松平定則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平 定則
松平定則像
時代 江戸時代後期
生誕 寛政5年7月27日1793年9月2日
死没 文化6年7月5日1809年8月15日
改名 立丸/辰丸(幼名)、定則
戒名 文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
伊予松山藩
氏族 久松松平家定勝
父母 父:松平定国、母:政(藤田氏)
兄弟 元之丞、定則定通酒井忠順室ら
松平定信の娘・福姫
テンプレートを表示

松平 定則(まつだいら さだのり)は、江戸時代後期の大名伊予国松山藩の第10代藩主。定勝系久松松平家宗家11代。官位はなし。

生涯[編集]

第9代藩主・松平定国の次男として誕生した。母は政(藤田氏)。幼名は立丸。または辰丸。

長兄・元之丞の夭折により、寛政6年(1794年)に嫡男となる。文化元年(1804年)、父の死去により家督を継承する。同年には伊予郡松前浜に港が新造される。翌文化2年(1805年)、松山二番町横町に初めての藩校興徳館を設立、杉山熊台を教授として藩士の指導に当たらせるなど、文化の興隆に貢献した。文化5年(1808年)には、菩提寺の一つ松山法龍寺の寺格を高めた。

文化6年(1809年)7月3日、病床に伏し、弟の勝丸(松平定通)を養嗣とし、同5日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去。享年17(15歳)。法号は文楽院殿故伊予州松山城主礼誉興徳義譲大居士。遺骸が三田済海寺に土葬される。遺髪は三田済海寺を発し、木曽路を経て松山古町大林寺へ送られ、法要が営まれた。

系譜[編集]