象潟

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県道58号から見た象潟。奥は日本海
県道58号から見た象潟。奥は日本海
水田の中に小島が残る
水田の中に小島が残る

象潟(きさかた)は、秋田県にかほ市象潟町(旧由利郡象潟町)の地形である。現在は平地だがかつては潟湖で、それを象「潟」と呼んだ。

国の天然記念物で、鳥海国定公園の指定地。

目次

[編集] 歴史

[編集] 潟湖

紀元前466年鳥海山が噴火し発生した大規模な山体崩壊による流れ山が日本海に流れ込み、浅い海と多くの小さな島々が出来上がった。やがて堆積作用の結果、浅海は砂丘によって仕切られて潟湖が出来た。そして小さな島々には松が生い茂り、風光明媚な象潟の地形が出来上がった。東西の長さは20(約2200m)、南北の長さは30町(約3300m)をそれぞれ超える程度であった。

江戸時代までは、九十九島・八十八潟が景勝地となり、「東の松島 西の象潟」と呼ばれ、松尾芭蕉の『奥の細道』(1689年)でも

松島は笑ふが如く、象潟は憾(うら)むが如し

と評され、

象潟や雨に西施ねぶの花

上空から見た象潟(1976年)

と詠まれた。

[編集] 消滅

しかし1804年象潟地震で海底が隆起し、陸地化した。その後、干拓事業による水田開発の波に飲まれ、歴史的な景勝地は消されようとしていたが、当時の蚶満寺の住職の呼びかけによって保存運動が高まり、今日に見られる景勝地の姿となった。

[編集] 現状

現代も102の小島が水田地帯に点々と残されている。とりわけ田植えの季節に水が張られると、往年の多島海を髣髴とさせる風景が見られる。

象潟郷土資料館では、地震前の象潟の再現模型が展示されている。

[編集] 『雷電日記』が報告する象潟地震の惨状

江戸時代の名大関・雷電爲右エ門が、寛政元年から文化12年まで書き綴っていた、俗に『雷電日記』と呼ばれる旅日記『諸国相撲和帳』の内容は「何処で興行し、どのような収支となったか」であり、雷電の私事を記述していない。にもかかわらず、記録されている象潟地震の報告は、雷電自身が受けた衝撃の大きさを意味する。

以下にその内容を引用する(日付はすべて旧暦)。

(文化元年)八月五日(秋田を)出立仕り候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ、道中にて六合(本荘市)より(酒田街道を)本庄塩越通り致し候ところ、まず六合より壁こわれ、家つぶれ、石の地蔵こわれ、石塔たおれ、塩越(秋田県由利郡象潟町)へ参り候ところ、家皆ひじゃけ、寺杉木地下へ入りこみ、喜サ形(象潟)と申す所、前度は塩なき時(干潮時)にても足のひざのあたりまで水あり、塩参り節(満潮時)はくびまでもこれあり候。その形九十九島あると申す事に御座候。大じしんより、下よりあがりおか(陸地)となり申し候。その地に少しの舟入り申し候みなと(港)もあり、これもおか(陸地)となり申し候

(聞き書きとして)「六月四日、夜四つ(午後十時)の事に御座候。地われ(割れ)て水わき出ず事甚だしきなり。年寄、子供甚だなんじゅう(難渋)の儀に候。馬牛死す事多し。酒田まで浜通り残りなしいたみ多し。酒田にて蔵三千の余いたみ申し候と申す事に候。酒田町中われ、北がわ三尺ばかり高くなり申し候とのことに候。長鳥山(鳥海山)その夜、峰焼け出し、岩くづれ下ること甚だしきなり。(八月)七日に鶴ヶ岡へ着き仕り候。

雷電爲右エ門 , 『歴史読本特別増刊号’87-8 目撃者が語る日本史の決定的瞬間』246頁、新人物往来社1987年

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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