鳥海山

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鳥海山
Chokai-san.jpg
夏の鳥海山
標高 2,236[1] m
所在地 山形県飽海郡遊佐町酒田市
秋田県由利本荘市にかほ市
位置 北緯39度05分57秒
東経140度02分56秒
[2]
山系 出羽山地
種類 成層火山
鳥海山の位置
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夏の鳥海山(河原宿から)
「心字雪渓」が見える。河原宿から山頂を目指すルートでは、この雪渓を横断することになる。
山頂からの秋田県方向の眺め

鳥海山(ちょうかいさん、ちょうかいざん[2])は、山形県秋田県に跨がる標高2,236mの活火山。山頂に雪が積もった姿が富士山にそっくりなため、出羽富士(でわふじ)とも呼ばれ親しまれている。秋田県では秋田富士(あきたふじ)とも呼ばれている。古くからの名では鳥見山(とりみやま)という。日本百名山[3]日本百景の一つ。2007年平成19年)に日本の地質百選に選定された。

概要[編集]

山体は山形県の飽海郡遊佐町酒田市と秋田県の由利本荘市にかほ市の4市町に跨がるが、山頂は飽海郡遊佐町に位置し、山形県の最高峰である。(山頂が飽海郡となった理由は 歴史 を参照のこと。)

東北地方では燧ヶ岳(標高2,356m)に次いで2番目に標高が高く、中腹には秋田県の最高地点(標高1,775m)がある。山頂からは、北方に白神山地岩手山、南方に佐渡島、東方に太平洋を臨むことができる。

山の南側には夏、「心」の字の形に雪が残る「心字雪渓」がある。山頂付近には夏場も溶けない万年雪(小氷河と表現されることがある)が存在することや、氷河の痕跡として特徴的なカール地形が存在することから、かつて氷河が形成されていたという説がある。このため、山麓の市町村では「氷河」を冠した特産品が見受けられる。

鳥海山の固有種としてはチョウカイアザミチョウカイフスマがある。

自然[編集]

鳥海山の峰々[編集]

東鳥海

  • 中央火口丘
    • 新山(しんざん) 2,236m - 最高峰。別名・享和岳。
    • 荒神ヶ岳(こうじんがたけ) 2,170m
  • 外輪山
    • 七高山(しちこうさん) 2,229m
    • 行者岳(ぎょうじゃだけ) 2,159m
    • 伏拝岳(ふしおがみだけ) 2,130m
    • 文珠岳(もんじゅだけ) 2,005m

西鳥海

  • 中央火口丘
    • 扇子森(せんすもり) 1,759m
    • 鍋森(なべもり) 1,652m
  • 外輪山
    • 月山森(がっさんもり) 1,650m
    • 笙ガ岳(しょうがだけ) 1,635m

鳥海火山[編集]

全体としては玄武岩ないし安山岩(SiO2 51~62%)の溶岩からなる富士山型の成層火山であるが、火砕流、降下軽石、火山灰などの噴出は少なく、主に溶岩流により形成された山である。北側から西側にかけては側火山火口、さらには河川による侵食で、複雑な山容を示している。新旧2つの二重式火山が複合したもので、侵食の進んだ「西鳥海」と新しい溶岩地形をもつ「東鳥海」とからなり、それぞれに中央火口丘外輪山がある。

紀元前466年には大規模な山体崩壊を起こし[4]、岩石や土砂が現在のにかほ市に堆積して象潟の原型を形成している。象潟付近の九十九島は紀元前466年の噴火で形成された流れ山で、形成当時は海中の小島であったが 1804年象潟地震により隆起し特徴的な地形となった[5]1801年の噴火では死者8名の記録があり[6]、生じた溶岩ドームは東鳥海山の新山として現在も残っている。1974年3月から5月にかけては水蒸気爆発新山の東側火口および荒神ヶ岳の割れ目から噴煙を噴出した。

有史以降の主な火山活動[編集]

鳥海山獅子ヶ原湿原植物群落および新山溶岩流末端崖と湧水群[編集]

鳥海山から流れ出した溶岩流の末端には、湧水地が点在している。特に山麓の獅子ヶ原湿原は、標高500mながら、多様な高山性のコケ類が見られ、2001年に天然記念物に指定された。

歴史[編集]

鳥海山は海岸に近く標高の高い独立峰であることから、古くから日本海を往来する船乗りにとってもよき目印であったと考えられる。

『鳥海山史』[7]によれば、由利郡小瀧(鳥海山修験の拠点の一つ)の旧記に敏達天皇7年(578年)1月16日噴火したことが、由利郡直根村旧記に推古天皇御代の噴火と元明天皇和銅年間(708年 ~ 715年)に噴火したことが、由利郡矢島(鳥海山修験の拠点の一つ)においては元正天皇養老元年(717年)6月8日噴火したことが伝えられている。同書では、いずれも正史の記事ではないので安易に信ずることはできないが、真実であれば鳥海山は578年から717年の約140年間ほど活動期だったのではないかと考察している。

この山は正史へ大物忌神の名で登場し、度々神階の陞叙を受けているが、正史に現れた最初の授位の記事は『続日本後紀承和5年(838年)5月11日の条における記述である。(神階陞叙の詳細については 鳥海山大物忌神社 を参照のこと。) 大物忌神という神について『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[8]では、物忌とは斎戒にして不吉不浄を忌むということであり、夷乱凶変を忌み嫌って予め山の爆発を発生させる神であると大和朝廷は考えたのではないか、と考察している。『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[9]においても国事兵乱との関係で畏敬尊崇の対象となっていたと述べ、『鳥海山史』[7]も同様の考察をしている。しかし、秋田県の郷土史家田牧久穂は、大物忌神は大和朝廷による蝦夷征服の歴史を反映し、蝦夷の怨霊を鎮める意味の神名だと述べている。

『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条では大物忌神を従四位下勳五等へ陞叙しているが、同記事では陞叙の理由を、大物忌神が雲の上にて十日間に渡り鬨の声をあげた後、石の兵器を降らし、遠く南海で海賊に襲われていた遣唐使船に加護を与えて敵の撃退に神威を表したからだとしている[10]。この記事により、大物忌神が出羽国の火山らしいことが初めてわかるが、山の姿をより詳細に記述し、大物忌神が現在の鳥海山であると推定できるのは、『日本三代実録貞観13年(871年)5月16日の条にある、下記の出羽国司の報告である。

《出羽国司の報告。従三位勳五等の大物忌神社は飽海郡の山上にある。巖石が壁立し、人が到ることは稀である。夏も冬も雪を戴き、草木は禿て無い。去る4月8日に噴火があり、土石を焼き、雷鳴のような声を上げた。山中より流れ出る河は青黒く色付いて泥水が溢れ、耐え難いほどの臭気が充満している。死んだ魚で河は塞がり、長さ10(約30m)の大蛇2匹が相連なって海へ流れていった。それに伴う小蛇は数知れずである。河の緑の苗は流れ損ずるものが多く、中には濁った水に浮いているものもある。古老に尋ねたところ、未曾有の異変であるが、弘仁年間(810年 ~ 824年)に噴火した際は幾ばくもせず戦乱があった、とのことであった。そこで報告を受けた朝廷が陰陽寮にて占いを行ったところ、結果は全て、出羽の名神に祈祷したが後の報祭を怠り、また墓の骸骨が山水を汚しているため怒りを発して山が焼け、この様な災異が起こったのだ。もし鎮謝報祭を行わなければ戦乱が起こる、と言うものであった。そこで奉賽を行うと共に神田を汚している家墓骸骨を除去せよと国守に命じた。》

以上の記事から『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』[11]では、四時雪を戴いて草木も生えず、登山困難な高山で、しかも4月8日に噴火したとあり、出羽国飽海郡にそのような山は一つしかないので鳥海山と推定される、と述べている。また、『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』[9]では、『日本三代実録』貞観13年5月16日の条にある「長さ10丈の大蛇2匹」とは2本の泥流であろうと言われている、との説を紹介している。

その後も『日本三代実録』には、元慶8年(884年)9月29日の条において「6月26日、秋田城へ石鏃23枚が降った」との記述、仁和元年(885年)11月21日の条において「6月21日、出羽国秋田城中および飽海郡神宮寺西浜に石鏃が振った」との記述が見られるが、噴火があったのかは不明である[10]。噴火が確認できるのは『本朝世紀天慶2年(939年)4月19日の条にある「大物忌明神の山が燃えた」との記述で、これが中世では最後の噴火の記録となり、以後数百年間は史上に噴火の記録を見ることはなくなる。

『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[8]では、元来、鳥海山は山名が無く、山そのものが「大物忌神」と呼ばれていたと述べているが、前述のように『続日本後紀』および『日本三代実録』では「大物忌神」、『本朝世紀』では「大物忌明神の山」と記述され、鳥海山という名では呼ばれていない。鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』においても「北山」と呼ばれ鳥海山と言う名では呼ばれないと『鳥海山史』[7]では述べている。鳥海山という名が文字として確認できる最古のものは、暦応5年(1342年)7月26日、藤原守重が息災延命の意趣をもって奉納した鰐口銘に見えるものであると『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[8]では紹介している。しかし、『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』[11]では、この鰐口銘も山全体の名称であるかについては疑問があると考察している。その理由を同書では、永正7年(1510年)編集の『羽黒山在庁年代記』に「本宮大権現、欽明天皇七年丙寅年、飽海嶽に出現。今の鳥海権現是也」とあるので鳥海は権現号、山号は飽海嶽であると言うことになり、山号を鳥海とする資料が近世になっても見当たらないからだと述べている。また、鳥海山の由来についても定説が無い。『鳥海山史』[7]では、山腹の鳥海湖に由来する説を紹介した後、鳥海彌三郎に由来するのではないかとの考察を行っている。

神の山とされた鳥海山は修験道の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に修験者が集うようになった。『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』[11]では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に神宮寺が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』[7]では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の曼荼羅化や入峰方式がどの様に確立されて行ったのか、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており正確には分かっていない。各登山口の修験者は、連綿とした事由からお互いに反目・対立するようになっていき、江戸時代には修験者同士の争いが矢島藩庄内藩を巻き込んだ嶺境争いに発展、江戸幕府の裁定によって山頂が飽海郡とされている。(詳しくは 蕨岡、矢島の嶺境の論争 を参照のこと。)

近世に入り、再び鳥海山の噴火が史上に現れる。『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』[8]によれば、『由利郡仁賀保旧記』に万治2年(1659年)噴火の記事が見えるという。しかし、庄内側に記録がないので、北面の噴火だったのかもしれないと推測している。『出羽風土略記』には元文5年(1740年)5月上旬の噴火によって山上の瑠璃の壺、不動石、硫黄谷と言われる辺りが焼けたとの記述がある。寛政12年(1800年)の冬から文政4年(1821年)に至る期間にも鳥海山は噴火しており、特に享和元年(1801年)の噴火は激烈を極め、新山(享和岳)を生成し、『文化大地震附鳥海山噴火由来』によれば火山弾によって8人の死者を出したのだと言う。

現代においても、昭和49年(1974年)3月に噴煙をあげたことから全山入山禁止となり、『山形縣神社誌』[12]によれば山頂の大物忌神社が中腹に造営した「中の宮」へ遷座している。

山岳信仰[編集]

鳥海山は日本海に裾野を浸した秀麗な山容を持つためか、古くから山岳信仰の対象となり、山頂と、麓の吹浦(山形県遊佐町)と蕨岡(山形県遊佐町)には大物忌神社が祀られ、出羽国一宮として崇められてきた。日本海に浮かぶ酒田市の飛島には、鳥海山の山頂部が吹き飛んできて出来た、あるいは鳥海に住む鬼が神罰を受けた際に飛んだ首によって出来たという伝承があり[13]、それが島の名前の由来になっているという。また、飛島に祀られた小物忌神社は鳥海山の大物忌神社と対をなしているとされる。

登山[編集]

登山口までのアクセス[編集]

公共交通機関[編集]

道路[編集]

モデルコース[編集]

  • 鉾立バス停→賽の河原→御浜小屋→頂上御室(大物忌神社・泊)→鳥海山(新山)→河原宿小屋→八丁坂→滝の小屋車道終点

他に矢島口・吹浦口・百宅口コース等多数。

鳥海山にちなんだ名称[編集]

大日本帝国海軍重巡洋艦及び海上自衛隊護衛艦にこの山から名前をとった「鳥海」「ちょうかい」がある。

列車の愛称名としても歴史は古く、最初は上野東北本線奥羽本線経由で秋田行きの急行の愛称として登場し(この列車が後の「津軽」)、その後は上野発上越線羽越本線経由で秋田行きの急行の愛称として長く親しまれた(臨時列車には酒田発着もあった)。東北上越新幹線開業後は上野発上越線・羽越本線・奥羽本線経由で青森行きの特急の愛称(昼行の時と夜行の時があった。夜行は現在の「あけぼの」)となったが、この特急時代の「鳥海」は地味かつ不遇であった。

鳥海山 画像ギャラリー[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 地図閲覧サービス 2万5千分1地形図名:鳥海山(新庄)国土地理院、2010年12月31日閲覧)
  2. ^ a b 日本の主な山岳標高:山形県国土地理院、2010年12月31日閲覧)
  3. ^ 『日本百名山』深田久弥(著)、朝日新聞社、1982年、ISBN 4-02-260871-4
  4. ^ a b 群馬大学教育学部 早川由紀夫研究室 『稲荷山の鉄剣と榛名山の噴火』
  5. ^ 鳥海山 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 中野俊
  6. ^ a b 鳥海山 有史以降の火山活動 気象庁
  7. ^ a b c d e 姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。
  8. ^ a b c d 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 国書刊行会 1982年11月 より。
  9. ^ a b 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 ㈱白水社 1984年6月 より。
  10. ^ a b 『続日本後紀』承和7年(840年)7月26日の条、『日本三代実録』元慶8年(884年)9月29日の条および仁和元年(885年)11月21日の条では大物忌神が石の兵器(『日本三代実録』の記述によれば石の)が振ったとの記述が見られるが、これは石器を含んだ地層が雨や波の浸食によって削られ、土中の石器が表出したものを、当時の人々が「大物忌神が石の鏃を降らせた怪異」と理解した可能性がある事を『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』および『鳥海山史』では述べている。
  11. ^ a b c 山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。
  12. ^ 山形県神社庁五十周年記念事業実行委員会出版部 編 『山形縣神社誌』 山形県神社庁 2000年4月 より。
  13. ^ 岩崎敏夫 編 『東北民俗資料集(二)』 萬葉堂書店 1972年10月 の「鳥海山信仰」に収録された山形県飽海郡遊佐町の民間伝承より。話者は遊佐町の高橋佐太郎。

参考文献[編集]

  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第9巻 本朝世紀』 ㈱吉川弘文館 1964年10月
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第10巻 日本紀略前編』 ㈱吉川弘文館 1965年5月
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第11巻 日本紀略後編・百錬抄』 ㈱吉川弘文館 1965年8月
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第4巻 日本三代実録』 ㈱吉川弘文館 1966年4月
  • 岩崎敏夫 編 『東北民俗資料集(二)』 萬葉堂書店 1972年10月
  • 黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 続日本後紀』 ㈱吉川弘文館 1974年5月 (普及版)
  • 山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月
  • 安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 ㈱国書刊行会 1982年11月 (山形県郷土研究会 昭和6年刊の複製)
  • 姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月
  • 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 ㈱白水社 1984年6月
  • 松本良一 『鳥海山信仰史』 本の会 1984年7月
  • 山形県神社庁五十周年記念事業実行委員会出版部 編 『山形縣神社誌』 山形県神社庁 2000年4月

関連項目[編集]

外部リンク[編集]