長谷寺

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長谷寺
Hasedera Sakurai Nara pref58s5s4272.jpg
所在地 奈良県桜井市初瀬731-1
位置 北緯34度32分9.22秒
東経135度54分24.57秒
座標: 北緯34度32分9.22秒 東経135度54分24.57秒
山号 豊山(ぶざん)
宗派 真言宗豊山派
寺格 総本山
本尊 十一面観音(重要文化財)
創建年 奈良時代(8世紀前半)
開基 道明
正式名 豊山 神楽院 長谷寺
別称 花の御寺
札所等 西国三十三所8番
真言宗十八本山16番
神仏霊場巡拝の道 第35番
文化財 本堂、長谷寺経、銅板法華説相図(国宝)
木造十一面観音立像、仁王門ほか(重要文化財)
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二本の杉

長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は輪違い紋。

大和伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。

大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺當麻寺中之坊、安倍文殊院おふさ観音談山神社久米寺)の一つに数えられる。

所在地・交通[編集]

歴史[編集]

長谷寺の創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武朝朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことについては正史に見えず、伝承の域を出ない。承和14年(847年12月21日定額寺に列せられ、天安2年(858年5月10日三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。なお、貞観12年(870年)に諸寺の別当・三綱は太政官の解由(審査)の対象になることが定められ、長谷寺も他の官寺とともに朝廷(太政官)の統制下に置かれた。それを裏付けるように10世紀以後の長谷寺再建に際しては諸国に対しては国宛を、諸寺に対しては落慶供養参加を命じられるなど、国家的事業として位置づけられている。

長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。

長谷寺は東大寺華厳宗)の末寺[1] であったが、平安時代中期には興福寺法相宗)の末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

伽藍[編集]

登廊(中登廊と下登廊)

初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。国宝の本堂のほか、仁王門、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊が重要文化財に指定されている。このうち、本堂は慶安3年(1650年)の竣工で、蔵王堂、上登廊、三百余社、鐘楼、繋廊も同じ時期の建立である。仁王門、下登廊、繋屋、中登廊の4棟は明治15年(1882年)の火災焼失後の再建であるが、江戸時代建立の堂宇とともに、境内の歴史的景観を構成するものとして重要文化財に指定されている。仁王門は明治18年(1885年)、下登廊、繋屋、中登廊は明治22年(1889年)の再建である。

本堂[編集]

本堂(礼堂)を望む
本堂(正堂)を西北から見る
本堂(礼堂)の懸造部分

本尊を安置する正堂(しょうどう)、相の間、礼堂(らいどう)から成る巨大な建築で、前面は京都の清水寺本堂と同じく懸造(かけづくり、舞台造とも)になっている。本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失している。7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)。本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工した。ただし、現存する本堂はこの天正再興時のものではなく、その後さらに建て替えられたものである。

現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645年)から工事に取り掛かり、5年後の慶安3年(1650年)に落慶したものである。同年6月に記された棟札によると、大工中井大和守を中心とする大工集団による施工であった。天正再興時の本堂は、元和4年(1618年)には雨漏りの生じていたことが記録されているが、わずか数十年後に修理ではなく全面再建とした理由は明らかでなく、背景に何らかの社会的意図があったとの指摘もある[2]。高さ10メートル以上ある本尊・十一面観音像は、前述のとおり、天文7年に完成しており、慶安3年の新本堂建設工事は本尊を原位置から移動せずに行われた。そのため、本堂は内陣の中にさらに内々陣(本尊を安置)がある複雑な構成となっており、内々陣は巨大な厨子の役目をしている。

本堂は傾斜地に南を正面として建つ。平面構成・屋根構成とも複雑だが、おおまかには本尊を安置する正堂(奥)、参詣者のための空間である礼堂(手前)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。全体の平面規模は間口25.9メートル、奥行27.1メートル。正堂は一重裳階付き。構造的には間口7間、奥行4間、入母屋造平入りの身舎の前面と両側面に1間幅の裳階をめぐらせた形になり、全体としては9間×5間となる(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。以下の文中においても同様)。礼堂部分は入母屋造妻入り、間口9間、奥行4間で、このうち奥の間口9間、奥行1間分を相の間とする。礼堂の棟と正堂の棟はT字形に直交し、礼堂正面側には入母屋屋根の妻を大きく見せる。礼堂の屋根は側面では正堂の裳階の屋根と一体化している。礼堂の左右側面にはそれぞれ千鳥破風を付し、屋根構成をさらに複雑にしている。礼堂の前半部分は床下に柱を組み、崖面に迫り出した懸造とし、前方に舞台を張り出す。屋根はすべて本瓦葺き。組物は正堂身舎が出組(一手先)、正堂裳階と礼堂は三斗とする。

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏とする。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。外陣は板敷きで、天井は中央を化粧屋根裏、左右を格天井とする。その奥は中央の間口5間、奥行4間を内陣とし、その東西の各間口2間分は、東を宰堂室、西を集会所等とする。内陣は石敷き、格天井とし、その中央を2間四方を本尊を安置する内々陣とする。内々陣部分には切妻屋根が架かり、独立した構造となっている。[3]

本堂は近世前半の大規模本堂の代表作として、2004年12月、国宝に指定された。棟札2枚、平瓦1枚(慶安元年銘)、造営文書・図面等3件が国宝の附(つけたり)指定となっている。

  • 木造十一面観音立像(本尊)
長谷寺の本尊像については、神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったという長谷寺開山の伝承がある。伝承の真偽はともかく、当初像は「神木」等、何らかのいわれのある木材を用いて刻まれたものと思われる。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。仏像彫刻衰退期の室町時代の作品だが、10メートルを超える巨像を破綻なくまとめている。国宝・重要文化財指定の木造彫刻の中では最大のものである。本像は通常の十一面観音像と異なり、右手には数珠とともに、地蔵菩薩の持つような錫杖を持ち、方形の磐石の上に立つ姿である(左手には通常の十一面観音像と同じく水瓶を持つ)。伝承によれば、これは地蔵菩薩と同じく、自ら人間界に下りて衆生を救済して行脚する姿を表したものとされ、他の宗派(真言宗他派も含む)には見られない独特の形式である。この種の錫杖を持った十一面観音を「長谷寺式十一面観音(長谷型観音)」と呼称する。

五重塔[編集]

  • 昭和29年、明治9年に焼失した三重塔跡北側に建立された。

文化財[編集]

銅板法華説相図
白糸威鎧(重要文化財)

国宝[編集]

  • 本堂(既述)
  • 銅板法華説相図 - 「千仏多宝仏塔」とも称する。法華経の見宝塔品(けんほうとうほん)で、釈迦が説法していたところ、地中から巨大な宝塔が出現した場面を表現したもの。縦83.3センチ、横75.0センチの鋳銅の板に宝塔と諸仏が浮き彫り状に鋳出されている。千仏は、薄い銅板を型に当てて槌で叩き出して成形した、いわゆる押出仏を板面に貼っている。銅板の下部には長文の銘が刻まれている。そこには「戌年」に「飛鳥浄御原で天下を治めた天皇」の病気平癒のため、僧・道明が作ったという意味のことが書かれている。この戌年について、寺伝では天武天皇の朱鳥元年(686年)とするが、研究者の間では干支が一巡した文武天皇2年(698年)の作と見る意見が多い[4]。「工芸品」部門の国宝に指定。(奈良国立博物館に寄託)
  • 法華経(28巻)、観普賢経(1巻)、無量義経(3巻)、阿弥陀経(1巻)、般若心経(1巻)計34巻(附:蒔絵経箱) - 鎌倉時代に制作された「装飾経」の一具で「長谷寺経」と通称される。本文の用紙は金銀の切箔などで装飾し、巻き軸には水晶を用いるなど、装飾をこらしている。

重要文化財[編集]

  • 木造十一面観音立像(本堂安置)附:木造難陀龍王立像及び像内納入品、木造赤精童子立像及び像内納入品(納入品明細は後出)
  • 仁王門
  • 登廊5棟(下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊)
  • 三百余社
  • 鐘楼
  • 繋廊
  • 絹本著色阿弥陀来迎図
  • 絹本著色浄土曼荼羅図
  • 紙本白描高雄曼荼羅図像(胎蔵界巻第一、三、四、五 金剛界巻第一、二 )
  • 銅造十一面観音立像
  • 木造地蔵菩薩立像 
  • 木造不動明王坐像
  • 金鼓 建久三年銘
  • 三鈷柄剣
  • 赤糸威鎧 大袖付、白糸威鎧 大袖付、鷹羽威鎧 大袖付、三目札鎧、藍韋威肩赤大袖
  • 銅錫杖頭 2柄 各建長三年銘
  • 宋版一切経 2,766帖
  • 僻連抄

能満院所有

  • 絹本著色地蔵十王像 
  • 絹本著色春日曼荼羅図 
  • 絹本著色十一面観音像 
  • 黒漆四方殿舎利厨子

普門院所有

  • 木造不動明王坐像

入山[編集]

時期 入山時間
4月~9月 8:30~17:00
10月~3月 9:00~16:30
区分 入山料金(個人)
大人・中高校生 500円
小学生・障害者 250円

年中行事[編集]

行事の名称 時期
本尊元旦開帳法要 1月1日
仁王会 1月1日~1月7日
修正会 1月1日~1月7日
仏名会 1月8日~1月10日
星祭 1月28日~2月3日
三社権現網懸祭 旧暦1月11日
節分会 2月3日
大黒天祭 2月3日
修二会 2月8日~2月14日
だだおし法要 2月14日
常楽会(涅槃会) 3月15日
彼岸会 3月17日~3月23日
釈尊降誕会 4月8日
ぼたんまつり 4月中旬~5月上旬
ぼたん献花祭 4月中旬
春季特別寺宝展 4月~5月
お茶会 4月下旬
専誉僧正恩徳会 5月5日
弘法大師誕生会 6月15日
興教大師誕生会 6月17日
盂蘭盆会 8月13日~15日
彼岸会 9月20日~26日
もみじまつり 10月上旬~12月上旬
秋季特別寺宝展 10月~12月
もみじ茶会 11月下旬
陀羅尼会 12月12日
除夜本尊閉帳法要 12月31日
観音万燈会 12月31日~1月3日

御詠歌[編集]

いくたびも
参る心は
はつせ寺
山もちかいも
深き谷川

前後の札所[編集]

西国三十三所
7 岡寺 -- 8 長谷寺 -- 9 興福寺南円堂
門前町初瀬の参道脇には、西国三十三所の観音霊場をつくるよう閻魔大王から託宣されたと伝わる僧侶の徳道が天平7年(735年)創立したといわれる番外札所法起院(徳道上人廟)がある。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『古寺巡礼奈良13 長谷寺』 井上靖、塚本善隆監修、竹西寛子ほか著、淡交社 1980
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝』9号 朝日新聞社 1997
  • 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』 平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 奈良県』 角川書店
  • 『国史大辞典』 吉川弘文館

脚注[編集]

  1. ^ 上島享は東大寺が長谷寺を支配していたとする文書の初出が12世紀に書かれた『東大寺要録』『東大寺別当次第』であること、9世紀から11世紀後期までは国家の管理下にあったこと、反対に興福寺の史料由来とみられる「長谷寺別当次第」(『東寺百合文書』所収)の記事は他の記録との矛盾がないことなどを指摘して、11世紀後期に興福寺の末寺に入るまでは東大寺など他の特定寺院の支配下にはなかったとする(上島「中世長谷寺史の再構築」『国文論叢』36号(2006年))。
  2. ^ 箱崎和久の指摘による。「奈文研ニュース」14号、奈良文化財研究所、2004、p7参照(オンラインでも閲覧可。
  3. ^ 本堂の説明は以下の資料に基づく。
    • 「新指定の文化財」『月刊文化財』495号、第一法規、2004
    • 清水真一「長谷寺本堂の国宝指定」『月刊文化財』495号、第一法規、2004
  4. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』9号(朝日新聞社、1997)所収の解説(p4 - 290)。筆者は片岡直樹。

外部サイト[編集]