宇下、信⇒人言)。この『宇下人言』の中で定信は、自分は幼少の頃は短気だったが、師として付けられた大塚孝綽黒沢雉岡、近習だった水野為長の3人の指導によって性格が改まったとしている。孝綽は田安家は徳川将軍家の藩屏として朱子学を奉じるべきであると主張しており、定信が古文辞学古学に通じながらも寛政異学の禁を出した背景には、自己の学問と老中としての政治的立場を分けて考える定信の学問観があったと考えられる。
  • 儒学(朱子学)を尊重するあまり、自らの欲望をも極端に抑えた。「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と『宇下人言』に記している。一度手をつけた女性を屋敷から召し放つ前に、寝所を共にして嫁ぐための心得などを教え諭したこともある。これは定信が情欲に耐えられるかという修行の目的で行ったことで、「いささかも凡情(欲望)起こらず」と記している。
  • 父の宗武は国学を保護したことで知られているが、定信は逆に『花月草紙』において本居宣長の「もののあはれ」を批判するなど、冷淡な態度を取っていた。これは、宗武に保護されていた荷田在満が門外不出とされた大嘗会の記録を刊行した『大嘗会便蒙』事件によって、田安家の責任問題に発展した経緯から師の大塚孝綽ともに国学に対する反感を抱いていたからと言われている。後年、定信も国学者を求めて人づてに宣長にも紹介を求めているが、あくまでも古典研究のための人材募集であり、宣長の推挙した人物を結果的には断っている。なお、宣長の方は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされることを願ったが、失敗に終わることとなった。
  • 寛政の改革では、卑俗な芸文を厳しく取り締まった定信であるが、私人としてはこうした芸文を楽しむ一面もあった。例えば、『大名かたぎ』(天明4年頃)や『心の草紙』(享和2年自序)など、自ら執筆した黄表紙風の未刊の戯作が存在する[14]。また、長じて執筆した膨大な随筆類には、市井の話題を熱心に取り上げるなど、為政者としての立場から世情を理解しようとする側面が見える。
  • 浮世絵にも親しみ、もと浮世絵師鍬形蕙斎筆『近世職人絵尽絵詞』(3巻、東京国立博物館蔵)は定信の旧蔵品である。なお、この絵巻の詞書は、上巻は四方赤良、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった、寛政の改革で何らかの被害を被った面々が書いている。また、定信は自ら名付けた銘石「黒髪山」の由来を絵画化した「黒髪山縁起絵巻」も、蕙斎に描かせている(共に寛永寺蔵、非公開)。これだけに留まらず、『甲子夜話』三編巻八には定信が収集した、明和・安永期から寛政・享和頃まで長期に渡る錦絵版画を貼り集めた太い巻物5巻を、肥州公に貸し与えた逸話が記されている。『退閑雑記』巻一には、狩野派の粉本主義の弊害や長崎派の中国かぶれを批判する中にあって、浮世絵には当世の風俗を描写し後世に伝えるという点に一定の価値を認めている[15]
  • 当時、職人に作らせた白河だるま白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。
  • 白河そばを特産物としたのも定信である。逸話も多々あり、今日でも白河市の人々の心に生きている。
  • 1800年(寛政12年)に定信は、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であるとの考証を行った。後に近代の発掘調査による再確認によって1966年に「白河関跡」として国の史跡に指定された。
  • 大名ながら起倒流柔術鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの一人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。なお、定信が柔術を志した背景には、自身が病気がちで自己の鍛錬に努めたことにあったという。
  • 藩祖・松平定綱が家臣の山本助之進とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術が廃れていたが、山本家に残っていた伝書をもとにこれを復元し、起倒流柔術を合わせて工夫を加え、甲乙流を剣・柔を融合させた内容に改めた(それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある)。
  • 藩校・立教館で指導されていた山本流居合術に、定信が編み出した技を加え流派の改良を行った。定信が加えた技は「御工夫の剣」と呼ばれた。
  • 砲術についても、三木流荻野流中島流渡部流の皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流砲術を開いた。
  • 弓術についても、幼少より日置流を修行し、師の常見文左衛門より弓書の全てを授けられるほどの腕前であったが、独自に工夫して流派を開いた。その後、さらに日置流を加え御家流弓術を開いた。
  • 尊号一件の際、将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという[16]
  • 読書家でもあった定信は、人材登用の手段として学力試験を行った。当時、学問・教養にあまり関心がなかった幕臣たちの態度に定信は落胆し、幕臣たちに学問を奨励するために試験を考えたという。受験資格は、主に幕臣や地役人などに限定し、昌平坂学問所で試験(学問吟味)を行った。近藤重蔵はこの試験で好成績を挙げたため、定信に登用され、後に寛政10年(1798年)、蝦夷地調査隊の一員に加わった。
  • 作家の井沢元彦は著書『逆説の日本史』中で、朱子学を妄信してその理念の実現を第一とした(寛政異学の禁はその典型)宗教人であり、田沼意次がそれに反する政策(=商業重視)を行ったために彼を異常に憎み、利害を度外視して意次の行ったことを全否定してしまった、外国を「夷」としか見ることができず、蘭学を禁止し、幕府が薩長に遅れを取る原因を作った、などと述べている。一藩の領主としてはともかく、一国を動かす老中筆頭としては問題が多いなど、かなり否定的な評価をしている。また、一般的に定信が高く評価されがちなのは、朱子学的価値観に基づいて書かれた『徳川実記』などの徳川方の記録を鵜呑みにしてしまっているせいだ、と指摘している。ただし、松平定信は、その著『政語』を見ても分かるように、朱子学的価値観のみを盲信しているわけでは全くなく、隣藩・会津藩の家老・田中玄宰が実学派の学者を採用することを申し出た際も許している。

経歴[編集]

※明治時代を除き日付は旧暦。

  • 安永4年(1775年
    • 12月1日 - 陸奥国白河藩主の世継となる。
    • 閏12月15日 - 従五位上総介に叙任。
  • 天明3年(1783年
    • 10月6日 - 家督相続をし、藩主となる。
    • 同月19日 - 越中守に転任。
    • 12月18日 - 従四位下に昇叙。越中守如元。
  • 天明7年(1787年
    • 6月19日 - 老中上座。勝手方取締掛となり、侍従兼任。
  • 天明8年(1788年)3月4日 - 将軍輔佐を兼ねる。月番と勝手方取締掛を停む。
  • 寛政元年(1789年)12月26日 - 勝手掛兼務。
  • 寛政5年(1793年)7月23日 - 将軍輔佐・老中等御役御免。左近衛権少将に転任。越中守如元。溜間詰
  • 文化9年1812年)3月6日 - 隠居。楽翁を号す。
  • 文政12年(1829年)5月12日 - 死去。
  • 明治41年(1908年)9月7日-贈正三位[2]

編著作[編集]

  • 『閑なるあまり』2期第4巻、『関の秋風』3期第5巻、「日本随筆大成」編輯部編 吉川弘文館
  • 『宇下人言・修行録』、『花月草紙』 西尾実松平定光校訂 岩波文庫
  • 『松平定信蔵書目録』全2巻、朝倉治彦監修、高倉一紀解題「書誌書目シリーズ73」ゆまに書房、2005年
  • 『退閑雑記』1797年
  • 『集古十種』85巻、1800年ごろ成立、松平定信編‐古画古物の模写約2000点から成る図録集。[17]
  • 『古画類聚』38巻
  • 『政語』 奈良本辰也校注『近世政道論』(日本思想大系(芸の思想・道の思想4)、岩波書店)ISBN 4000090747 所収

脚注[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 定信伝記『守国公御伝記

出典[編集]

  1. ^ 定信の肖像にはこの他に、顔のみ定信が描き、残りは狩野養信に任せた「松平楽翁像[1]」(福島県立博物館蔵)もある
  2. ^ a b 故上杉輝虎外四名贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500 
  3. ^ 久松松平氏は御連枝ではなく、譜代の家柄である。ただし、後に親藩扱いとなる。
  4. ^ a b 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.4
  5. ^ 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.3
  6. ^ 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.2
  7. ^ 根室市‐学芸員日誌‐「最初の千島探検」
  8. ^ 九州大学附属図書館所蔵「アジア図2」-24
  9. ^ 尊号一件は、成長した家斉が、厳格で形式を重んじる定信を嫌い、疎んじていた時に、タイミングよく起きた事件を巧みに利用して、定信を遠ざけたのだという指摘もある。
  10. ^ 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.273
  11. ^ a b 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.274
  12. ^ 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.275
  13. ^ 高澤憲治 著『人物叢書‐松平定信』吉川弘文館、2012年、p.276
  14. ^ 森銑三 「楽翁公の戯作」『森銑三著作集』第十一巻、中央公論社、1989年、ISBN 978-4-12-402781-5
  15. ^ 内藤正人 『大名たちが愛でた逸品・絶品 浮世絵再発見』 小学館、2005年、159-173頁、ISBN 978-4-09-387589-9
  16. ^ 続徳川実紀』 - 文恭院殿御実紀
  17. ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『集古十種』

参考文献[編集]

書籍
史料
  • 『守国公御伝記』

関連作品[編集]

小説[編集]

漫画[編集]

映画[編集]

南湖神社前にある石像

テレビドラマ[編集]

関連項目[編集]