有珠山

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有珠山
有珠山.jpg
伊達市側から見た有珠山。右側のピークが大有珠。左に有珠新山、オガリ山と続き、一番左の灰色の小ピークが小有珠(2010年8月)。
標高 大有珠:737 m
所在地 北海道 有珠郡壮瞥町
虻田郡洞爺湖町伊達市
位置 北緯42度32分38秒
東経140度50分21秒
種類 活火山ランクA
有珠山の位置
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有珠山(うすざん)は、北海道洞爺湖の南に位置する標高737mの活火山。山頂は有珠郡壮瞥町にあり、山体は虻田郡洞爺湖町伊達市にまたがっている。支笏洞爺国立公園内にあり[1]昭和新山とともに「日本の地質百選」に選定され[2]、周辺地域が洞爺湖有珠山ジオパークとして「日本ジオパーク」・「世界ジオパーク」に認定されている。

概要[編集]

室蘭港より遠望する有珠山(左奥)と羊蹄山(右奥)

洞爺湖をかたちづくる「洞爺カルデラ」の南部に有珠山が形成されたのは、約2万年前と考えられている。噴火を繰り返し年月をかけて成層火山をなしたが、約7千年前に山頂部が爆発。その際に山体崩壊が発生し、南側に口を開けた陥没地形が形成された。この時発生した岩なだれは内浦湾(噴火湾)にまで達し、有珠湾周辺の複雑な海岸線をつくった。

二重式火山で、直径約1.8kmの外輪山の中に大有珠(737m)、小有珠などの溶岩円頂丘や、オガリ山、有珠新山(669m)などの潜在円頂丘が形成されている。また山麓にも溶岩円頂丘昭和新山や、潜在円頂丘の金比羅山、四十三山(明治新山)などを有している。

1663年以降の活動はケイ酸(SiO2)を多く含んだ粘性の高いマグマによるもので、噴火前には地殻変動群発地震を発生し、噴火に伴って溶岩ドームや潜在ドームによる新山を形成するのが特徴である。

20世紀の100年間で4度も噴火活動が観測された、世界的に見ても活発な活火山である。

噴火の歴史[編集]

有珠山火口原

江戸時代の噴火[編集]

7000〜8000年前の山体崩壊後は長く活動を休止していたが、1663年寛文3年)を境に突如として噴火活動を再開する。なお、『松前年々記』や松浦武四郎の『東蝦夷日誌』など一部資料には「慶長十六冬十月臼岳焼」との記録が見いだされるが、これは同年1611年に発生した慶長三陸地震を混同したものと考えられ、現在では有珠山の噴火記録としては認められていない[3]

寛文噴火[編集]

文献記録に残る有珠山噴火のうち、最大規模の噴火である。松前藩江戸幕府に提出した報告書『松前志摩在所山焼申儀注進之事』によれば1663年(寛文3年)旧暦7月11日から13日まで微震が続いたのち、14日の明け方より山頂カルデラよりプリニー式噴火を開始し、膨大な量の焼石や火山灰を噴出した。山麓の家屋が焼かれ、住民5人が死亡。活動は7月末まで続き、鳴動は東北の庄内地方にまで伝わった。さらに津軽の弘前でも鳴動に続いて天地が暗くなり、空から長さ3、4寸の毛が雪のように降ってきたという。これは、火山噴出物の一種・ペレーの毛と考えられる。この噴火の噴出物は膨大な量で、現在の壮瞥町で3m、白老町では1mの厚さに積もったほか、海面にも大量の噴出物が浮いて降り積もり、沖合2,700間(約5km)まで陸地のようになった[3]。さらに噴出物によって山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような臼状の地形となった。

明和噴火[編集]

1769年明和6年)旧暦12月、有珠山は約100年ぶりに噴火した。この噴火の直後に書かれた記録は少なく、『福山秘府年歴部』に「有珠山が噴火し、アイヌがおののき避難した」と記されているのみである。一方、次の文政噴火の折、有珠善光寺の僧が地元のアイヌから「前回、御山が焼けた折(明和噴火)には、一面に火が降り、タバ風(北西の風)でオサルベツ(長流川)沿いの家がすべて焼失した」との証言を聞き出していることから、明和噴火時に小規模な火砕流が発生したと推測される[3]。山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か、その前の寛文噴火の時と考えられる。

文政噴火[編集]

有珠山の噴火史上、最大の人的被害をもたらした噴火である。この時期、有珠山南西麓のアブタコタン(虻田町入江地区)には和人とアイヌの交易場所・アブタ場所が設けられ、戸数の多いコタンとして栄えていた。この噴火の顛末は、有珠善光寺の僧の日記『役僧日記』に、克明に記されている[3]

1822年文政5年)旧暦閏1月16日より有感地震が発生。18日には3、40回に増加し、アイヌたちの間に「噴火の前兆かもしれない」との動揺が広まる(地元住民が噴火と地震の関連を経験則でつかんでいた事がうかがえる)[3]。19日には半日で100回もの有感地震ののち、午後8時ごろ噴火が始まる。アイヌの長老たちはエムシを抜いて魔除けを行うも効果は無く、住民も善光寺の僧もベンベ(現在の豊浦町)やフレナイ(洞爺湖町赤川地区)方面に避難を開始する。20日に再度噴火。22日には早朝より大噴火。四斗樽ほどの焼石が幾千万となく流星のように吹き上がり、夕立のように降る。前山は猛火に包まれ、山麓には重さ30~40貫、シラオイ(現在の白老町)でも茶碗大の焼石が降った。モロラン(現在の室蘭市)では火山灰が3寸の厚さに積もって闇となり、白樺の皮を焚いて明かりとしたという。26日にも噴火[3]

そして2月1日早朝、大噴火と共に火砕流と火砕サージが発生した。火砕流は外輪山を超えて有珠山南西山麓を襲い、長流川河口からアブタコタン、フレナイの区間は山林から会所、板倉、アイヌのチセ(家)の別なく炎上し、牧場主の村田卯五郎、場所請負人の茂兵衛、アイヌの住民など記録によって異なるものの50人以上が死亡した[3]。蝦夷地随一の馬産牧場だった虻田・有珠牧場も2,468頭の飼育馬のうち1,430頭を失う被害を受けた。その後は徐々に活動が沈静化し、2月下旬に終息した。現在ではオガリ山と呼ばれているカルデラ内部の潜在ドームは、一連の文政噴火で形成された。また、1977年の噴火以前までカルデラ内部にあった金沼、銀沼、茶沼の3つの沼は、いずれも文政噴火時の火口に水がたまったものされる。

文政噴火の結果としてアブタコタンは廃村となり、アブタ場所はフレナイ地区に移転となった[3]。 虻田のアイヌ民族の昔話に、文政噴火を題材としたものがある。「噴火の時、村民はみな他所に避難したが、村長だけは祭壇の前で祈り続けていた。やがて噴火が収まり、避難していた者がコタンにもどってきて見ると、村長がそのままの姿で祭壇の前に座っていた。驚いた村人が村長の肩に手をかけると、そのまま崩れて無くなってしまった。祈る姿のまま、焼かれて灰になっていた。」というものである[4]

嘉永噴火[編集]

1853年嘉永6年)、旧暦3月6日から鳴動が始まり、15日に大噴火。その後は小康状態を保っていたが、22日に東部から再度噴火。噴火時には「立岩熱雲」と呼ばれる大規模な火砕流が発生したが、文政噴火を知る住民たちはいち早く避難していた上、火砕流も当時集落のなかった洞爺湖方向へ流下したため、大きな被害はもたらさなかった[3]。この噴火は27日に終息し、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。一方、火山学者の田中館秀三は、「大有珠の溶岩ドームそのものは寛文噴火以前から存在したが、その当時は低くて山麓からは見えなかった。嘉永の噴火で急成長し、山麓からも見えるようになった」と推測している[3]

江戸時代の噴火はいずれも山頂からのもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆるプリニー式噴火だった。また、いずれも火砕流と火砕サージの発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失である。

明治噴火[編集]

1910年明治43年)7月25日、北西麓の金比羅山で噴火が始まった。まもなく北東麓の東丸山にかけての地域で次々に火口が開き、その合計は45個に及んだ。マグマが洞爺湖付近の地下水と遭遇して水蒸気爆発を起こしたものだった。一部の火口からは熱泥流が発生し、これに巻き込まれた1人が死亡。噴火は10月まで続き11月頃には終息した。なお、1903年5〜6月の鳴動は、前兆現象と考えられる。

北麓では地殻変動が起こり、最大約150m隆起して新たな山を形成した。この山は明治新山、あるいは明治43年にちなんで四十三山(よそみやま)と呼ばれる。

この噴火活動により、火口に近い洞爺湖岸では温泉が湧出するようになった。これが洞爺湖温泉の始まりである。

1944年 - 1945年噴火[編集]

有珠山東麓では1943年末から地震が続き、1944年昭和19年)に入ると壮瞥町の東九万坪と呼ばれる地域で次第に地盤が隆起しはじめた。6月23日についに水蒸気爆発が発生し、その後も爆発を繰り返した。この噴火では降灰による窒息で幼児1名が死亡している。

もとは標高100mあまりの台地だったところが、潜在ドームの形成により250mほどの山となり、11月中旬になると火口から溶岩ドームが現れ始めた。この潜在ドームと溶岩ドームは翌年9月まで成長を続け、標高は400mを超えた。この新山は田中館秀三により昭和新山と名付けられた。

1977年 - 1978年噴火[編集]

1977年(昭和52年)の8月6日から有感群発地震が発生する中、8月7日午前9時12分に山頂カルデラ、小有珠斜面からのプリニー式噴火が始まった。前兆の地震から32時間後の噴火であった[5]。8月14日未明まで4回の大きな噴火を含む16回の噴火が断続。噴煙の高さは最高12,000m。火口周辺地域には多量の軽石や火山灰が堆積し、家屋が破壊された。降灰は道内119市町村に降り注ぎ、農作物に多大な被害を発生させた。特に8月8日深夜の噴火は豪雨のさなかに発生したため、噴出した火山灰は雨水でセメント状になって森林地帯を襲い、樹木は重圧に耐えかねて壊滅した。灰を浴びてしなった木の姿は「ニューネッシー」に似ていたため、被害を受けた山林は「ネッシー地帯」と称された[3]。噴火前、火口原は牧場として利用されていたが、噴火で消滅している。また、当時付近を走っていた国鉄胆振線もこの噴火で不通になった。

11月16日からは水蒸気爆発が発生し始め、翌年の10月27日まで続いた。この爆発による火山灰に雨が降り注ぐことでラハール(泥流)が頻発し、8月23日には死者2名、行方不明者1名が出た。

地震と地殻変動は1982年(昭和57年)3月まで続き、山頂部の小有珠とオガリ山の中間点に新たな潜在溶岩円頂丘が形成された。あらたな山を命名するにあたり、伊達市は「有珠新山」、壮瞥町は「壮瞥新山」、虻田町は「洞爺新山」を主張したが、最終的には1980年7月に「有珠新山」と名づけられた[3]。また、地元民の憩いの場でもあったカルデラ内の池・銀沼が巨大な銀沼大火口へと姿を変えた。この地殻変動により校舎が破損した洞爺湖温泉小学校は移設を余儀なくされた。

1977年9月30日に北海道災害対策本部がまとめた集計によれば、被害額は伊達市88億9,072万2千円、虻田町(当時)73億6,254万4千円、壮瞥町28億1,886万9千円、洞爺村(当時)30億9,809万3千円である[3]

2000年噴火[編集]

現時点で最新の噴火は2000年平成12年)の噴火である。

予知[編集]

3月27日からの火山性地震の分析や断層の探索により近日中の噴火が予知され、3月29日には気象庁から緊急火山情報が出された。これを受けて壮瞥町・虻田町(当時)・伊達市の周辺3市町では危険地域に住む1万人余りの避難を噴火までに実施していた。通常、緊急火山情報は人命に関わるような噴火が発生したことを知らせるものであり、噴火前にこれが発表されたのは初めての例である。有珠山が比較的「噴火予知のしやすい火山」であること、噴火を繰り返す周期が短くかつ一定で、地域の住民の多くは前回、前々回、中にはそのさらに前の噴火を経験した人もいること、また、「温泉などの、有珠山の火山活動による恩恵を受けて暮らしているのだから、30年に1度の噴火は当然受け入れなければいけないこと」という意識が高く、周辺市町のハザードマップの作成や、普段からの児童への教育などがなされており、危険地域を避けた適切な避難誘導を行ったことなどもあり、被害は限局化されることになった。噴火直前北海道大学有珠火山観測所が144時間以内に噴火すると予告し(当時、北海道大学大学院理学研究科附属地震火山研究観測センター教授であった岡田弘教授らによる会見が随時行われた)、その予告から143時間目に噴火した。

噴火[編集]

2000年の噴火で廃墟となった山麓(2001年7月)
2000年の噴火で隆起した虻田町道泉公園線(2001年8月)

3月31日午後1時7分、国道230号のすぐ横の西山山麓からマグマ水蒸気爆発。噴煙は火口上3,500mに達し、周辺に噴石放出、北東側に降灰した[6]。噴火直後より、内閣安全保障・危機管理室からの要請で札幌行の特急列車長万部駅で運行を打ち切って洞爺駅回送させ、折り返し虻田・豊浦町民を長万部町へ移送する等の避難列車を仕立てた。翌日には西山西麓、また温泉街に近い金比羅山でも新火口が開いた。西山・金毘羅とも付近に次々と新しい火口を形成した。火口に近い地域では噴石や地殻変動による家屋の破壊が多発した。同年8月になると深部からのマグマ供給が停止し、9月以降は空振や火山灰噴出の活動は衰えた。

噴火の被害[編集]

2000年の噴火で寸断された道路(2013年5月)

国道230号は、噴火によって通行不能となり、後に溶岩の貫入による地盤の隆起により複数の断層が発生して破壊された。金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの橋が流失した。また、広い範囲で地殻変動による道路の損壊が発生した。なお、噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大した。JR北海道室蘭本線は一時期、跨線橋の落下などのため不通となり、長距離及び貨物列車の一部は函館本線経由で迂回運行された。3月29日から翌2001年(平成13年)6月30日までの間、道央自動車道の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。熱泥流に襲われ校舎が損壊した洞爺湖温泉小学校は、敷地が砂防ダム用地になったことも合わせて再び移転改築を余儀なくされた。

噴火の影響[編集]

また、有珠山に近い室蘭市入江運動公園陸上競技場で開催が予定されていたサッカー・J2コンサドーレ札幌浦和レッズ(4月9日開催)、ナビスコ杯・コンサドーレ札幌対ガンバ大阪(4月12日開催)は試合開催と復旧作業を同時に行うと混乱を招くことから開催を延期し[7]、前者は7月16日に同会場で[8]、後者は5月24日に札幌厚別公園競技場[9]代替試合を開催した。

2000年噴火以降[編集]

2014年現在、金比羅山の2つの火口には水が溜まり、池になっており噴気は観察されない。西山の火口群は火口辺縁の地熱帯より水蒸気が少量立ち上る状態となっている。破壊された国道230号線は地盤の隆起によって水勾配が変化したために、西山麓が水没して建物が使用不能になる被害がでた。そこで破壊された旧国道230号線に代わって、新たに西側に2本のトンネルを掘って最短距離で内浦湾に抜ける国道が建設された[10]虻田洞爺湖ICも新ルートの国道に接続する形で移設された[11]。また、不通区間を一部利用した道路も整備された。

断層について[編集]

大森房吉教授の有珠山論文(1911年)には、1910年の明治噴火によって有珠山の北側山麓の数本の断層が動きが報告されている[5]。これらの断層はその後の研究で、1910年のみならずその後の噴火活動でも動いていることが判明している[5]。1977-1982年の噴火では有珠山山頂部での有珠新山(潜在ドーム)の成長に伴い、有珠山北東部の外輪部分が北東方向に200mせりだした[5]。この地殻変動により洞爺湖湖畔では地盤が約25m洞爺湖側に動いた[5]。これらの断層は1本の単純な断層ではなく、複数の破砕された小断層で構成される。そのため地盤が傾斜したり右にずれる断層帯として地表に変化を表した[5]。一方、有珠山北西部(洞爺湖温泉街西部)では北東麓とは逆の左横ずれの断層が発生し道路や建物が破壊された。断層は噴火活動で動いた後は植生や風化によって急速にその姿が確認できなくなるので、有珠山・洞爺湖エリアでは過去の断層の調査に基づき、医療や教育施設は噴火の影響を受けにくく断層のない地区へ移設されるなどの対策を講じている[5]

主な見学場所[編集]

洞爺湖ビジターセンター・火山科学館[編集]

1977年、2000年の噴火時資料を多数展示している。2007年に環境省のビジターセンターが100mほど西側に建設された際に同じ建物に火山科学館が移転した[12][13]

金比羅山麓災害遺構群散策路[編集]

洞爺湖ビジターセンター・火山科学館の裏手に位置する。砂防ダム施設と、2000年の噴火の際に熱泥流に巻き込まれた団地や町営温泉施設を見学することができる。

金比羅山火口展望台[編集]

2000年に噴火した金比羅山火口を南から見下ろせる展望台。道路の整備費用として車1台につき1,000円を徴収(2013年)。金比羅山火口(K-A,K-B)が見えるほか、ごみ焼却場遺構、道路を横切る断層、教員保養所跡、洞爺湖電気鉄道道路橋跡、木の実沢団地、砂防堰堤などが望める。

西山火口散策路[編集]

2000年に噴火した西山火口付近に設定された散策路。枕木を敷き詰めており、子供から年配の来訪客まで容易にアクセスできる。枕木は鉄道のレールの下に敷かれていた枕木である。駐車場からは隆起により水没した道路(旧国道230号)が見える。旧道に沿って南下すると地殻変動によって隆起し階段状に破壊された道路が現れる。その先に第一展望台・第二展望台があり、西山火口群(火口A,B,C)がある。噴火から年月が経過し一部の火口には水が溜まるなどしているが、火口の辺縁からは水蒸気が立ち上る。噴火によって破壊された菓子工場遺構、旧とうやこ幼稚園も保存されている。散策道は南側にも抜けており南北双方向からアクセスできる。以前は駐車料金300円を徴収していたが、2005年からみやげ物店の利用を呼びかける形で無料となっている。

1977年火山遺構公園[編集]

1977年の噴火の地殻変動によって破壊された病院の建物が保存されている[5]。この病院は大森房吉が報告した断層の上に建設されており、断層の動きによって噴火の数日後より地面の亀裂が発生し[5]、2・3ヶ月間後に徐々に倒壊していったとされる[5]。1977年の噴火当時230名の入院患者が居たが[5]、噴火の前兆地震発生直後より洞爺湖対岸の閉校となっていた仲洞爺小学校を避難場所として指定していた[5]。噴火後は病院と役場の車輌および徒歩による患者のピストン輸送が行われ、短時間で避難を完了した。その後病院(三恵病院)は仲洞爺に移転新築された[5]

洞爺湖展望台・有珠火口原展望台[編集]

昭和新山山麓からロープウェイ有珠山ロープウェイ)が運行しており、有珠山や昭和新山、洞爺湖や内浦湾(噴火湾)などの景色を眺めることができる。

また、「外輪山遊歩道」が整備されており(11月~4月は雪のため閉鎖)、外輪山展望台までの道のりがトレッキングのコースになっている。

参考画像[編集]

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 支笏洞爺国立公園”. 環境省. 2014年8月9日閲覧。
  2. ^ 日本の地質百選・地質情報”. 一般社団法人 全国地質調査業協会連合会・非営利活動法人 地質情報整備活用機構. 2014年8月1日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 虻田町 『虻田町史 第五巻 洞爺湖温泉発達史』、1983年
  4. ^ 更科源蔵 『アイヌ伝説集』 みやま書房 、1983年
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m 1977年火山遺構公園の案内看板の記載内容より。
  6. ^ 有珠山 有史以降の火山活動”. 気象庁. 2014年8月9日閲覧。
  7. ^ 朝日新聞 2000年4月4日朝刊
  8. ^ 北海道新聞 2000年7月17日朝刊
  9. ^ 北海道新聞 2000年5月25日朝刊
  10. ^ 災害を経験し、噴火に強い道づくり (PDF)”. 北海道開発局 室蘭開発建設部 有珠復旧事務所. 一般財団法人 北海道道路管理技術センター. 2014年8月9日閲覧。
  11. ^ “道央自動車道 虻田洞爺湖ICを移設します 〜国道230号新ルートに直結し洞爺湖へのアクセスが便利に〜” (プレスリリース), 東日本高速道路 北海道支社, (2007年11月22日), http://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/hokkaido/h19/1122b/ 2014年8月15日閲覧。 
  12. ^ 支笏洞爺国立公園 洞爺湖ビジターセンター”. 2014年8月1日閲覧。
  13. ^ 洞爺湖町立 火山科学館”. 2014年8月1日閲覧。

参考文献・資料[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]