川越市
| かわごえし 川越市 |
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川越のシンボル時の鐘
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川越市紋章
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| 地方 | 関東地方 |
| 都道府県 | 埼玉県 |
| 団体コード | 11201-1 |
| 面積 | 109.16km² |
| 総人口 | 345,222人 (推計人口、2011年12月1日) |
| 人口密度 | 3,160人/km² |
| 隣接自治体 | 上尾市、さいたま市、坂戸市、 狭山市、鶴ヶ島市、所沢市、日高市、 富士見市、ふじみ野市、入間郡三芳町、比企郡川島町 |
| 市の木 | カシ |
| 市の花 | ヤマブキ |
| その他 | 市の鳥:雁 市の日:12月1日 市の歌:われらの川越 |
| 川越市役所 | |
| 所在地 | 〒350-8601 埼玉県川越市元町1丁目3番地1 |
| 外部リンク | 川越市 |
| ウィキプロジェクト | |
川越市(かわごえし)は、埼玉県南西部に位置する人口約34.5万人の市である。旧・武蔵国入間郡。埼玉県内ではさいたま市、川口市に次ぎ県内3位の人口を擁する。中核市と業務核都市に指定されている。
目次 |
[編集] 概要
江戸時代には親藩の川越藩の城下町として盛えた都市で、「小江戸」(こえど)の別名を持つ。城跡・神社・仏閣・旧跡・歴史的建造物が多く、文化財の数では関東地方で神奈川県鎌倉市、栃木県日光市に次ぐ。戦災や震災を免れたため歴史的な街並が残っており、市内の観光名所には年間約620万人もの観光客が訪れる観光都市である。海外の旅行ガイドブックに紹介されることも多く、最近では外国人旅行者が多い(例えばニューヨーク・タイムズ紙の「2009年トラベルガイド」の 川越特集)。
埼玉県を代表する都市の1つ。市内に公立・私立の進学校が多く、埼玉県でも数少ない文教都市であり、住宅地としての人気も高い[1]。
武蔵野台地の北端に位置し、荒川と入間川が市内で合流する。地理的な要衝で平安時代には河越館に豪族の河越氏が興り、鎌倉幕府で権勢を誇った。室町時代に太田道灌によって河越城が築城され、上杉氏、次いで北条氏の武蔵国支配の拠点であった。戦国時代には関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台となった。河越夜戦は「日本三大夜戦」とされる。
川越城を擁する川越藩は江戸幕府の北の守りであり、武蔵国一の大藩としての格式を誇り、酒井忠勝・松平信綱・柳沢吉保など大老・老中クラスの重臣が配された。そのため、江戸時代から商工業や学問の盛んな城下町であった。川越藩の歴代藩主は武蔵野の開発に力を注いだ。「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、川越藩士の安松金右衛門に命じ、玉川上水や野火止用水、新河岸川の開削、川島大囲堤の築造、川越街道の改修を行い、行政手腕の秀でた柳沢吉保は、川越に召抱えていた荻生徂徠の建議を入れ、筆頭家老の曽根権太夫に命じ、三富新田の開拓などを行った。
川越藩によって殖産政策が遂行され、農産物や絹織物・工芸品など市場競争力のある特産品開発がなされた。川越藩領の狭山丘陵で河越茶(狭山茶)の栽培が進められ、武蔵野の開墾地ではサツマイモの栽培が盛んになった。高林謙三が開発した「高林式製茶機械」によって狭山茶は隆盛することとなり、赤沢仁兵衛が考案した「赤沢式甘藷栽培法」によってサツマイモの収穫量は劇的に増加した。寛政年間に焼イモが江戸で大流行すると、新河岸川や入間川の舟運で江戸に出回ったサツマイモは川越芋と呼ばれ味の良さで持て囃され、「イモの町」のイメージも定着した。こうした領内や秩父など近郊からの物資の供給地として「江戸の台所」と呼ばれ繁栄した。
埼玉県下随一の城下町(川越藩の石高は武蔵国で最大)であったので、廃藩置県では川越県、次いで入間県の県庁所在地となった。入間県は東京の武蔵野市周辺から新座や秩父・熊谷・本庄まで含んで発足、入間県の面積は現在の埼玉県の7割を占めていた。現在の埼玉県が成立した後でも、埼玉県内で最初に市制を施行したのは、県庁所在地となった浦和ではなく川越である。明治以降も先進的な発展が続き、埼玉りそな銀行の前身であり埼玉県で唯一の国立銀行であった第八十五国立銀行の発祥地である[2]。また旧川越藩御用商人衆には横田五郎兵衛、山崎豊、黒須喜兵衛など豪商が多く、米穀取引所や民間による銀行(川越銀行や川越商業銀行)の設立や商工会議所・医師会などの発足も埼玉県内で最初である。後に川越市初代市長となる綾部利右衛門ら川越商人の強い力で、埼玉県で最初に火力発電所や水力発電所を設け、埼玉県下で最初に電灯が燈った町でもある。
川越商人に加え上広瀬村(現・狭山市)の清水宗徳が参画して川越鉄道が甲武鉄道の国分寺駅との間に建設された(現在の西武新宿線と西武国分寺線のルーツ)。また、利右衛門らの川越電気鉄道が大宮との間で開通した。川越電気鉄道は蒸気機関車ではなく、その名の通り、埼玉県で最初の電車であった。川越鉄道と川越電気鉄道は最終的に合併し、西武鉄道(旧)となり、川越藩三芳野村(現・坂戸市)出身の大川平三郎(「日本の製紙王」と呼ばれ大川財閥を作った)らが役員に名を連ねた。利右衛門らの西武鉄道は堤康次郎の武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と太平洋戦争中に合併する。一方、1902年(明治35年)には利右衛門ら川越商人と川越商業銀行頭取で新河岸川の回漕業者でもあった福岡村(現・ふじみ野市)の星野仙蔵が東京 - 川越間の京越鉄道の敷設を計画した。これは本社を川越に置いて発足した東上鉄道に引き継がれ、1914年(大正3年)に池袋駅 - 田面沢駅(現在の川越市駅の西方にあった)間で開通した。2年後には坂戸駅まで延伸。しかし、東上鉄道は1920年に根津嘉一郎の東武鉄道に吸収される。昭和になって軍需鉄道の八高線の建設が決まると川越商人たちが川越線建設を求める請願を行い、国策鉄道として省線の川越線が開通した。代わりに、川越 - 大宮間の電車(西武大宮線と改名)は廃線となった。
現在では、JR・東武東上線川越駅(乗降客数で埼玉県内では大宮駅に次ぐ2位[3])及び、西武新宿線本川越駅を合わせた乗降客数は26万人を超え、東武東上線・川越市駅もあわせると中心市街地に駅が3つある事になる。旧市街地の玄関は西武の本川越駅で、新市街地の玄関は東武の川越駅である。川越駅周辺は、大宮駅周辺に次ぐ埼玉県内第2位の繁華街として賑わっている。
新宿・池袋副都心から延びる鉄道路線の多くが川越へ通じており、都心部(特に西側)で川越の文字を目にすることが多い。JR・私鉄の複数の路線で新宿・渋谷・池袋に乗り換えなしで行く事が可能である。
新宿からは西武新宿線の本川越行き、埼京線の川越行き、東京メトロ副都心線(東武東上線直通)の川越市行き、の3ルートがある。また池袋からは埼京線、東武東上線、東京メトロ有楽町線(東武東上線直通)の3ルート。渋谷からは埼京線、東京メトロ副都心線の2ルート。新木場へも東京臨海高速鉄道りんかい線(川越線直通)、東京メトロ有楽町線の2ルートで乗り換えなしで行くことができる。また、川越など荒川以西の県西部は伝統的に浦和方面よりも多摩方面に交流があり、川越線は八高線と直通し八王子に乗り換えなしで、西武新宿線は西武国分寺線に乗り入れる列車があり国分寺に乗り換えなしで行くことができる。
室町時代より川越街道(現・国道254号)で、江戸時代より新河岸川舟運で、江戸と直結した物流の要衝であり、1971年(昭和46年)には関越自動車道が練馬IC - 川越IC間で最初に完成、開通時の名称は「東京川越道路」であった。国道16号(東京環状)や首都圏中央連絡自動車道(圏央道)も通じている。
[編集] 人口
| 川越市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 川越市の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||
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■紫色 ― 川越市
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 |
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川越市(に該当する地域)の人口の推移
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| 総務省統計局 / 国勢調査 | ||||||||||||||||||||||||||||
- 1886年(明治19年)の調査では、川越城下の人口はおよそ15,000人。埼玉県内で唯一、人口が1万人を超えていた。
- 1902年(明治35年)の埼玉県人口動態調査では、川越町(当時)の人口はおよそ27,000人で埼玉県内1位。2位の熊谷町は15,000人、3位の本庄町はおよそ9,000人だった。
- 1920年(大正9年)の第1回国勢調査人口では、埼玉県の総人口は約130万人。川越町はおよそ25,000人で1位。県庁所在地の浦和町(現・さいたま市浦和区)の2.5倍、大宮町(現・さいたま市大宮区)の2倍の人口を擁していた。川越町の町域は当時の市街地の一部に過ぎず、街は町域外に拡大、明治以降、人口は主に旧仙波村など隣接地で増加していった。川越は昭和になっても埼玉県内で最大の人口の都市であった。
[編集] 昼夜人口比率
昼夜人口比率は、96.51%(2005年)。
[編集] 地理
[編集] 気候
ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属する。1年を通じて穏やかな気候で、年平均降水量は1320mm、年平均気温は15.8℃、年平均相対湿度は62.8%、年平均風速は2.1m/s。(数値は2009年)。
[編集] 地誌
都心から30km圏に属し、北緯35度55分30秒、東経139度29分08秒(市役所のある元町)。市域は東西およそ16.3km、南北およそ13.8km。標高は元町で海抜18.5m、市の南端が最も高く50.7m、東部が最も低く6.9m、標高差およそ44mである。
荒川と多摩川に挟まれた地域を武蔵野台地と言い、川越はその北東端に位置する。武蔵野台地は奥秩父山地を水源とする多摩川が形成した扇状地である。太古の多摩川(古多摩川)は東京都と神奈川県の都県境方面ではなく埼玉県西部の入間郡を横断して流れていた(今の入間川の流路とほぼ同じ)。武蔵野台地は柳瀬川以北を特に川越台地と呼び、さらに入間川を超えた北西側を特に入間台地と呼ぶ。南西には狭山丘陵が接する(狭山丘陵も古多摩川が土砂を堆積してできた丘陵で、狭山丘陵の形成によって多摩川は後に流路を南に変えることになった)。河越館が築かれたのは入間台地の東限で、川越城が築城されたのは川越台地の北限である。川越城は地形を利用した平山城であった。1457年(長禄元年)に川越城と江戸城を築城した太田道灌は、両城を結ぶ防衛ラインとして川越街道を造った。以来、川越街道より西南側へ多摩地域までが武蔵野と呼ばれる地方で、文化的な一体性がある。
川越台地を取り囲むように周囲は低地であり市内からは関東平野を囲む山々を眺めることができる。外秩父山地や武蔵野台地の武蔵野面(古多摩川が形成した高位の河岸段丘)に降った雨は、入間川や新河岸川、越辺川、不老川、小畔川、赤間川など(今では多摩川水系ではなく)荒川水系の幾多の河川を形成し、川越の町を囲むような低地に主に北西方向から南東に流れる。町は台地上に形成され、南側の台地に拡大する余地が残っており、歴史的にも南へ街が広がってきた。甲武信ヶ岳を源とする荒川は江戸時代の寛永の瀬替えにより大宮台地西側を流れるようになり流量を増やした。荒川は、大持山から流れ出た入間川と当市内の古谷上で合流して日本でも最大規模の河川敷を形成する(国道16号の上江橋は河川にかかる国道の橋としては日本最長である)。このため、「外川」と呼ばれた荒川の対岸の大宮などとは歴史的にも結び付きがあまり無い。
川越街道は入間川や荒川を渡ることなく江戸へ通じたので、荒川や利根川の氾濫に苦しめられた中山道に劣らず賑わった。「内川」と呼ばれた新河岸川は江戸へ向って傾斜し隅田川に合流するので、川筋が整備され舟運が盛んであった。大正時代に新河岸川は赤間川と合流され、さらに川越市街を取り巻く形となった(大正時代に新河岸川のルートに東武東上本線が建設され、舟運は廃された)。こうした河川が市内北部や東部に広大な氾濫地である荒川低地を作り出し、稲作地帯となっている。市内東部には埼玉県内最大の自然沼である伊佐沼もある。旧荒川の流路に沿って自然堤防も形成されている。こうした沖積層は、地下水位が高く軟弱な粘土やシルトが厚く分布している。
一方、武蔵野台地(川越台地・入間台地)上にある市内中心部・南部・西部は対照的に洪積台地となっており、富士山や浅間山の火山灰が形成した関東ローム層(立川ローム層とその下の武蔵野ローム層)の下には古多摩川が形成した比較的安定した礫層がある。関東ローム層は保水力が無く井戸水に困り、また江戸時代以前は武蔵野台地を水源とする川は石神井川や不老川など数少なくその上、瀬切れを起こし易く台地上では水の確保に苦労した。現在では武蔵野の雑木林の面影を残し、水はけが良いことから畑作地帯となっている。
- 地名の由来
直接の由来は平安時代に河越館を構えた豪族河越氏[4] であるが、その由来は古来より諸説ある。 川越は古来より武蔵国の中枢で、諸方に交通の便が拓けていたが川越市街地を川が囲む形となっており、入間川を越えないとたどり着けない地であることから「河越」と称されたという説や、養寿院にある銅鐘(国の重要文化財)に「武蔵国河肥庄」という銘があり吾妻鏡にも文治2年(1186年)の記述に既に「河肥」の文字があることから入間川の氾濫によって肥沃な地であるからという説、などである。
[編集] 歴史
[編集] 先史・古代
- 市域のほとんどは武蔵野台地にあるが、市の荒川沿いの東南端部は縄文時代前期には遠浅の内海(古東京湾)で(縄文海進)、小仙波貝塚など漁労を立証している。寺尾貝塚は現存する最北端の古東京湾の貝塚で、打製石斧なども出土している。縄文時代中期の遺跡は武蔵国では入間郡に集中して存在している。縄文時代後期は海退が進み、現在の地形に近づいていったが、武蔵野台地は狩猟・採集活動に適した地形・地質で、仙波台地や新河岸台地などでは縄文式土器や竪穴住居跡を発掘している。老袋の入間川畔の沖積地からは縄文時代後期の丸木舟も出土している。小畔川畔には鶴ヶ丘遺跡や霞ヶ関遺跡など弥生時代の集落址が点在している。
- 古墳時代には市内の河川流域に、仙波古墳群(大仙波古墳群・小仙波古墳群)、下小坂古墳群、的場古墳群、南大塚古墳群など夥しい古墳が築かれるようになった。小仙波古墳群の三変稲荷神社古墳は4世紀の方墳で、埼玉県内最古の古墳の1つ。南大塚古墳群の主墳・山王塚古墳は珍しい上円下方墳で、上円下方墳では東日本最大である。周辺には集落の遺構もある。対岸の的場古墳群の主墳・牛塚古墳は入間川流域最大の前方後円墳で珍しい重葬式石室を有し、東日本で唯一の金銅製指輪を出土している。これら古墳は埼玉県選定重要遺跡となっている。
- 富士見町にある占肩鹿見塚は、飛鳥時代以降に編まれた万葉集巻14の東歌に詠まれたところで、埼玉県指定史跡となっている。
武蔵野に占へかたやきまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
- 律令制が確立すると、入間川に近い上戸には入間郡役所である入間郡家(いるまぐうけ)が置かれ、上野国・下野国から武蔵国の国府(府中)に至る官道の東山道武蔵路が通じ、日本各地で作られた須恵器や土師器が出土しておりこの地方の中心であったことが分かる。
- 奈良・平安時代には、川越は「三芳野の里」と呼ばれ、伊勢物語には川越(みよし野)の様子が詠われている。江戸期に編まれた新編武蔵風土記稿ではこの場所を市内の的場だと比定している。
みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる
- 平安時代になると、荘園が形作られ、武蔵七党の村山党の1つ・仙波氏(仙波から南の一帯)を始め、地頭の古尾谷氏(石清水八幡宮の荘園だった古谷本郷)、山田氏(山田)など荘園を支配する武蔵武士が台頭し、都や国衙と繋がった。
[編集] 中世(戦国時代まで)
- 中でも勢力を拡大したのが、入間川左岸と小畔川に挟まれ入間台地の先端に位置する上戸の河越氏であった。郷祖・秩父重綱によって荘園が拓かれ開発領主となった河越氏は、桓武平氏の流れを汲む坂東八平氏の1つ秩父氏の嫡流である。秩父氏は、平安時代には利根川を挟んで新田氏・足利氏などと抗争する武蔵国最大の豪族であり、武蔵七党など武蔵国の中小武士団を統括する棟梁であり高家とされた別格であった。
- 河越氏の祖は、秩父氏の家督を引き継いだ宗家の秩父重隆(秩父重綱の子)である。秩父重隆は「武蔵国留守所総検校職」(武蔵国の国司の代理。形骸化した国司に代わり武蔵国を支配した在庁官人)に任ぜられ、肥沃な入間川河畔の所領である河越の地名を冠して河越二郎と称した[5]。しかし、大蔵合戦で殺され、その子・河越能隆は拠点を河越館に移し、自領・河越荘を後白河上皇に寄進し荘官となり、以来、河越氏を名乗ることになった。居城・河越館には鎌倉街道(上道)が通じ、川越は中世には河越と表記されるようになる。
- 河越能隆の子・河越太郎重頼も武蔵国留守所総検校職を勤め、平知盛と深い関係であったが、保元の乱で源義朝に服属することとなり国人を治め高家と呼ばれた。源頼朝が武蔵国に入ると同族の畠山重忠らと共に有力御家人として支え木曾義仲討伐で功を上げ、京に入ると伊勢国の地頭に任命されるなど関東武士として栄誉に浴した。河越重頼の妻の母・比企尼(比企能員の伯母)が源頼朝の乳母であった縁で、河越重頼の妻・河越尼が源頼朝の子で鎌倉幕府第2代将軍となる源頼家の乳母となるなど、河越氏は鎌倉幕府中枢で権勢を誇った。源頼朝は鎌倉の背後の武蔵国を押さえるのに、最大の豪族である河越氏の力を必要とし、源頼朝の媒酌で、源義経の正室となったのは河越重頼の娘・郷御前である。河越重頼や子の河越重房は一ノ谷の戦いなど平氏追討で活躍した。源義経は謀反の嫌疑で失脚し討伐され平泉の衣川館で郷御前と共に果てるが、河越重頼の子・河越重員は鎌倉幕府から武蔵国留守所総検校職に復権され、武蔵守を兼ねる執権・北条泰時に代わって武蔵国を治め、河越館は武蔵国の政庁として機能した。河越重時は北条得宗家に重用され、河越氏の武蔵国筆頭御家人としての地位は不動であった。遠江権守の地位に就いた河越経重は河越荘を新日吉山王宮に寄進、また養寿院を開いた。鎌倉との深い繋がりで、河越がその文化的影響を色濃く受けた時代である。
- 南北朝時代、河越高重は新田義貞の挙兵に呼応、分倍河原の戦いなど鎌倉幕府の倒幕に活躍し、鎌倉将軍府が置かれると関東廂番(かんとうひさしばん)一番となった。その子・河越直重は、観応の擾乱で足利尊氏の重臣として功を上げ、室町幕府では鎌倉のある相模国や伊豆国の守護大名に任ぜられた。太平記には河越直重が上洛した折に、豊富な経済力を背景に華美な服装や奢侈な振る舞いで京の人々を驚かせたことが記されている。しかし、足利直義と近かった上杉憲顕が関東管領に復権すると、河越直重は鎌倉府に対決することとなり秩父党を率い武蔵七党を従え、さらに下野国の宇都宮氏綱と同盟して武蔵平一揆を主導した。しかし足利氏満を擁して反撃に転じた上杉憲顕に河越館での河越合戦に敗れ、平安時代からの武蔵国筆頭の名門豪族・河越氏は歴史の幕を閉じた(河越直重は伊勢国桑名地方に逃れた。ここが現在の三重県川越町に繋がるとされるが詳細は不明である)。河越氏滅亡により武蔵国は乱世の時代を迎える。
- 代わって、武蔵国の要衝として上杉氏(河越に居し南関東を支配した扇谷上杉家)の本拠地となる。長禄元年(1457年)には東の古河公方の勢力を阻止するために、上杉持朝の命により、家宰の太田道真・太田道灌父子によって河越城、そして河越から鎌倉への中間点に支城の江戸城が築城され河越街道で結ばれた。上杉持朝は初代河越城主となる(家臣の太田道灌が初代江戸城主となった)。入間川右岸の台地に築かれた河越城は、入間川左岸の河越館から町を移転させた形となり、河越城下は武蔵国最大の人口を数え、特に上杉定正までの3代に亘って中世文化が発展した。太田道真・鈴木道胤が歌聖と謳われた宗祇や心敬を京から招き、兼載などの連歌師も参加して河越城で催された連歌会は「河越千句」(文明元年・1469年)として知られる。宗長も河越に滞在した。太田道灌が暗殺され、太田道真が領地の越生に没すると、河越は扇谷上杉家と山内上杉家の勢力争いの舞台となる(河越城主の上杉定正・上杉朝良と、河越館(上戸陣)に布陣した関東管領の上杉顕定が争った長享の乱)。上杉朝興が河越城主だった折に、剣豪・塚原卜伝が河越城下で行った真剣勝負は有名である。日本の医学史において「医聖」と讃えられる田代三喜が、河越地方で活躍したのもこの時代である。
- 戦国時代には北条早雲の子・北条氏綱が武蔵国に侵攻を開始、大永4年(1524年)に江戸城を落とした。上杉朝興は江戸城奪回を果たすことなく天文6年(1537年)に河越城で病死すると直ちに北条氏綱に付け込まれ、継嗣・上杉朝定の守る河越城はついに落城した。上杉氏6代80年の時代が終わり、北条氏康(北条氏綱の子)の居城として後北条氏の関東制圧の橋頭堡となる。武蔵国には依然として上杉氏が隠然とした勢力を保ち、河越城奪還で結束した両上杉家(難波田憲重の松山城に逃れた上杉朝定・鉢形城の上杉憲政)・古河公方の足利晴氏の3者連合軍は、駿河国の今川氏の新当主・今川義元と抗争中(第2次河東一乱)の北条氏康を挟撃し、天文15年(1546年)に河越夜戦(かわごえよいくさ)が起こった。この戦いは「日本三大夜戦」の1つとされ、河越城を死守した城将は、黄八幡の猛将として名高い北条家の大将・北条綱成(福島綱成)であった。また軍師の多目元忠の活躍で北条氏康の救援軍の危機を救った逸話は有名である。敗れた関東管領の上杉憲政は越後国の上杉謙信のもとに逃げ延びて行き、北条氏康は子の北条氏照や北条氏邦を八王子城や天神山城に配し、武蔵国は完全に後北条氏の版図となった。河越はその最重要拠点として、北条早雲の甥・大道寺盛昌以降、宿老の大道寺氏が代々の城代を勤め、兵農分離が行われ城下町として整備がなされた。特に大道寺政繁の時代には河越城が修繕され、城下には次原新兵衛のような連雀商人が各地から集う「唐人小路」(とうじんこうじ)と呼ばれた地区が整備され、河越は繁栄を極めた記録が残っている。また、河越の武者は「河越衆」と呼ばれ精強で鳴らした軍団であった。
- 豊臣秀吉の小田原の役では、松井田城まで進出し迎え撃った大道寺政繁であったが、前田利家・上杉景勝・真田昌幸の軍勢に敵わず降伏、前田利家の北国軍によって大道寺直英の河越城は開城した。秀吉の命で大道寺政繁は北条氏直の身代わりとなって川越市内の常楽寺で自害した[6]。
[編集] 近世
- 徳川家康が関東に入封すると、松平氏と同族の譜代筆頭最古参で大老四家である雅楽頭酒井家の祖となる酒井重忠の所領となり、川越藩が立藩。酒井重忠は徳川家康の伊賀越えに功を上げ、三河国西尾城主から川越城に入ると、商人の座を廃止し楽市・楽座的政策で商業が繁栄する種を撒いた。川越は戦略拠点であり、徳川家康は同時に市内北部の鯨井には軍略に長けた戸田一西も据えた(鯨井藩)。江戸時代を通して、「江戸の大手は小田原城、搦手は川越城」と言われる程[誰によって?]、川越藩は江戸の北の砦として重視され、石高に較べ非常に多くの家臣を擁した。江戸期より河越が川越に変わる。酒井重忠の弟で老中の酒井忠利は第2代藩主となり喜多院を再興、家康のブレイン・天海僧正は喜多院を拠点とした。徳川家光の乳母・春日局にも所縁がある。川越は鷹狩を楽しむ地でもあり、特に徳川家康から徳川家光までの将軍三代にかけては頻繁に長逗留した。徳川家光にいたっては林羅山を伴い、週に2度川越で鷹狩をするほどであった。
- 川越藩の歴代藩主には、酒井忠利、酒井忠勝、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知、秋元凉朝 、松平直克、松平康英などの親藩・譜代の有力大名が配された。川越藩主のうち、幕閣の老中だけでも7名を数える。川越藩主は酒井忠利が徳川家康の再従弟、松平直侯が将軍・徳川慶喜の弟、というように血縁でも重視された封地であった。
- 藩政の基礎を作ったのは、後に大老に上り詰めた酒井忠勝(酒井忠利の子)で、城下の三芳野神社など寺社の再建や時の鐘などの建立、五人組制度や開墾奨励を行った。次の藩主・堀田正盛は春日局の孫で、徳川家光に近侍して老中に昇進を遂げた藩主で、寛永15年(1638年1月28日)の川越大火から寺社の再興に尽力した。堀田正盛も大老四家である堀田氏の祖となった。島原の乱を平定した功で川越藩主となった老中首座・松平信綱は、由井正雪の乱の鎮圧など江戸で幕政に多忙であったが、川越では町割り(十ヶ町四門前町、じっかちょうしもんぜんまち)を行って商業が栄える種を撒き、検地で小農自立を推し進めた。これらが川越の特産品開発に結びついた。松平信綱の政策はその後の各藩の手本とされた。また、松平信綱によって川越城は2倍の規模の近代的城郭となった。
- 中興の祖は、儒者でもある幕府側用人(大老格)・柳沢吉保である。柳沢吉保の頃から川越は「小江戸」と呼ばれるようになる。柳沢吉保は儒学者の荻生徂徠や細井広沢などを召抱えて川越に住まわせて顧問とし、川越は文化的にも隆盛した。柳沢吉保は武蔵野の新田を開発、藩財政の安定を図った。続く藩主・秋元喬知は将軍・徳川綱吉に進講する元禄時代の学者肌の老中として、また硬骨漢として知られる[誰によって?]。秋元喬知に随行して高山繁文や太陽寺盛胤といった有能な家臣が甲斐国から移り住んだので、柿や養魚・絹織物・養蚕などの副業も盛んになった。秋元氏第4代の川越藩主・秋元凉朝は幕閣において田沼意次との確執で知られる老中で、秋元凉朝は平賀源内を招聘、川越藩は平賀源内を用いて奥秩父・大滝の中津峡で鉱山開発を行った(現在のニッチツ秩父鉱山)。
- 川越藩は、徳川家康の次男・松平秀康を祖とし徳川御三家・御三卿に次ぐ御家門の越前松平家が川越藩主となった時代(7代、100年間)に、17万石の盛期を迎えた[7]。中でも松平斉典は「好学の名君」と呼ばれ、藩儒・保岡嶺南に命じ藩校の博喩堂を開設、保岡嶺南は川越版「日本外史」を刊行した。国学では林述斎の高弟で古事記偽書説で知られる盲目の医師・沼田順義を藩に招いた。松平斉典は西大手門に目安箱を置いて衆庶の声を藩政に取り入れた。経世家として高名な海保青陵は川越城下に生活、川越絹や煙草など特産品開発を指南した。川越絹は川越絹平(武士の着る袴地)や川越斜子(晴れ着の羽織地)として知られ、秩父絹や青梅縞とは異なる高級ブランド織物であった。江戸で一世を風靡していた狂歌師の元木網や歌人の尾高高雅も川越城下に暮らした。国学者で考古学者の井上淑蔭が活躍したのもこの頃である(井上淑蔭と嵩俊海、権田直助を「埼玉の三学者」という[8])。
- 城下町で武蔵国の商工農の中心地であった川越は、江戸とは川越街道や新河岸川の舟運で結ばれ繁栄を極めた。地方都市にもかかわらず江戸時代に武蔵国で唯一の九斎市が立つほどで、十組仲間という株仲間も組織された。川越城下は川越宿として川越街道の第7の宿場でもあった。川越街道は、川越藩主の江戸への参勤交代や荒川東岸の埼玉郡などにも在った川越藩領への連絡でも重要な役割を果たした。また川越児玉往還とも呼ばれ、川越藩領だった上州前橋への重要な道であった。江戸時代に物流・経済にとって最重要であったのは物を運べない街道ではなく舟運であり、新河岸川の上流には、川越の外港として川越五河岸が築かれ千住を経て浅草花川戸まで舟が行き交った。多摩地域からの物資も青梅街道ではなく、新河岸川の舟運を用いて江戸市中に運ばれていたほどの物流の大動脈であった。新河岸川の便利な早舟は「川越夜舟」と呼ばれ、川越街道や中山道から客足を奪った。
- 江戸時代、川越は大火(寛永15年、享保3年など)、洪水(寛保2年の「寛保の大洪水」、文政5年など)等の災害を経験した。荒川と入間川が合流した寛永年間以降、治水は藩の重要な政策となり、私財を投げうって被災した窮民を助けた川越の名主・奥貫友山のような慈善家、藩領の治水に生涯を捧げ農民救済に献身した安井政章のような川越藩士がいた。篤志家の中島孝昌はそうした郷土史に目を向け、入間郡地誌の集大成「武蔵三芳野名勝図絵」全3巻を著し松平直恒に献納した。
- 浮世絵師の喜多川歌麿は、伝馬騒動の時の藩主・秋元凉朝の時代(宝暦3年)に、川越城下に生まれたとも言われる。川越には昔から、歌麿の絵を所蔵する商人が多かったという[9]。
[編集] 幕末
- 長崎港でフェートン号事件などが起こり列強が日本に迫ると、文政3年(1820年)、武蔵国一の大藩である川越藩は会津藩に代わって相州警固役を命ぜられ、三浦半島が川越藩領となり、川越藩は浦の郷陣屋などを設け三崎・大津・観音崎・走水などに藩兵を駐屯させ砲台を置いた。弘化4年(1847年)、幕府は「御固四家」制を敷き、川越藩(三浦半島)、彦根藩(湘南)、会津藩・忍藩(房総半島)という海防体制になる。黒船が来航したのは浦賀・三崎など川越藩の管轄地であり、モリソン号事件、アメリカ艦隊のビッドル来航やペリー来航など開国という歴史のうねりに、川越藩は常に最前線で関係した(内池武者右衛門など参照)。ペリー上陸では川越藩兵500人が久里浜でペリーを警護し、藩主・松平典則は詳細な報告書を幕府に提出した。嘉永6年(1853年)に川越藩は内海防衛に回り、品川台場(第1台場)の建設・防衛を川越藩が担い、川越でも藩の鋳物を請け負っていた小川家がカノン砲を鋳造した。また高輪に陣屋を構えた。江戸で「当今江戸無類の上手」と謳われた藤枝英義はこの時期に活躍した川越藩の刀匠である。これら武備増強は川越にとって財政的重荷となったが、川越藩は外国の事情に最も通暁した藩の1つであり、内陸都市にも拘わらず時代の変化を読む先取の風土が生まれた。鈴木商店創業者の鈴木岩治郎などそうした川越人の起業家精神の一例である。
- 上野国前橋(現・群馬県前橋市)は、幕末の慶應3年(1867年)に前橋藩が立藩するまでおよそ100年間、川越藩領であった。そのため開国期に日本最大の輸出品であった生糸は、産地の前橋から川越藩が吉田幸兵衛など横浜の御用商人に専売し莫大な富を生んでいた。川越商人に豪商が多く、日本の近代製糸業を生み出した人物に速水堅曹や深沢雄象ら川越の人物が多いのはこのためで、生糸と茶という日本の2大輸出品の殖産興業策は川越藩が他藩に先駆けた。
- 幕末期の藩主・松平直克は幕府で政事総裁職(大老格)の要職を勤め、天狗党の乱の鎮圧方針で強硬派の水戸藩と対立した。一方で農民の大川平兵衛を川越藩剣術指南役に抜擢するなど藩政を近代化した。松平直克は慶応2年(1866年)に飯能から発生し一気に拡大した武州一揆の川越城下への波及を阻止した。次いで藩主となった松平康英は外国奉行、神奈川奉行、老中を歴任、幕府の第1回遣欧使節の副使としてフランス、イギリス、プロイセンなどに赴き、外交交渉を行った開明派の人物であった。松平康英は川越城の外堀を埋め上洛して恭順の意を示し川越の戦火を回避、振武隊(彰義隊の分派)の戦い(飯能戦争)では官軍は川越城に集結、川越藩は幕府残党の掃討戦を主導した。
[編集] 近代(第二次世界大戦まで)
明治に入り、1871年(明治4年)に川越藩は廃藩となるも、城下町の産業・人材や資本の蓄積・文化の伝統から、埼玉県随一の商都・金融の中心地、米取引・穀物集散地として栄えた。江戸時代から絹織物の大産地だったが中島久平ら川越商人は唐桟織など綿織物への転進に成功し、戦前までは日本一のコーデュロイ・ベッチンの産地でもあった。新興経済人である川越商人は自力で川越から鉄道を延ばし、教育や公共事業への強い情熱を抱いて様々な教育施設が整備された。文芸や武道も盛んで、特に著名な画家や剣道家を多く輩出した。埼玉県における婦人運動の中心地でもあった。日中戦争が始まるまで、埼玉県最大の人口であった。戦時中は軍の銅鐘などの供出要請に反対運動が起こり、文化財を守った。
- 明治時代
- 1868年(明治元年) - 川越藩が藩校の長善館に代わって青藍塾を開設し、和漢洋学と数学を教授(後に文学寮と改名。現・川越市立川越小学校)。
- 1869年(明治2年) - 川越藩が新政府に川越城の老朽化した建物を取り壊したい旨を届け出、城の部分的取り壊しが始まる。
- 同年 - 版籍奉還により、最後の川越藩主・松平康載が川越知藩事になる。
- 1871年(明治4年)8月29日 - 廃藩置県により川越県誕生(川越藩領の関係で現在の茨城県や神奈川県内などにも川越県の区域があった)。
- 同年12月25日 - 入間県成立で県庁所在地となる。井上馨の認可により県庁は川越城本丸に置かれる。
- 1872年(明治5年) - 近代最初の地方制度である大区小区制が確定し、川越は入間県内の第1大区第1小区となる。
- 同年 - 県庁のある川越に、他に先駆けて川越見張番所が開設される(現・川越警察署。管轄地域は現在の埼玉県西部一帯であったため、後の秩父事件では非常体制となった)。
- 1873年(明治6年) - 廃城令に伴い、川越城内の不用・破損の建物等の入札・売払が行われる。
- 同年 - 旧川越藩の家老屋敷に三芳野学校創設(現・川越市立川越第一小学校)。
- 1874年(明治7年) - 川越商人らが志義学校を開設(現・川越市立中央小学校)。
- 1877年(明治10年) - 豪商・竹谷兼吉が埼玉県最初の米穀取引所を開設。
- 1878年(明治11年)11月26日 - 埼玉県で最初の銀行であり、埼玉県唯一の国立銀行である第八十五国立銀行が開行(後の埼玉銀行、現在の埼玉りそな銀行)。
- 同年 - 旧川越藩剣術師範方の阿部親昵が搾乳業を開業。埼玉県における酪農業の嚆矢となる。
- 1879年(明治12年) - 川越商人によって新河岸川から仙波までの運河が工期10年で完成し仙波河岸が誕生。
- 1880年(明治13年)1月20日 - 埼玉県で最初の民営銀行・川越銀行が豪商の水村精によって開行。
- 1882年(明治15年) - 3年前の来訪に続いてエドワード・S・モースが二度目の川越滞在。今回は喜多院などで陶磁器の調査が目的だった。
- 1883年(明治16年) - 川越 - 上尾宿(現・上尾市)間に乗合馬車の営業開始。
- 1888年(明治21年) - 司法省で翻訳をしていた旧川越藩士の喜多欽一郎らが県の認可を受けて私立川越英和学校を創立(その学統は埼玉県第三尋常中学校に継承され、埼玉県立川越高等学校のルーツとなる。喜多欽一郎は川越市政最大の功労者と言われ[誰によって?]、川越の教育の礎を築いた)。
- 同年 - 前年に医術開業試験に合格し、荻野吟子に次いで日本の「女医第2号」になった生沢クノが川越で開業、花街の女性に医療活動を開始する。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、川越城下17町・松郷・東明寺村・小久保村・脇田村・小仙波村・野田村が合併し、川越町が発足する[10]。
- 人口18,607人、面積:7.46km²
- 同年 - 埼玉県で最初の教会である日本聖公会の川越キリスト教会が建立(現・日本聖公会川越キリスト教会)。
- 同年 - 川越の各仏教寺院と川越商人が協力し、貧しい児童のための川越慈善学校を設立。
- 1890年(明治23年)7月1日 - 帝国議会・第1回衆議院議員総選挙が実施される。川越選挙区(当時の埼玉2区)で当選したのは川越商人に支援されて川越から立候補した立憲改進党の高田早苗で、全国最年少当選者となった(高田早苗は後に早稲田大学初代学長や文部大臣を歴任)。
- 1893年(明治26年)3月17日 - 川越大火。市街地の多くを焼失。その後、耐火建築である蔵造りの建物が多く建てられることになる。
- 1894年(明治27年) - 川越鉄道の国分寺駅 - 久米川駅(現・東村山駅)が開業(現在の西武鉄道)。
- 同年 - 1774年(安永3年)からの長い歴史を有する川越城下の町火消が、この年に川越消防組として編成発足(現・川越地区消防組合)。
- 同年 - 前年に公布された取引所法を受けて、埼玉県の流通・取引組織として株式会社川越米穀取引所が設立。
- 1895年(明治28年) - 入間郡内の青年らが入間学友会を結成。大隈重信、渋沢栄一らの支援を受けて奨学金制度を立ち上げる。
- 同年 - 川越鉄道の久米川駅 - 川越駅(現・本川越駅)間が完成。
- 1896年(明治29年) - 7月に川越商業銀行、11月に川越貯蓄銀行がそれぞれ開行。
- 1897年(明治30年) - 星野女塾が開校(現・星野学園中学校・星野高等学校)。
- 1898年(明治31年) - 川越城址に埼玉県第三尋常中学校設立(3年後に埼玉県立川越中学校。現・埼玉県立川越高等学校)。
- 1899年(明治32年) - 川越振武会が剣道場・川越明信館を創設。
- 1900年(明治33年) - 国の商業会議所条例に基づいて、埼玉県で最初の商業会議所設立(現・川越商工会議所)。
- 同年 - 市制施行を埼玉県知事に請願することを町議会が可決(その後、反対派住民が揉めて市制施行が長い間決まらず)。
- 1901年(明治34年) - 日本聖公会川越キリスト教会に着任した司祭の田井正一が埼玉県で最初の認可幼稚園・宇気良幼稚園を開園(日本聖公会の幼稚園としても日本で2番目。その後、歴代園長の多くはアメリカ人が勤めた。現・初雁幼稚園)。
- 同年 - 東京市の香蘭女学校と同系列の女学校・香蘭館が川越商人の後援を受けて日本聖公会によって設立。川越でアメリカ人による講義が受けられる唯一の女学校として県下の才媛を集めた(後に川越女子学院と改名。公立の川越高等女学校が出来たので1910年(明治43年)に廃校)。
- 1902年(明治35年) - 埼玉県で最初の火力発電所・川越電気鉄道石炭火力発電所が開設。
- 同年 - 綾部利右衛門が土地を提供し川越商人が資金を出し合い、川越会館が開館。和風建築で庭園も備え、川越の集会場として機能する(1963年(昭和38年)に市民会館に建替えられる)。
- 1903年(明治36年) - 川越囚獄内に川越分監農工芸学校が開設(現・川越少年刑務所内の初雁技能訓練所。刑務所内の受刑者の教化事業として日本の草分けとなる)。
- 1904年(明治37年)12月 - 川越電気鉄道石炭火力発電所からの送電で、埼玉県で最初に電灯が点灯する。
- 同年 - 川越の商家には多くの幼い子守が働いていたことから[11]、教育者の榎本中三郎が川越幼稚園を開園。
- 同年 - 野々山喜右衛門が中心となって川越電話所が開設。
- 1906年(明治39年) - 川越電気鉄道が大宮駅まで開通。埼玉県で最初に電車を走らせた鉄道となった。
- 同年 - 川越町立川越高等女学校開校(5年後に県立に移管。現・埼玉県立川越女子高等学校)。
- 1908年(明治41年) - 教育者であった養寿院僧侶・石井愚鑑、広済寺住職・笠松仙英らが民営の埼玉和協会訓盲学校を開校(埼玉県初の盲学校。その後、文部省や宮内省から選奨され補助金を受ける。県に移管され埼玉盲唖学校と改名。現・埼玉県立特別支援学校塙保己一学園)。
- 同年 - 川越商業会議所の埼玉県知事に対する建議が実を結び、埼玉県立川越染織学校が開校(埼玉県初の工業学校。その後、埼玉県立工業学校と改名。現・埼玉県立川越工業高等学校)。
- 1910年(明治43年)8月11日 - 関東大水害。川越でも東部の低地が洪水で大きな被害を出す。
- 同年 - 川越織物市場が開設。
- 1911年(明治44年)6月9日 - 同年4月1日に誕生した日本初の飛行場・陸軍所沢飛行場から徳川好敏大尉が操縦する複葉機アンリ・ファルマン機が、初めての飛行場外飛行として川越町中心部への飛行に成功する。同日、ブレリオ機で再度川越まで飛行するが異常が発生し、仙波村大字新宿(現・市内新宿5丁目)に不時着する(日本初の飛行機の不時着事故)。
- 大正時代
- 1912年(大正元年) - 陸軍特別大演習が立川村から熊谷町にかけての東京・埼玉で行われる。川越はその御座所となり、即位した大正天皇が川越で軍を統監した。
- 同年 - 1892年(明治25年)より川越で宣教をしていたフランス人神父・メイランによって、カトリック教会聖堂が建立(小教区の教会として埼玉県最古。現・カトリック川越教会)。
- 同年 - 洋館の川越町役場が完成(現在の市庁舎に建替えるため、1971年(昭和46年)に解体される)。
- 1913年(大正2年) - 川越電気鉄道が水力発電事業に進出。埼玉県内や群馬県に電力供給するため、武蔵水電を設立。水力発電所も神流川に完成する。
- 1914年(大正3年) - 東上鉄道が池袋駅-田面沢駅間で開通(現在の東武東上本線)。
- 1915年(大正4年) - 1904年(明治37年)に「青年文庫」を開設した安部立郎が、この年に本格的な私立川越図書館を開館(2年後に町立になる。現在の川越市立中央図書館。安部はその後も郷土資料の収集や復刻、「入間郡誌」の編纂を行った)。
- 1920年(大正9年) - 埼玉県立川越蚕業学校開校(後に県立蚕業学校、戦後は埼玉県立川越農業高等学校。現・埼玉県立川越総合高等学校)。
- 同年 - 新河岸川の改修工事が埼玉県内・東京市内の全域で始まる。
- 同年 - 道路法(旧法)の施行に合せて埼玉県が県道を制定。川越町 - 浦和町間の道路が埼玉県道1号となる(その後、国道16号の一部となってこの旧埼玉県道1号は消滅)。
- 同年10月1日 - 第1回国勢調査が実施される。川越町は埼玉県内で最大の人口を記録(2位は熊谷町)。
- 1922年(大正11年)12月1日 - 入間郡仙波村を編入し、埼玉県内で最初に市制施行、川越市となる(内務省告示第313号)。
- 人口30,359人、世帯数5,414世帯、面積12.36km²
- 同年 - 山村裁縫手芸伝習所開設(現・山村学園高等学校)。
- 同年 - 埼玉県で最初の医師会が発足(現・川越市医師会)。
- 1923年(大正12年) - 埼玉県で最初の百貨店・山吉デパートが開店。
- 同年9月1日 - 関東大震災。当市内の被災は比較的軽微で、全壊家屋20棟(埼玉県内の全壊家屋は4,700棟)。
- 1924年(大正13年)10月10日 - 都市計画法(旧法)に基づき、埼玉県内唯一の市である川越に埼玉県で最初の都市計画委員会が設置される。
- 1926年(大正15年) - 武州瓦斯設立。埼玉県内に本社を置く最初の一般ガス事業者となる。
- 同年 - 石川製糸の創業者・石川幾太郎らの尽力で、埼玉県川越商業学校開校(後に川越市立高等女学校と合併し埼玉県川越商業高等学校。現・川越市立川越高等学校)。
- 同年 - 市内の医師らが資金を出し合い、無報酬で私立川越産婆看護婦学校を設立(現・川越准看護学院)。また、無料の川越助産院も開院。
- 昭和時代(戦前)
- 1928年(昭和3年) - 埼玉県で最初の福祉施設・埼玉育児院が資金難から発祥地の比企郡菅谷村(現・嵐山町)から川越に移転。
- 同年 - 川越選出の埼玉県会議員(県会副議長)でメソジスト教徒・弁護士の山内庫之助による請願が実を結び、埼玉県会が公娼制度廃止を建議。山内庫之助をリーダーとする廃娼運動は明治末期以降、川越や金子村(現・入間市)など入間郡から起こった運動である。
- 1929年(昭和4年) - 埼玉県で最初のゴルフ場・霞ヶ関カンツリー倶楽部開場。
- 同年 - 川越競馬が今成に発足(埼玉県内では秩父町、熊谷町に次いで3番目)。
- 1931年(昭和6年) - 第8回選抜中等学校野球大会(現・選抜高等学校野球大会)に川越中学(現・埼玉県立川越高等学校)が出場する。春・夏を通じ埼玉県から最初に甲子園球場に出場を果たした学校となった。開会式の選手宣誓も川越中学の野本主将が行った。
- 同年 - 新河岸川改修工事終了。通船停止令により、舟運が300年の歴史に幕を閉じる。
- 同年 - 高浜虚子、中村草田男、星野立子、高野素十、山口青邨、富安風生らホトトギスの俳人たちが川越を吟行、「武蔵野探勝」を記す。
- 1933年(昭和8年) - 新しい川越競馬場が新宿町に完成。
- 同年 - 立憲政友会の大会が当市で行われる。これに関係して、同党総裁の鈴木喜三郎を川越で暗殺する計画が露見。栗原中尉の影響を受けた青年軍人らが熊谷市で逮捕される(救国埼玉青年挺身隊事件)。
- 1935年(昭和10年) - 東京の医師で川越に移って埼玉病院(現・川越同仁会病院)を開業した橋本定五郎が第6代の市長に就任。他市に先駆けた下水道整備事業など、公衆衛生に全力を捧げた。
- 1939年(昭和14年)12月1日 - 入間郡田面沢村を編入。
- 人口37,578人、面積16.68km²
- 1940年(昭和15年) - 省線川越線開通(現在のJR川越線)。
- 1941年(昭和16年) - 西武大宮線(かつての川越電気鉄道)が全線廃止、バスに転換される。
- 1945年(昭和20年) - 大宮・熊谷・川口・所沢といった埼玉県内の他の主要都市と異なり太平洋戦争で大規模空襲はなかったが、小規模な攻撃を経験する。6月、連雀町に爆弾2発が投下され死亡者1名。7月、川越駅が艦載機の機銃掃射を受け3名死傷。8月、川越駅西口に爆弾が投下され重傷者1名。川越市立工業学校(現在の川越市立川越高等学校で現在の川越市立博物館の敷地にあった)の同盟通信川越支局にて、広島市への原子爆弾投下のアメリカ政府発表放送が傍受された[12]。
[編集] 戦後・現代
川越は埼玉県で最初の市であったが広域合併をせずに市制施行できたため、戦前の埼玉5市(川越、熊谷、川口、浦和、大宮)の中で最も面積が狭かった。戦後、県内では次々に新しい市が誕生していったが、川越は常に「県内で面積最小の市」であった。そのため、他市のような十分な市域を確保する必要から1955年に近隣の村を編入、折からの高度経済成長で、東京のベッドタウン色を強めながら人口が増えていった。また、1950年代に入ると初雁橋、開平橋、上江橋、落合橋など荒川や入間川を渡る橋梁が順次完成し、当市を取り巻く交通が大きく変化した。
- 1947年(昭和22年)2月25日 - 八高線列車脱線転覆事故が高麗川村(現・日高市)で発生。川越駅は遺体収容場所となり、市内の医療機関が救急活動を担当する。
- 1948年(昭和23年) - 川越ボーイスカウト第1団・第2団が発足。
- 同年 - ジュネーヴでの国際労働会議日本政府代表団で活躍した石川梅が市内の各婦人会をまとめて川越市婦人会を発足させる。石川梅ら婦人会リーダーは市議会議員選挙でも当選する。
- 1951年(昭和26年)4月8日 - 埼玉県で最初のロータリークラブ結成(現・川越ロータリークラブ)。
- 同年 - 飯能町の丸広百貨店が廃業した山吉デパート跡に進出、丸広百貨店川越本店をオープン。
- 1952年(昭和27年) - 中村かのえが当市初の女性保護司に任命される。中村は生涯を犯罪を犯した人の更生保護に捧げた。
- 1953年(昭和28年) - 川越市医師会が川越医師会立准看護婦学校を設立(現・川越市医師会看護専門学校)。
- 1954年(昭和29年) - 川越ロータリークラブ創設者の伊藤長三郎が「川越叢書刊行会」を立ち上げ、「川越叢書」(全10巻)の刊行を開始。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 入間郡芳野村・古谷村・南古谷村・高階村・福原村・大東村・霞ヶ関村・名細村・山田村を編入する。
- 人口104,854人、世帯数19,799世帯、面積110.28km²
- 1957年(昭和32年) - 川越市民の歌「われらの川越」を制定。
- 同年10月 - 丸広百貨店川越本店が現在地に移転。
- 1958年(昭和33年) - 埼玉県川越職業訓練所開設(現・埼玉県立川越高等技術専門校)。
- 1961年(昭和36年) - 加藤日出男が会長を勤める若い根っこの会が、当市内に財団法人根っこの家を設立。
- 1963年(昭和38年) - 川越市立養護学校開校(埼玉県初の養護学校。現・川越市立特別支援学校)。
- 1966年(昭和41年) - 川越狭山工業団地竣工。
- 1970年(昭和45年) - 当市が文化庁の文化財愛護モデル指定地区になる。
- 1971年(昭和46年)12月 - 東京川越道路(現・関越自動車道)練馬IC-川越IC間が開通。
- 1974年(昭和49年) - 川越ペンクラブが結成される。
- 同年9月24日 - 川越環状道路が一部開通。
- 1981年(昭和56年)8月1日 - 富士見川越有料道路(現・富士見川越バイパス)が開通。
- 1985年(昭和60年)6月 - 埼玉医科大学総合医療センター開院。
- 同年9月30日 - 埼京線が川越駅まで直通運転開始。
- 1987年(昭和62年)8月25日 - 営団地下鉄(現東京メトロ)有楽町線が川越市駅まで直通運転開始。
- 1988年(昭和63年)7月2日 - 川越水上公園開園。
- 平成時代
- 1989年(平成元年)3月 - 川越駅橋上駅舎の供用開始。
- 1990年(平成2年)3月1日 - 川越市立博物館開館。
- 同年5月16日 - 川越駅東口バス転車台跡地に再開発ビル・アトレが開店。
- 同年5月31日 - 人口が30万人を超える。
- 1991年(平成3年)9月5日 - 本川越駅駅ビル(PePeやプリンスホテル)が開業。
- 1994年(平成6年)5月1日 - 狭山市及び日高市との間で境界変更。現在の市域となる。
- 同年5月30日 - 埼玉県西部の生鮮食料品の流通拠点として、埼玉川越総合地方卸売市場が開設。
- 1995年(平成7年)7月1日 - 川越市総合福祉センター(オアシス)が開設。
- 1996年(平成8年)3月16日 - 八高線(八王子駅-高麗川駅)が川越駅まで直通運転開始。
- 1999年(平成11年)11月11日 - 市がISO14001を取得。
- 同年 - 町並みとしては初のグッドデザイン賞を受賞。
- 同年 - 業務核都市に指定される。
- 同年12月1日 - 旧市街地が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定される(埼玉県内初。関東地方でも2番目)。
- 2000年(平成12年) - 川越商工会議所創立100周年。それを記念して、この年より公募絵画展「川越を描くビエンナーレ」が始まる。
- 2002年(平成14年)12月1日 - 市制80周年。川越市立美術館開館。
- 2003年(平成15年)4月1日 - 中核市に指定される(千葉県船橋市とともに関東地方で3番目。埼玉県内では初)。
- 2004年(平成16年)2月19日 - 川越駅駅ビル・ルミネ開業。
- 2006年(平成18年)10月10日 - ご当地ナンバーとして「川越ナンバー」が導入される。
- 2007年(平成19年)4月1日 - 川越市路上喫煙の防止に関する条例施行。市街地3駅とその周辺区域が禁止区域となる。
- 同年11月3日 - 川越城築城550周年。川越城主行列。
- 2008年(平成20年)6月14日 - 西武国分寺線が本川越駅まで直通運転開始。同日、東京メトロ副都心線が川越市駅(一部は森林公園駅)まで直通運転開始。
- 2010年(平成22年)10月1日 - 川越市産業観光館(小江戸蔵里)が開館。
- 同年11月28日 - 小江戸川越マラソン開催。
[編集] 市域の変遷
| 1868年 以前 |
1879年 (明治12年) |
1885年 (明治18年) |
1889年 (明治22年) 4月1日 |
1896年 (明治29年) 3月29日 |
1922年 (大正11年) 12月1日 |
1939年 (昭和14年) 12月1日 |
1939年 (昭和13年) 5月1日 |
1943年 (昭和18年) 11月3日 |
1955年 (昭和30年) 4月1日 |
現在 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 入 間 郡 |
川越城下17町 (川越町) |
川越町 | 川越町 | 市制 | 川越市 | 川越市 | 川越市 | 川越市 | 川 越 市 |
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| 松郷 | |||||||||||||
| 東明寺村 | |||||||||||||
| 小久保村 | |||||||||||||
| 脇田村 | |||||||||||||
| 小仙波村 | |||||||||||||
| 野田村 | |||||||||||||
| 田面沢村 | 田面沢村 | 田面沢村 | 川越市 に編入 |
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| 野田新田 | |||||||||||||
| 小室村 | |||||||||||||
| 今成村 | |||||||||||||
| 小々谷村 | |||||||||||||
| 大仙波新田 | 仙波村 | 仙波村 | 川越市 に編入 |
川越市 | |||||||||
| 大仙波村 | |||||||||||||
| 新宿村 | |||||||||||||
| 岸村 | |||||||||||||
| 豊田新田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大田村 | 大東村 | 川越市 に編入 |
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| 豊田本村 | |||||||||||||
| 池辺村 | |||||||||||||
| 大塚村 | 南大塚村 | ||||||||||||
| 大塚新田村 | |||||||||||||
| 大袋新田 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | 日東村 | ||||||||
| 大袋村 | |||||||||||||
| 藤倉村 | |||||||||||||
| 山城村 | |||||||||||||
| 増形村 | |||||||||||||
| 北田島村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | 芳野村 | |||||||
| 谷中村 | |||||||||||||
| 鴨田村 | |||||||||||||
| 石田本郷 | |||||||||||||
| 菅間村 | |||||||||||||
| 伊佐沼村 | |||||||||||||
| 比 企 郡 |
比企郡 鹿飼村 |
比企郡 植木村 |
入間郡 に移行 |
植木村 | 植木村 | 植木村 | 芳野村 に編入 |
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| 比企郡 上老袋村 |
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| 比企郡 中老袋村 |
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| 比企郡 下老袋村 |
古谷村 に編入 |
古谷村 | |||||||||||
| 比企郡 東本宿村 |
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| 入 間 郡 |
古谷上村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | 古谷村 | |||||||
| 古谷本郷 | |||||||||||||
| 小中居村 | |||||||||||||
| 大中居村 | |||||||||||||
| 高島村 | |||||||||||||
| 八ツ島村 | |||||||||||||
| 今泉村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | 南古谷村 | |||||||
| 南田島村 | |||||||||||||
| 久下戸村 | |||||||||||||
| 並木村 | |||||||||||||
| 牛子村 | |||||||||||||
| 古市場村 | |||||||||||||
| 木野目村 | |||||||||||||
| 渋井村 | |||||||||||||
| 藤間村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | 高階村 | |||||||
| 砂村 | |||||||||||||
| 砂新田 | |||||||||||||
| 扇河岸村 | |||||||||||||
| 上新河岸村 | |||||||||||||
| 下新河岸村 | |||||||||||||
| 寺尾村 | |||||||||||||
| 志垂村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | 山田村 | |||||||
| 中寺山村 | |||||||||||||
| 福田村 | |||||||||||||
| 網代村 | |||||||||||||
| 宿粒村 | |||||||||||||
| 下寺山村 | |||||||||||||
| 向小久保村 | |||||||||||||
| 府川村 | 府川村 | ||||||||||||
| 高畑村 | |||||||||||||
| 石田村 | |||||||||||||
| 上寺山村 | |||||||||||||
| 中福村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | 福原村 | |||||||
| 今福村 | |||||||||||||
| 砂久保村 | |||||||||||||
| 上松原村 | |||||||||||||
| 下松原村 | |||||||||||||
| 下赤坂村 | |||||||||||||
| 高 麗 郡 |
高麗郡 安比奈新田 |
高麗郡 霞ヶ関村 |
入間郡 に移行 |
霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | 霞ヶ関村 | |||||
| 高麗郡 的場村 |
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| 高麗郡 笠幡村 |
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| 高麗郡 小堤村 |
高麗郡 名細村 |
名細村 | 名細村 | 名細村 | 名細村 | 名細村 | |||||||
| 高麗郡 鯨井村 |
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| 高麗郡 上戸村 |
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| 高麗郡 下小坂村 |
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| 高麗郡 平塚村 |
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| 高麗郡 平塚新田 |
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| 高麗郡 吉田村 |
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| 高麗郡 天沼新田 |
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| 高麗郡 下広谷村 |
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[編集] 旧町名
当市にはかつては城下町の名残を残す多数の町名が存在していたが、地番が複雑を極めていたため早急な整理が望まれたことや、自治省によって東京都荒川区、岩手県釜石市とともに町名地番整理事業の実験都市に指定されたことも相まって、住居表示に関する法律が施行される前に、全国に先駆けて1961年(昭和36年)度より町名地番整理が実施された。
当市を含む各地で住民の激しい反対運動が展開され、町名整理を断念した自治体もあったが、市は4年間をかけて順次町名地番整理を行い、伝統ある町名の多くが消滅した。こうした町名変更は自治省も「行き過ぎ」として問題だったことを認め、石川県金沢市や長崎県長崎市、福島県会津若松市など伝統ある各地で「町名は文化遺産である」という旧町名復活運動が盛んになり、由緒ある地名に戻されている。当市は未だである。
下記に挙げるおもな旧町名の中には現存のもの、また1961年(昭和36年)度以前に整理されて消滅したものも含む。
- 上五ヶ町
- 本町(→元町)
- 高沢町(→元町)
- 江戸町(→大手町)
- 南町(→幸町)
- 北町(喜多町として現存)
- 下五ヶ町
- 鍛冶町(→幸町)
- 多賀町(→幸町)
- 志義町(→仲町)
- 志多町(現存)
- 上・下松江町(松江町として現存)
- その他
- 宮元町
- 倉町
- 郭町
- 宮下町
- 同心町
- 清水町
- 北久保町(→三久保町)
- 南久保町(→三久保町)
- 堅久保町(→三久保町)
- 猪鼻町
- 鉄砲町
- 境町(堺町・餌差町)
- 立門町
- 六軒町
- 黒門町
- 横新田町
- 新田町
- 菅原町
- 仙波町
- 小仙波町
- 一番町
- 二番町
- 三番町
- 西町
- 岸町(喜志町)
- 神明町
- 坂上町
- 坂下町
- 石原町
- 袋町
- 相生町(←行養町)
- 鷹部屋町
- 橘町
- 瀬尾町
- 鉦打町
- 中原町
- 六反町
- 五反町
- 大工町
- 代官町
- 杉下町
- 厩下町
- 野田町
- 新宿町
- 通町
- 連雀町
- 脇田町
- 今成町
- 小ヶ谷町
- 月吉町
- 小室町
- 門前町
旧松郷、脇田村内の旧町名に関してはそれぞれの項を参照のこと。
[編集] 隣接している自治体・行政区
[編集] 行政
[編集] 歴代市長
| 代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 |
|---|---|---|---|
| 初代 | 綾部 利右ヱ門 | 1922年12月1日 | 1923年2月 |
| 2 | 武田 熊蔵 | 1923年8月1日 | 1927年7月31日 |
| 3 | 寺尾 規矩郎 | 1927年9月22日 | 1931年9月21日 |
| 4 | 林 寿夫 | 1931年10月13日 | 1932年1月15日 |
| 5 | 早川 金十郎 | 1932年3月1日 | 1935年8月13日 |
| 6 | 橋本 定五郎 | 1935年8月17日 | 1939年8月16日 |
| 7 | 伊達 徳次郎 | 1939年8月24日 | 1943年8月23日 |
| 8 | 渋谷 塊一 | 1943年9月14日 | 1945年3月16日 |
| 9 | 河合 正臣 | 1945年4月21日 | 1946年8月16日 |
| 10-15 | 伊藤 泰吉 | 1946年10月7日 | 1965年7月31日 |
| 16-19 | 加藤 瀧二 | 1965年9月19日 | 1981年1月7日 |
| 20-22 | 川合 喜一 | 1981年2月8日 | 1993年2月7日 |
| 23-26 | 舟橋 功一 | 1993年2月8日 | 2009年2月7日 |
| 27- | 川合 善明 | 2009年2月8日 |
[編集] 名誉市民
- 伊藤泰吉(朝鮮総督府専売局長や朝鮮総督府逓信局長を歴任。最初の公選市長で、川越市長を連続6期)
- 加藤瀧二(和歌山県経済部長、群馬県経済部長、富山県内務部長を歴任、川越市長を連続4期)
- 山崎嘉七(八十五銀行頭取、埼玉銀行頭取、川越市議会議長を歴任)
- 川合喜一(川越市長を連続3期)
- 相原求一朗
[編集] 財政
[編集] 平成20年度
- 財政力指数 1.07
[編集] 行政・司法機関
[編集] 国の出先機関
[編集] 特殊法人の機関
- 日本年金機構
- 川越年金事務所
[編集] 県の出先機関
- 埼玉県川越地方庁舎
- 川越県土整備事務所
- 川越県税事務所
- 川越農林振興センター
- 西部教育事務所
- パスポートセンター 川越支所
- 西部環境管理事務所
- 西部地域創造センター
- 西部産業労働センター
- 埼玉県消費生活支援センター川越
- 埼玉県下水道公社新河岸川上流水循環センター
[編集] 市の機関
- 川越市役所(川越市役所出張所設置条例(昭和36年3月29日 条例第7号)によって出張所が設置されている)
- 川越市役所芳野出張所
- 川越市役所古谷出張所
- 川越市役所南古谷出張所
- 川越市役所高階出張所 2008年(平成20年)5月1日開館の複合施設「高階市民センター」内に併設
- 川越市役所福原出張所
- 川越市役所山田出張所
- 川越市役所名細出張所 2009年(平成21年)11月30日開館の複合施設「名細市民センター」内に併設
- 川越市役所霞ヶ関出張所
- 川越市役所霞ヶ関北出張所
- 川越市役所大東出張所
- また、出張所を補うものとして、川越市役所連絡所及び証明センター規則(平成3年7月31日 規則第26号)により以下の連絡所が設置されている。
- 川越市上下水道局
- 川越市下水道管理センター
- 川越市保健所
- 川越駅西口土地区画整理事務所
- 川越市道路管理事務所
- 川越市計量検査所
- 川越市生活情報センター
- 川越市市民会館・やまぶき会館
- 川越西文化会館(メルト)
- 川越南文化会館(ジョイフル)
- 北部地域ふれあいセンター
- 東部地域ふれあいセンター
- 市立美術館
- 児童センターこどもの城
- 川越駅東口児童館
- 高階児童館
- 川越駅東口多目的ホール
- 国際交流センター
- 女性活動支援のひろば
- 女性会館
- 農業ふれあいセンター
- サンライフ川越・芳野台体育館
- 勤労青少年ホーム(KWYC クイック)
[編集] 警察
- 川越警察署(第二方面本部・交通機動隊西部分駐隊・機動捜査隊川越方面隊・自動車警ら隊川越方面隊)
[編集] 消防
[編集] 広域行政
- 当市を中心とした4市3町(当市、坂戸市、鶴ヶ島市、日高市、入間郡毛呂山町・越生町、比企郡川島町)は、「埼玉県川越都市圏まちづくり協議会」(通称「レインボー協議会」)を構成している。現在までに図書館の相互利用、広報紙の相互掲載、参加市町の観光スポットを紹介した「広域観光ガイド」の発行等を行っている。また、日高市と比企郡川島町を除く5市町はいわゆるご当地ナンバーとして「川越」ナンバーが2006年10月10日に導入された。
- 川越地区消防組合(比企郡川島町と共に消防・救急、火薬類取締法・液化石油ガス法・高圧ガス保安法に基づく事務を行っている)
[編集] 市議会
- 議員定数:36
- 議長:三上 喜久蔵(やまぶき会)
- 副議長:小ノ澤 哲也(公明党議員団)
- 会派
平成23年12月14日現在
[編集] 再開発事業
- 川越北環状線事業
- 駅前整備事業
- 当市は、市街地3駅の整備計画である「川越駅西口周辺地区基本構想」を策定[14]。それによると川越駅のペデストリアンデッキを西口側にも展開。川越駅西口側には市有地が多く、都市公園も整備する。また西口に高速バスやスクールバス用のバスターミナルを建設する。
- 本川越駅西口と西口駅前広場の建設。
- 川越市駅の橋上駅化と駅前広場整備、川越市駅西口の建設。本川越間の乗り換えは徒歩11分程度であるが、道路を整備し平成27年度までを目処に5分程度に短縮すると川越市は計画している(川越市第三次総合計画 より)。
- 南古谷駅や新河岸駅などの駅前整備は全く手付かずである。
- 地域振興ふれあい拠点施設整備事業
- 埼玉県と川越市共同の大規模PFI事業として 地域振興ふれあい拠点施設(仮称) を川越駅西口に建設する。県と市の発表では、川越駅西口の2.4ヘクタールの用地に、埼玉県は、産業支援の企業交流施設(6,000m2程度)・大学コンソーシアムのサテライト教室(1,000m2程度)・県地方庁舎(6,000m2程度)を、川越市は市民活動センター(5,000m2程度)・1700席の劇場型多目的ホール(8,000m2程度)を建設する。他に民間の商業施設が入居する。駐車場も整備する。2008年(平成20年)に事業者選定で入札した大成建設が兵庫県姫路市で不祥事を起こし、その関係で事業者選定手続が現在ストップしている。
- 川越城址公園計画
- 川越城富士見櫓の復元計画がある。川越城址は整備されておらず、関東地方の譜代大名の城跡としては最も荒廃していると指摘される[誰によって?]。本丸跡地でさえ初雁球場や市民プールなどの建造物と化しており(二の丸跡は川越市立博物館、三の丸跡は埼玉県立川越高等学校、その他も宅地と化してしまっている)、老朽化している初雁球場等の郊外移転と「川越城址公園」の整備は市民から常に要望が出されている[要出典]。
- 中央通り沿道街区土地区画整理事業
- 本川越駅前から連雀町交差点まで道路を現状11mから20mに拡幅及び沿道の土地区画整理を行う事業。この通りにはクレアモールよりも小規模ながら商店街がある。一方で、中央通りには老舗も多く、伝統的な建築物の破壊も危惧されている。旧市街地への車の制限こそ考える時だ、という反対意見も出ている[要出典]。
[編集] 姉妹都市・提携都市
小浜市(福井県)- 1982年11月30日姉妹都市提携(藩主酒井忠勝の縁)
棚倉町(福島県東白川郡)- 1972年1月18日友好都市提携(藩主松平康英の縁)
中札内村(北海道河西郡)- 2002年11月30日友好都市提携(川越出身の画家相原求一朗の縁)
オッフェンバッハ市(ドイツ連邦共和国ヘッセン州の古都)- 1983年8月24日姉妹都市提携
セーラム市(アメリカ合衆国 オレゴン州の州都)- 1986年8月1日姉妹都市提携
オータン市(フランス共和国ブルゴーニュ地方の古都。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが建都)- 2002年10月18日姉妹都市提携
「蔵の街」として知られる栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)とともに小江戸サミットを開くなど、観光面で交流している。
[編集] 経済
- 産業人口(1990年国勢調査より)
- 就業者総数:152,727人
- 第一次産業:4,848人(3.2%)
- 第二次産業:55,358人(36.3%)
- 第三次産業:90,941人(59.5%)
[編集] 工業
1965年(昭和40年)に狭山市とともに積極的な工場誘致を行い、当時、日本一の面積であった[15]川越狭山工業団地が完成、更に1980年代には富士見工業団地や川越工業団地が造成され、市内の住工混在の解消を図っている。首都圏中央連絡自動車道の川島ICに近い市内には、川越第二産業団地の整備も進んでいる。埼玉県内最大級の工業都市で、製造品出荷額は狭山市に次いで埼玉県内第2位(2009年)。機械類の生産が最多であるが、化学工業が多いのも特徴である。
- エクセディ 川越工場
- エースコック 東京工場
- 酒井重工業 生産センター
- サノフィ・アベンティス 川越工場
- サミー 川越工場
- サンケン電気 川越工場
- サンリッツ 川越工場
- ちふれ化粧品 本社、川越工場
- デンヨー 川越出張所
- 東洋インキ製造 埼玉製造所、川越製造所
- 日清紡績 川越工場
- ノバルティスファーマ 埼玉工場
- パイオニア 川越事業所(日本で初めてGPS使用型のカーナビゲーションを開発)
- ハスクバーナ・ゼノア 本社工場
- 本田金属技術 本社工場
- 雪印メグミルク 川越工場
[編集] 農業
- サツマイモ
- 紅赤(べにあか) 埼玉生まれの品種。
- サトイモ
- カブ(収穫量で埼玉県内1位)
- 枝豆(収穫量で埼玉県内1位)
- チンゲンサイ(収穫量で埼玉県内1位)
- コマツナ
- 大根
- ホウレンソウ(収穫量で深谷市に次いで埼玉県内2位)
- ニンジン
- ゴボウ
- 米
- 小麦
など。
- 江戸時代の寛政年間に焼き芋が流行(それまでは蒸したサツマイモだった)、文化年間に焼き芋屋の宣伝コピーとして、「栗(九里)より(四里)うまい十三里(十三里半とも)」と謳われた程のサツマイモの名産地であった。将軍・徳川家治に献上されて「川越芋」の名がついた、と言われる。主要地は市内南西部。次第に栽培の容易な「紅あずま」やサトイモ、葉物野菜などへの作物転換が行われるようになっていったが、近年では幼稚園や小学校の「いも掘り遠足」(農業体験型の観光藷掘り)が盛んになっている。
- 有志により「川越いも友の会」が結成され、10月13日を「サツマイモの日」に制定し、川越芋を復興する取り組みで1999年(平成11年)に「サントリー地域文化賞」を受賞した。現在の会長は世界的なサツマイモ研究の権威で川越在住のアメリカ人・ベーリ・ドゥエル東京国際大学教授[16]。
- サツマイモと並んで当市の特産物であったのが柿で、老中の秋元喬知が甲斐国から川越藩主に転封され川越で殖産政策を行って盛んになった。特に神奈川県川崎市で誕生した甘柿の禅寺丸の大産地として有名だったが、戦後廃れてしまった。
- 現在では、南西の台地上に位置する福原・大東地区を中心に葉物野菜が、北や東の川沿い低湿地の芳野・山田・名細・田面沢、古谷を中心に稲作が行われている。当市は丘陵や山地がない平坦地なため埼玉県下最大の経営耕地面積を有する。近郊農業地域で野菜と米の出荷量が多く、当市の農業産出額は深谷市・熊谷市・本庄市に次いで埼玉県内第4位である(2009年)。当市は埼玉県内で商業、工業、農業の産業バランスが良い市とされ、農業従事者も埼玉県平均より青年層が多く、高齢化の割合が少ないのが特色となっている。
- 「小江戸川越ブランド産品」の認定制度があり、小江戸川越黒豚や小江戸川越地鶏などを育てている。特産品開発の先進的な取組みを農林水産省と経済産業省が共同で支援・表彰する「農商工連携88選」に、埼玉県内からは「コエドブルワリー」(地ビール)と「ひびき」(やきとり・黒豚)の当市の2社だけが選出された。2010年(平成22年)には川越城址近くにJAいるま野の「あぐれっしゅ川越」がオープン、地元農産物の大型直売センターで賑わっている。
[編集] 商業
川越駅周辺は、埼玉県では大宮駅周辺に次ぐ商圏人口を有し、駅周辺の年間小売販売額・小売業売り場面積とも大宮駅に次いで埼玉県内第2位の繁華街を形成し、買い物客で終日賑わっている。当市全体の小売業の年間商品販売額もさいたま市・川口市に次いで埼玉県内第3位である(2009年)。
- クレアモールの店舗
- 丸広百貨店川越店(本店。現在では珍しい屋上遊園地が現存しており、缶コーヒーのFIREなどCMの撮影にも使われる)
- アトレマルヒロ
- 川越modi(丸井系列)
- イトーヨーカドー川越店
- PePe(西武系列)西武本川越駅の駅ビル
- 川越マイン(東武系列)
- 川越ルミネ(JR東日本系列)川越駅の駅ビル
- エキア川越(東武鉄道系列)川越駅の駅ナカ
- ヤオコー(本社)
- マミーマート
- 成城石井
- ソフマップ
- 紀伊國屋書店
- ブックファースト
- リブロ
- いけだ書店
- ロフト
- ユザワヤ
- 山野楽器
- 新星堂
- ZARA
- GAP
- ザ・ボディショップ
- アフタヌーンティー
- バーガーキング
- サンマルクカフェ
- スターバックス
- タリーズ
- エクセルシオール カフェ
- 無印良品
- 三越川越
など
- 川越駅東口から北へ伸びる商店街「クレアモール」(川越サンロード商店街と川越新富町商店街の統一名)は関東地方でも有数の集客力を持つ商店街。地元の若年層・近隣から通学してくる高校・大学生や高齢者層まで平日でも人通りが多く、商店街の通行量調査では埼玉県で1位となっている[17]。クレアモールは電線が地中化、御影石舗装で店舗とはバリアフリー化が成されている。ストリートミュージシャンも登場する。クレアモールは、中央通り、大正浪漫夢通り、川越一番街へと続き、全長は2kmを超える。
- 商都としての長い伝統と蓄積から、埼玉県内に店舗を広げる地域密着の商業資本の本社がある。丸広百貨店は、1951年(昭和26年)に川越本店がオープン。東京に隣接する埼玉県西部の百貨店の中でも売上高が首位の店舗で、埼玉県内でも上位に入る。ヤオコーも本社を当市に置く東京証券取引所第一部上場のスーパーである。イトーヨーカドー川越店は、1967年(昭和42年)開店。イトーヨーカドーの5番目の店舗で東京都以外に初進出した最初の店舗であった。イトーヨーカドーは浅草が創業の地だが、社名は一時期「川越倉庫株式会社」といい、川越と縁が深い。
- 地元の商店が健在で古着屋・骨董店など専門店も多く、首都圏の他の中枢都市と比較すると、店舗型の風俗店をほとんど目にしないのが大きな特徴である。埼玉県内の多くの都市がロードサイド店舗の集積や大規模ショッピングモールの開店で逆に中心市街地の空洞化、地域経済や社会を支える地元商店の壊滅を招き、駅前はサラ金ビルが乱立している。しかし、川越は例外的な都市で活気があり、中小企業庁は日本の「がんばる商店街77選」に、埼玉県内からは当市内の7つの商店街と秩父市の「みやのかわ商店街」の2都市だけを選定している。
- 埼玉県随一の商都だったこともあって、埼玉りそな銀行などの地元金融機関や三大メガバンクの他にも、八十二銀行(長野県)、足利銀行(栃木県)、群馬銀行・東和銀行(群馬県)、青梅信用金庫(東京都)などの他県を地盤とする銀行の支店が古くから置かれている。
[編集] メディア
- 時事通信社・川越支局
- 日刊工業新聞社・川越支局
- 朝日新聞社・西埼玉支局
- 毎日新聞社・埼玉西支局
- 読売新聞東京本社・川越支局
- 産業経済新聞社(産経新聞)・川越通信部
- 埼玉新聞社・県西総局
- 東京新聞(中日新聞東京本社)・川越通信部
- 週刊埼玉・本社
- NHKさいたま放送局川越営業センター
- JCN関東川越支社(旧・川越ケーブルビジョン)
[編集] 地域
[編集] 健康
- 平均年齢:40.7歳(男39.8歳、女41.7歳)
[編集] 教育
[編集] 幼稚園
|
[編集] 小学校
- 公立
|
- 私立
[編集] 中学校
- 公立
|
- 私立
[編集] 高等学校
- 川越市立
- 川越市立川越高等学校(旧・埼玉県川越商業高等学校)
- 埼玉県立
- 埼玉県立川越高等学校
- 埼玉県立川越女子高等学校
- 埼玉県立川越工業高等学校
- 埼玉県立川越総合高等学校(旧・埼玉県立川越農業高等学校)
- 埼玉県立川越南高等学校
- 埼玉県立川越西高等学校
- 埼玉県立川越初雁高等学校
- 私立
- 星野高等学校(旧・星野女子高等学校)
- 山村学園高等学校(旧・山村女子高等学校)
- 東邦音楽大学附属東邦第二高等学校
- 城西大学付属川越高等学校
- 秀明高等学校
- 城北埼玉高等学校
- 川越東高等学校
- 霞ヶ関高等学校
- 日清紡川越工場定時制高校(廃校)
[編集] 特別支援学校
- 川越市立特別支援学校(旧・川越市立養護学校)
- 埼玉県立川越特別支援学校
- 埼玉県立特別支援学校塙保己一学園(旧・埼玉県立盲学校)
[編集] 大学
当市では、「育英資金」という奨学金制度がある。なお、本奨学金は返還義務が伴う。また、「川越市交通遺児奨学金」制度があり、本制度は小中学生対象の給付型である。
[編集] 学校教育以外の施設
[編集] 職業能力開発校
[編集] 図書館
市内には図書館が4ヶ所、図書配本所が2ヶ所、図書分室が1ヶ所ある。また都市部での移動図書館は少ない中、「やまぶき号」が2007年3月まで運行されていた。かつては、川越駅西口から徒歩5分の場所にある川越福祉センター(2008年3月15日閉館)向かいに埼玉県立川越図書館が長年運営されてきたが、2003年3月31日をもって廃止された。
- 中央図書館
- 西図書館
- 高階図書館
- 川越駅東口図書館
- 霞ヶ関北配本所
- 高階南配本所
- 霞ヶ関南分室
図書館の広域自治体間相互利用協定により、以下の市民にも開かれている。
- レインボー協議会構成市町の住民は、書籍のみでAV資料は貸出されない。
- 東京国際大学図書館も利用可能だが、私立大学であり利用資格や利用制限がある。
[編集] 博物館・美術館
[編集] 公民館
市内には公民館が17ヶ所と常勤職員が常駐しない分館が1ヶ所、分室が1ヶ所ある。またこの他に町内公民館と定義づけされた自治会集会所がある。
なお、名細公民館の分館として長く使用された川越市下広谷南公民館は名細公民館の移転に伴って廃止された。
- 単立館・併設館
- 川越市中央公民館
- 川越市南公民館
- 川越市北公民館
- 川越市芳野公民館 芳野出張所と併設
- 川越市古谷公民館 古谷出張所と併設
- 川越市南古谷公民館 南古谷出張所と併設
- 川越市高階公民館 2008年(平成20年)5月1日開館の複合施設「高階市民センター」内に併設
- 川越市高階南公民館
- 川越市福原公民館 福原出張所・福原コミュニティセンターと併設
- 川越市大東公民館 大東出張所と併設
- 川越市大東南公民館
- 川越市山田公民館 山田出張所と併設
- 川越市名細公民館 2009年(平成21年)11月30日開館の複合施設「名細市民センター」内に併設
- 川越市霞ヶ関公民館 霞ヶ関出張所と併設
- 川越市霞ヶ関北公民館
- 川越市伊勢原公民館 霞ヶ関北小学校・西図書館と併設
- 川越市川鶴公民館 川鶴連絡所と併設
- 分館・分室
- 川越市さわやか活動館
- 川越市中央公民館分室(小泉八雲ゆかりの建物を大正時代に川越に移築した屋敷)
[編集] 公共福祉施設
市内には市民会館が1ヶ所、文化会館が2ヶ所、運動公園、武道館、霊園が各1ヶ所ある。施設の運営維持管理は 財団法人川越市施設管理公社 が行っている。また、文化会館の小規模なものとして住民管理方式を取り入れた地域ふれあいセンターが2ヶ所ある。なお、1974年11月11日より33年余りにわたって運営されてきた 川越福祉センター(川越駅西口徒歩5分)は、2008年3月15日をもって廃止された。
- 川越市市民会館・川越市市民会館やまぶき会館
- 川越南文化会館(ジョイフル)
- 川越西文化会館(メルト)
- 川越運動公園
- 総合体育館
- 陸上競技場
- テニスコート
- 川越武道館
- 川越福祉センター
- 川越市民聖苑やすらぎのさと
- 川越市北部地域ふれあいセンター(川越市山田)
- 川越市東部地域ふれあいセンター(川越市並木、川越税務署隣)
[編集] 電話番号
市外局番は049であり、坂戸市、鶴ヶ島市、富士見市(水谷東二丁目・三丁目以外)、ふじみ野市、入間郡全域、比企郡川島町、鳩山町と同一(川越MA)。荒川左岸の古谷上の一部は048。
[編集] 郵政
郵便番号は市内全域が「350-00xx,08xx,11xx」である。
- 主な郵便局
[編集] 娯楽・レジャー施設
[編集] 映画館
- 川越スカラ座
- ユナイテッド・シネマ ウニクス南古谷
- ウニクス南古谷にある。9スクリーンのシネマコンプレックス。
- 閉館した映画館
[編集] ゴルフ場
[編集] 交通
[編集] 鉄道路線
- 中心駅:川越駅
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
なお、西武新宿線の列車の愛称は川越市にちなんだ名称になっている。(特急「小江戸」号、快速急行「川越」号)
- 廃線
- 休止路線
西武鉄道の前身、西武鉄道(旧)は1925年(大正14年)に、入間川からの砂利輸送が目的で南大塚駅から安比奈線を開通させた。入間川には、安比奈線と埼玉県営鉄道の2つが対岸の東武と西武の駅から向かい合うように延びていた。
1950年(昭和25年)に電化され蒸気機関車から電気機関車に変ったが、その貨物輸送も1967年(昭和42年)で廃止された。なお、現在でも休止路線扱いである。
[編集] バス
- 路線バス
- 川越市コミュニティバス「川越シャトル」(東武バスウエスト川越営業事務所・西武バス川越営業所に運行委託)
- イーグルバス
- 東武バスウエスト
- 西武バス
- 国際興業バスが1995年1月まで路線バスを運行をしていたが西武バスに移管をした。
- 市内観光バス
- イーグルバス:小江戸巡回バス(レトロなボンネットバスで市内の名所を巡回している。車内アナウンスは英語・中国語に対応。1日フリー乗車券がある)。
- 東武バスウエスト:小江戸名所めぐりバス(1日乗り放題のバス)。
- 高速バス
- 川越観光自動車・東武バスウエスト・千葉交通:川越駅西口 - 成田空港
- イーグルバス・西武バス・東京空港交通:本川越駅 - 川越駅西口 - 羽田空港
- 東武バスウエスト・東京ベイシティ交通:本川越駅 - 川越駅西口 - 東京ディズニーシー - 東京ディズニーランド
- 東武バスウエスト・東京ベイシティ交通:本川越駅 - 川越駅西口 - 浦安 - 新浦安
- 近鉄バス:川越駅西口 - 京都駅前 - 大阪駅前(愛称:ウィングライナー)
- 日本中央バス:川越駅西口 - 富山駅前 - 金沢駅前 - 兼六坂
- 富士急山梨バス・西武バス:川越駅西口 - 富士急ハイランド - 河口湖駅 - 富士山駅
- 山梨交通:川越駅西口 - 川越的場バスストップ(川越的場BS) - 勝沼 - 一宮 - 石和 - 甲府駅 - 竜王駅
- 関越交通:川越的場BS - 沼田 - 尾瀬戸倉 - 大清水(尾瀬号)
- 西武バス・越後交通:川越的場BS - 湯沢 - 長岡北 - 三条燕 - 新潟駅前 - 万代シテイバスセンター(新潟線)
- 西武バス・頸城自動車・越後交通:川越的場BS - 柏崎駅前 - 頸城 - 高田駅前 - 直江津(イトーヨーカドー前)(上越線)
- 西武バス・富山地鉄:川越的場BS - 黒部 - 富山駅前(富山線)
- 西武バス・加越能鉄道:川越的場BS - 砺波駅南 - 高岡駅前 - 氷見 (氷見線)
- 西武バス・北陸鉄道・JRバス関東・西日本JRバス:川越的場BS - 金沢駅(金沢線)
- 西武バス・長電バス:川越的場BS - 屋代 - 長野駅前 - 権堂 - 柳原(長野線)
- 西武バス・千曲バス:川越的場BS - 軽井沢プリンスホテル - 軽井沢駅前 - 中軽井沢駅 - 御代田駅前 - 小諸駅前(軽井沢線)
- 西武バス・千曲バス:川越的場BS - 佐久平駅前 - 中込駅前 - 臼田駅(佐久線)
- 西武バス・千曲バス:川越的場BS - 富岡 - 下仁田 - 松井田 - 佐久 - 小諸高原 - 上田駅前 - 上田営業所(上田線)
- 日本中央バス:川越的場BS - 藤岡 - 高崎駅東口 - 前橋駅南口 - 前橋バスターミナル(前橋線)
- 深夜急行バス
- 東武バスウエスト:池袋駅西口 - 志木駅南口 - 川越駅東口 - 本川越駅 - 神明町車庫(ミッドナイトアロー川越号)
- 東武バスウエスト:川越駅東口 - 本川越駅 - 坂戸駅北口 - 東松山駅 - 森林公園駅南口(ミッドナイトアロー東松山・森林公園号)
[編集] タクシー
タクシーの営業区域は県南西部交通圏で、所沢市・東松山市・飯能市・和光市などと同じエリアとなっている。
[編集] 道路
- 高速道路
- 一般国道
- 主要地方道
- 埼玉県道6号川越所沢線(かわとこ線)
- 埼玉県道8号川越入間線(茶つみ通り)
- 埼玉県道12号川越栗橋線(川栗線)
- 埼玉県道15号川越日高線
- 埼玉県道39号川越坂戸毛呂山線
- 埼玉県道51号川越上尾線
- その他の県道
- 埼玉県道113号川越新座線
- 埼玉県道114号川越越生線
- 埼玉県道155号さいたま武蔵丘陵森林公園自転車道線(荒川サイクリングロード)
- 埼玉県道157号川越狭山自転車道線(入間川サイクリングロード)
- 埼玉県道160号川越北環状線
- 埼玉県道180号南古谷停車場線
- 埼玉県道229号本川越停車場線
- 埼玉県道246号川越市停車場線
- 埼玉県道256号片柳川越線
- 埼玉県道260号鯨井狭山線
- 埼玉県道261号笠幡狭山線
- 埼玉県道335号並木川崎線
- 埼玉県道336号今福木野目線
- 埼玉県道339号平沼中老袋線
[編集] 町並み保存
- 川越一番街を中心とする旧市街地は、グッドデザイン賞の第1回「アーバンデザイン賞」(1999年)を受賞している。昭和50年代に仲町のマンションに端を発した旧市街地の高層マンション乱立に危機感を持った市民が建設反対運動を展開した。市民に加え、都市計画の専門家・日本建築学会・芸術家・川越青年会議所・川越商工会議所・市役所職員などがNPO法人「川越蔵の会」を結成。さらに住民が中心となって「町並み委員会」を結成した。イギリスのナショナルトラストの影響を受けた市民が、行政に代わって文化財保存運動と衰退していた街の活性化を進めたことが高く評価された受賞である。「川越蔵の会」は「全国町並み保存連盟」でも中心的な役割を果たし、2010年(平成22年)には「地域づくり総務大臣表彰」を受賞した[18]。また西郷真理子も川越の蔵造り保存運動に参画[19]、その経験を滋賀県長浜市の黒壁スクエア・香川県高松市の丸亀町商店街などの大手商業資本に頼らない町おこしに生かした。西郷真理子はそうした市街地再生計画でフランス・カンヌの「国際不動産投資見本市(MIPIM)」で「未来的プロジェクト賞」を日本人で初めて受賞した[20]。
- 行政も1988年(昭和63年)に「都市景観条例」を施行し、「歴路事業」として舗道の石畳化と電線類地中化を広範に進めた。当市は埼玉県唯一の中核市であり、政令指定都市のさいたま市と共に景観法に基づく景観行政団体となっている。
- 1999年(平成11年)に関東地方では2番目に、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された。国の「都市景観大賞(都市景観100選)」も受賞。国が「古都保存法」施行40周年を記念して選定した「美しい日本の歴史的風土100選」にも埼玉県内から唯一選ばれている。2003年(平成15年)には「優秀観光地づくり賞」(総務大臣賞)を受賞。2008年に国が「歴史まちづくり法」を制定すると、埼玉県内で初めて川越市は長野県松本市などと共に2011年に同法の認定を受けた[21]。その結果、市が実施する「川越市歴史的風致維持向上計画」は国の補助事業となった。
- 民間では、読売新聞が選出した日本の「平成百景」や「遊歩百選」、毎日新聞の「ヘリテージング100選」に選ばれている。朝日新聞の会員サイト・アスパラクラブが「日本一の商家の町並み・暮らしの灯り」というテーマで実施した「お気に入りの町」人気投票では、岡山県倉敷市、滋賀県近江八幡市に次いで全国3位、日本経済新聞の「散歩したい歴史ある町並み」ランキングでも山口県萩市、岐阜県高山市に次いで全国3位に選出されている。2007年(平成19年)には、町並み保存が評価され「岩切章太郎賞」を受賞した。
- 市職員が制作した映像作品「蔵づくりの明日を問う」は、「地方の時代映像祭」でグランプリを受賞した。1980年(昭和55年)に始まった「地方の時代映像祭」は、日本各地の人々の営みを記録したドキュメンタリー映像祭で神奈川県川崎市で誕生。その後は当市が開催を引き継いだ(現在は大阪府吹田市を会場にして開催されている)。
- NHK総合テレビの「新日本紀行」は、1978年(昭和53年)に「小江戸残照〜蔵造りの街・川越〜」を放送。重厚な家並みと伝統の中で暮らす人々を描き、30年後の2008年(平成20年)3月8日には「新日本紀行ふたたび」で再度「小江戸〜川越〜」を放送。開発の激しい首都圏の中枢都市でありながら、古いものを大切にすることで独自の未来を切り拓こうと、風格ある町並みを守る川越市民の姿を描いた。
- 旧市街地は2004年(平成16年)に「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に選定された。しかし川越一番街などは、大型バスを含め車の往来が激しく、観光客の増加で観光人力車まで通行し、歩行者に危険な状況である。また、車の振動や排気ガスが蔵造りへ深刻なダメージを与えており、かけがえのない文化財の保護からも早急な対策が求められている。ヨーロッパの古都のように旧市街地から車の通行を排除すべきではないか、と当市のタウンミーティングで懸案として協議されている。休日日中の歩行者天国を望む声は市民調査でも圧倒的に多く[22]、2009年(平成21年)11月7日から同月23日まで実際に試行もされた。一方では、埼玉県では23年ぶりの設置となる自転車通行帯の整備が旧市街地で進んでいる[23]。
- 町並みの意識は、「大正浪漫夢通り」での保存コンペの実施、新市街地のクレアモールの空間や建築・街路樹の協定など、市域全体の町作りに広がっている。また当市の成功例はシャッター通り化に苦しむ全国の都市から町作りのモデルケースとされ視察も多い。
[編集] 住宅団地
- 初雁団地
- 新宿町団地
- 川越いせはら住宅
- 川越西山住宅 (笠幡)
- 川越北谷住宅 (岸町)
- 川越岸町やまぶき住宅
- 川越久下戸住宅
- 川越月吉町団地
- 川越月吉町住宅
- 川越今泉住宅
- 川越今福住宅
- 川越山田住宅
- 川越小中居住宅
- 川越小堤住宅
- 川越東坂上住宅 (新宿町)
- 川越神明町住宅
- 川越仙波町住宅
- 川越的場住宅
- 川越藤原住宅
- 川越南大塚住宅
- 住友川越霞ヶ関分譲地(現・上戸新町)
- 東急霞ヶ関ニュータウン(現・霞ヶ関東2~5丁目)
- かわつる三芳野団地
- 川鶴団地
- いせはら団地
- 霞ヶ関角栄団地 - 角栄建設(現・ジョイント・レジデンシャル不動産)造成の団地
(むさし緑園都市)
[編集] 観光
「世に小京都は数あれど、小江戸は川越ばかりなり」と謳われ、年間620万人の観光客を集めている。NHKの大河ドラマが「春日局」、「葵徳川三代」、「義経」、「風林火山」など、当市にも関係するテーマだと観光客が増える。
海外から来日した国賓にも日本の代表的な町並みとして紹介されており、2007年3月28日には今上天皇夫妻がスウェーデン国王カール16世グスタフ夫妻を案内し、西武新宿線のお召し列車で行幸した。
当市は国土交通省の観光ルネサンス事業に指定され、外国人富裕層の誘致促進の観光振興策を実施している。外国人観光客向けプロモーションビデオのコンペ「小江戸川越ビデオ大賞」も行い、優秀作は海外に配信している。当市は東京近郊で交通至便、江戸情緒を実体験できる町として人気があり、外国人観光客は年間4万人超となっている[24]。韓国の人気番組「私たち結婚しました」のロケ地となるなど外国メディアに登場することも増えている。
2008年2月からは、川越商工会議所を中心に小江戸川越検定が行われており、市外からも多くの人が受検している。
- 観光案内所
- 川越市観光案内所は、埼玉県初のビジット・ジャパン案内所で、川越駅構内と川越一番街にある。
- ジェイアールバステックが、神奈川県鎌倉市と当市で観光レンタサイクル事業を行っており、川越駅近くで借りられる。本川越駅近くにもレンタサイクルがある。
[編集] 名物・特産
- 江戸時代から特産品。飢饉の時の非常食であったサツマイモを美味な商品作物にまで育てたのは川越で、今では川越芋の生産量は減ったが、サツマイモの加工基地となっている。川越芋は、火が通りやすく芋きんとんなど加工すると美味になる品種で、芋せんべいや芋羊羹、芋松葉、芋納豆、芋シュー、二色芋ババロア、芋プリンなど豊富。黄色い「芋ソフトクリーム」や「紫芋ソフトクリーム」は川越発祥。イモ菓子だけでなくイモ料理も名物で、「サツマイモを食すなら川越で」と言われた天保年間から豊富な料理を築いてきた。芋うどん、芋おこわは定番。「えぷろん亭」、「源氏家」はオリジナルのサツマイモ料理。「いも膳」は、いも懐石で知られ「サツマイモ資料館」を2008年(平成20年)まで開館していた(閉館後、資料は川越市立博物館に寄贈)。
- 川越名菓「亀の最中」の「亀屋」は1783年(天明3年)創業で旧川越藩御用達。「亀屋栄泉」、「くらづくり本舗」、「芋十」、「東洋堂」、「右門」、「道灌」、「紋蔵庵」、「稲葉屋本舗」など1世紀を経た老舗が揃う。亀屋栄泉には「芋菓子の歴史館」もある。
- 川越団子
- 生地から手作りの手焼きせんべいの店が「塩野」、「大玉や」など街中にある。川越煎餅は伝統的に醤油味の塩せんべいである。「せんべい・あられは鉄火焼」のCMのホンダ製菓は当市生まれの会社で本社・工場・直売所も全て市内にある。
- 「吉寅」は1877年(明治10年)創業のすき焼きの老舗。国の登録有形文化財の洋館の「太陽軒」は大正期の洋食。「楽天」は1932年(昭和7年)に初めてとんかつと名付けた東京・上野の「楽天」の唯一の支店(上野本店は今は無い)。
- 古くから蕎麦の栽培に適した土地で、江戸の影響を受け継いで蕎麦屋が多く喜多院の参道などに蕎麦屋が目立つ(茶そばの「寿庵」など)。「百丈」は店舗が国の登録有形文化財の指定。
- 天保年間創業の「松本醤油」、1789年(寛政元年)創業の「笛木醤油」など天然醸造の醤油作りが残る。「小江戸鏡山酒造」は地酒「鏡山」の造り酒屋。芋焼酎は三芳町で栽培された川越芋を原料とする川越いも焼酎「富の紅赤」がある。
- COEDOビールは地元川越名産のサツマイモを原料としている。ドイツの名門ブラウマイスター仕込みのプレミアムクラフトビールで、モンドセレクションで最高金賞をダブル受賞、iTQi コンテストでは日本のビールで初めて最高のクリスタルテイストアワードを獲得、ヨーロピアンビアスターアワードでは2010年に国産ビールで初の金賞を受賞。北米、オーストラリアなど海外輸出も行っており、アメリカではグルメスーパーのホールフーズ・マーケットでも販売されている。
- ラーメン店が多い激戦区である。中でも「頑者」はつけ麺ブームの火付け役で、テレビ・雑誌などのマスメディアに登場する機会も多く、新横浜ラーメン博物館にも支店を出している。
- 寛永年間に藩主の松平信綱が興した川越の地場産業で、桐箪笥発祥の地である。大火の多い江戸で重宝された。川越の桐箪笥は島村利正の小説『桐の花』でも描かれている。皇后美智子のご成婚で桐箪笥を納めた天保年間創業の「桔梗屋」が有名。
- 川越絹など織物の一大産地だった川越だが、唐桟(とうざん)は江戸時代に南蛮から入ってきた縞木綿で、粋で高価な唐桟は江戸で一世を風靡した。川越商人はいち早く量産化に成功して川越唐桟(川唐)と呼ばれている。川唐は近年メディアで特集されることが多くなっている。
[編集] 名所
- 時の鐘
- 川越一番街
- 蔵造りの街並みが残る。福島県喜多方市、岡山県倉敷市とともに「日本三大蔵の町」。川越城西大手門跡の先にある高札場であった「札の辻」を中心とした一帯が藩主・松平信綱の時代から商人地区の上五ヶ町。町の3分の1を焼失した1893年(明治26年)の川越大火で焼け残ったのが江戸期の蔵造り建築であったので、その後、各商家が倣った。かつては200棟を超える蔵造りの町屋が建ち並び、川越商人の財力を示した。高価な黒漆喰をふんだんに用いているのが川越の見世蔵の大きな特徴である。
- 現在は資料館、ギャラリー、個性的なカフェなどに利用されていることも多い。川越藩士であった橋本雅邦のコレクションがある「山崎美術館」、「服部民俗資料館」、川越藩御用絵師・舩津蘭山の「蘭山記念美術館」、「松下紀久雄むかし絵美術館」などがある。1792年(寛政4年)に豪商の西村半右衛門によって建てられた「大沢家住宅」は現存する関東地方最古の蔵造りで、国の重要文化財。「陶舗やまわ」は蔵と店を繋ぐトロッコがありNHKの連続テレビ小説「つばさ」の舞台「甘玉堂」となった。川越一番街は夜にライトアップされることがある。
- 大正浪漫夢通り
- 菓子屋横丁
- 立門前通り
- 喜多院
- 川越大師。関東天台総本山。淳和天皇の勅で慈覚大師円仁によって830年(天長7年)に創建された。徳川家康のブレインであった慈眼大師天海によって隆盛を極め、家康も論議を聴きに参詣した。家康の命で藩主の酒井忠利によって大伽藍が建立された。狩野吉信の職人尽絵屏風など多くの国の重要文化財を有する。1638年(寛永15年)の川越大火でほとんどが焼け落ち、「徳川家光誕生の間」「春日局化粧の間」など江戸城紅葉山にあった建物の一部が徳川家光の命でここに移築され、重要文化財として往時の江戸城の貴重な遺構を今に伝えている。一方、東京都台東区上野の寛永寺本堂は喜多院の本地堂を移築したものである。五百羅漢は1782年(天明2年)から半世紀を費やして造られ日本三大羅漢の1つ。小堀遠州流の枯山水庭園がある。松平大和守家7代のうち川越で没した5人の藩主の廟所もある。毎年1月3日の初大師の日にだるま市が開かれ、その日だけで30万人以上の人出がある。
- 中院
- 仙波東照宮
- 川越城(初雁城)
- 三芳野神社
- 浮島神社
- 日枝神社
- 成田山川越別院本行院
- 東明寺
- 氷川神社
- 養寿院
- 蓮馨寺
- 川越八幡宮
- 河越館跡
- 永島家住宅
- 旧戸田家住宅
- 新河岸川河岸場跡
- 日本聖公会川越キリスト教会
- 1889年(明治22年)に建立された聖公会の教会で、埼玉県最初のキリスト教会。日本聖公会では北関東教区で最初の教会でもある。1878年(明治11年)、アメリカから帰国したばかりの横山錦柵(最初に自転車に乗った日本人とされる)によって川越で伝道が始められた歴史を持つ。川越大火で失われたが、1921年(大正10年)に再建された現建物もゴシック様式の赤煉瓦造り(日本煉瓦製造)で、国の登録有形文化財の指定を受けている。設計はアメリカの聖公会から派遣され、池袋に移転した立教大学の諸聖徒礼拝堂(チャペル)の設計管理も担当したウィリアム・ウイルソン。再建資金はニューヨーク大学のピーターソン教授夫妻の寄付金に多くを負った。
- カトリック川越教会
- 旧八十五銀行本店(現・埼玉りそな銀行川越支店)
- 旧武州銀行川越支店(現・川越商工会議所)
- 旧山吉デパート
- 旧山崎氏別邸庭園
- 藤間流発祥の地碑
- 正岡子規句碑
砧うつ隣に寒き旅寝哉
[編集] 主要祭事
- 関東では数少ない山車の曳き回しの祭りで、関東三大祭の1つ。国の重要無形民俗文化財。川越城下の大半が焼き尽くされた1638年(寛永15年)の川越大火の翌年、幕府の老中首座であった松平信綱が川越藩主となり町の再興が為される中、1648年(慶安元年)、松平信綱が神輿・獅子頭を寄進、信綱によって総鎮守である氷川神社の祭礼として始まる。東京神田明神の神田祭などが山車ではなく神輿の祭りに変わってしまった現在、江戸天下祭の面影を最も良く残した祭りである。
- 川越百万灯夏まつり(7月下旬)
- 1850年(嘉永3年)の盆に、魚子(ななこ)という川越藩の家臣・三田村源八の娘が、同年に死去した藩主の松平斉典を偲び軒先に切子灯篭を掲げたことに始まる、とされる。現在は市民祭りと化し、提灯が飾られ、川越藩火縄銃鉄砲隊保存会の実物の火縄銃の演武など時代行列も行われる。
[編集] 川越歳時記
- 1月
- 2月
- 11日 弓取式(下老袋、氷川神社)県指定・無形民俗文化財
- 3月
- 4月
- 第2日曜日 万作(老袋、氷川神社)県指定・無形民俗文化財
- 14日 足踊り(南田島、氷川神社)市指定・無形民俗文化財
- 15日 祭ばやし(今福、菅原神社)県指定・無形民俗文化財
- 15日 祭ばやし(中台、八雲神社)県指定・無形民俗文化財
- 第3土・日曜日 ささら獅子舞(石原町、観音寺)県指定・無形民俗文化財
- 19日 神楽(中福、稲荷神社)市指定・無形民俗文化財
- 7月
- 9月
- 10月
- 11月
- 12月
- 3日 酉の市(連雀町 熊野神社)
[編集] 宿泊施設
- 佐久間旅館
- 市内には「川越プリンスホテル」、「川越東武ホテル」、「川越第一ホテル」、「ホテル三光」などのシティホテルや、ビジネスホテル・カプセルホテルも多い。天然温泉の「川越温泉」「はつかり温泉」など日帰り入浴施設もある。伊佐沼湖畔には埼玉県国民年金保養センター「えすぽわーる伊佐沼」もある。また、蔵造りの町並みには戦前から続く昔ながらの銭湯「旭湯」がある(市内唯一の銭湯)。
[編集] オブジェ
街中にオブジェ(屋外彫刻)が多い。時間を表すオブジェとしては以下のようなものがある。
- 「時世」(平成の時の鐘として川越駅東口のロータリーにある。藤田久数作。午後6時、9時、0時に夜空に高く光を放ち、時間を告げる。北米照明学会賞)
- 「こども川越まつり」(アトレマルヒロの駅側の入口上部に、市制施行80周年を記念し設置されたからくり時計。からくりの動作はアトレの開店時間から午後9時までの毎正時)
- 「24MONUMENT PLAZA」(川越駅東口の広場にあるピラミッド状の日時計。高瀬昭男作)
[編集] 川越を舞台にした作品
- ドラマ
- 映画
- 小説
- 漫画
- アニメ
- 音楽
- 「川越小唄」(作詞:西條八十、作曲:町田嘉章、唄:藤本二三吉)
- 「四季の川越」(作詞:山岐善麿、作曲:町田嘉章)
- 「川越舟唄」(採譜・編曲:松尾健司)
- 「小江戸川越音頭」(作詞:野原正作、作曲:松尾健司)
- 「いも掘り音頭」(作詞:坂本長治、作曲:西崎洋子)
- 「川越新小唄」(作詞:林笙之、作曲:佐々木すぐる、編曲:南雲一広、唄:島倉千代子)※川越市選定歌
- 「川越サンバ」(作詞:荒木とよひさ、作曲:大野雄二、歌:デュークエイセス)
- 「Over The River」(スネオヘアー)
- シングル「Over The River」及び1stアルバム「スネスタイル」に収録。曲題は「川越」の直訳。当市で学生時代を過ごした思い出と、現在の自分を照らし合わせて唄った曲である。
[編集] 出身有名人
[編集] 歴史的人物
- 河越重頼(平安時代末期の武将、荘官)
- 河越重房(平安時代末期の武将)
- 河越重時(鎌倉幕府御家人)
- 河越重員(鎌倉幕府御家人)
- 河越泰重(鎌倉幕府御家人)
- 河越経重(鎌倉幕府御家人)
- 河越宗重(鎌倉幕府御家人)
- 河越貞重(鎌倉幕府御家人)
- 河越高重(南北朝時代の武将)
- 河越直重(室町時代の武将)
- 郷御前(源義経の正室)
- 藤間勘兵衛(日本舞踊藤間流の創始者)
- 喜多川歌麿(江戸時代の浮世絵師):諸説ある生地の最有力地。
- 奥貫友山(江戸時代の慈善家)
- 安井政章(江戸時代の治水家)
- 松平直温(江戸時代後期の川越藩主)
- 内池武者右衛門(川越藩士、「先登録」の著者)
- 保岡嶺南(儒者)
- 内海次郎(新選組隊士)
- 西川練造(尊王攘夷家。清河八郎の同志)
- 赤沢仁兵衛(江戸・明治時代の農学者)
- 佐野友三郎(明治時代の図書館学者)
[編集] 政財界
- 鈴木岩治郎(戦前の大財閥の鈴木商店創業者)
- 速水堅曹(農商務省官僚、日本の製糸業生みの親)
- 深沢雄象(実業家、正教徒)
- 澤田半右衛門(伊勢半創業者)
- 横田五郎兵衛(第八十五国立銀行設立者)
- 綾部利右衛門(実業家、川越市初代市長)
- 伊藤八兵衛(幕末に江戸一番の豪商と言われた幕府御用商人)
- 山崎豊(菓子商、川越貯蓄銀行創設者)
- 中島久平(実業家、川越唐桟の祖)
- 福田久松(自由民権運動家、衆議院議員)
- 浅田信興(陸軍大将)
- 四王天延孝(陸軍中将)
- 綾部惣兵衛(立憲同志会や憲政会の幹事を歴任)
- 和田博雄(政治家、元農林大臣)
- 川合善明(政治家、弁護士)
- 沢田哲夫(政治家)
- 松山千恵子(政治家、元厚生・郵政政務次官)
- 小宮山泰子(政治家、衆議院議員)
- 中野清(政治家、元自民党副幹事長、現内閣常任委員長)
[編集] 芸術
- 小村雪岱(日本画家)
- 小茂田青樹(日本画家)
- 岩崎勝平(洋画家)
- 相原求一朗(洋画家)
- 淡島椿岳(画家)
- 宮脇俊三(紀行作家、鉄道旅行家)
- 細田源吉(プロレタリア文学作家)
- 岩上智一郎(作家)
- 天堂晋助(作家)
- わたなべめぐみ(児童文学作家)
- 安斎教子(歌人)
- 杉浦翠子(歌人)
- 花村えい子(漫画家)
- 浅美裕子(漫画家)
- 名香智子(漫画家)
- 春瀬サク(漫画家)
- 船曳鴻紅(デザイナー)
- 戸田基大(写真家)
- 矢部澄翔(書家)
[編集] 芸能
- 市村正親(俳優)
- 小林隆(俳優)
- 近藤宏(俳優)
- 三遊亭鳳楽(落語家)
- 三遊亭窓里(落語家)
- 喜味こいし(漫才師「いとし・こいし」)
- 森奈みはる(女優)
- 蒲生麻由(女優)
- 日高薫(モデル)
- 西端さおり(元タレント)
- 緒川凛(グラビアアイドル、女優)
- 宮内彩花(アイドル)
- 蒲生麻由(女優、タレント、ファッションモデル)
- 佐藤愛子(元アイドル、ribbonメンバー)
- 福原遥(子役タレント、声優)
- 後藤泰観(ジャニーズJr.)
- 金子梨沙(NHKテレビ体操インストラクター)
- 荻原弘子(日本テレビアナウンサー)
- 伊東陽司(テレビ信州アナウンサー)
- 杉岡英樹(NHKアナウンサー)
- 上岡信夫(宮崎放送アナウンサー)
- 急式裕美(札幌テレビアナウンサー)
- 熊谷明美(札幌テレビアナウンサー)
- 福田友理子(群馬テレビアナウンサー)
- 青池奈津子(埼玉県立川越女子高等学校卒、フリーアナウンサー)
- 梅田陽子(セント・フォース所属のアナウンサー)
- 加納孝政 (RAG FAIR)
- 大木伸夫 (ACIDMAN)
- 朝川ひろこ(歌手)
- 坂井志帆(歌手)
- FREEASY BEATS
- 吉田和雄(ドラマー、小野リサ、ジョイス等ブラジル音楽プロデューサー)
- U-zhaan(タブラ奏者)
[編集] スポーツ
- 樋口久子(女子プロゴルファー)
- 仁村薫(元プロ野球選手)
- 仁村徹(元プロ野球選手)
- 矢口哲朗(元プロ野球選手)
- 國吉貴博(Jリーグサガン鳥栖選手)
- 田中淳(Jリーグザスパ草津選手)
- 千島徹(元Jリーグ選手)
- 関根永悟(Jリーグ愛媛FC選手)
- 清成龍一(ロードレースライダー)
- 田中姿子(ビーチバレー、元ディナモ・モスクワ)
[編集] その他
- 三島通良(日本の学校衛生の生みの親。三島式種痘法を発明)
- 井上善十郎(衛生学者。北海道帝国大学医学部長、北海道医師会会長を歴任)
- 西村阜子(昭和初期の女性パイロット。戦前の日活女優)
- 宇治文蝶(三味線の人間国宝)
- 野村稔(法学者)
- 荻久保和明(作曲家、指揮者)
- 野田澤彩乃(女流棋士)
[編集] ゆかりのある人物
- 仙波家信
- 師岡重経
- 上杉持朝
- 太田道灌
- 田代三喜
- 塚原卜伝
- 北条氏康
- 北条綱成
- 大道寺政繁
- 天海僧正
- 春日局
- 酒井忠勝
- 松平信綱
- 堀田正盛
- 安松金右衛門
- 柳沢吉保
- 荻生徂徠
- 秋元喬知
- 高山繁文
- 秋元凉朝
- 海保青陵
- 松平信輝
- 松平斉典
- 藤枝英義
- 沼田順義
- 松平康英
- 松平典則
- 松平直侯
- 松平直克
- 大川平兵衛
- 忽滑谷快天
- 柴田是真
- 高林謙三
- 橋本雅邦
- 井上安治
- 吉田幸兵衛
- 渋沢栄一
- 高田早苗
- 大川平三郎
- 福沢桃介
- 星野仙蔵
- 島崎藤村
- 国崎定洞
- 稲垣史生
- 小宮山重四郎
- 巖金四郎
- 澁澤龍彦
- 池原昭治
- 田部井淳子:川越市民栄誉賞
- 笹森清
- 諏訪哲二
- 河上亮一
- 宇津木妙子
- 盛田隆二
- 奥泉光
- 田村文生
- スネオヘアー
- 速水けんたろう
- 原千晶:川越市立高階西中学校卒
- 田中卓志(アンガールズ)
- 遠藤隆行:川越市民栄誉賞
- 上田竜也 (KAT-TUN) : 川越市立古谷小学校卒、川越市立東中学校卒
- やまがらしげと
- 内田康夫:埼玉県立川越高等学校卒
- 辺見庸
- セルヒオ・エスクデロ
- エスクデロ・セルヒオ
- 安久鉃兵
- 坪内千恵子
- 津久井教生
[編集] マスコミ
- 小宮悦子:埼玉県立川越女子高等学校卒(ニュースキャスター)
- 田丸美寿々:埼玉県立川越女子高等学校卒(ニュースキャスター)
- 山本浩:埼玉県立川越高等学校卒(サッカー中継で有名だったNHK元アナウンサー)
- 辛坊治郎:埼玉県立川越高等学校卒(ニュースキャスター。讀賣テレビ解説委員長)
- 小久保知之進:埼玉県立川越高等学校卒(テレビ朝日経済部記者・アナウンサー)
- 八代英輝:城北埼玉高等学校卒(コメンテーター、国際弁護士)
[編集] その他
- 広報番組「わが街川越」が、テレビ埼玉で放映されている。
- JCN川越では、「KOEDOちゃんねる」や「市民チャンネル」で市内の毎日のニュースなど各種放送が行われている。
- 2002年秋にインターネット上で実施された「埼玉県最萌トーナメント」で当市が優勝した[27]。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 「住みたい町」ランキング、埼玉県は川越がトップ(朝日新聞。2010年10月15日)
- ^ 埼玉県県立文書館のサイトより
- ^ 埼玉県内の主要駅乗降客数の推移
- ^ 川越歴史博物館のサイトより
- ^ 「川越市史(本編)第二巻 中世編」より
- ^ 桜田で豊臣秀吉方の武士に殺害されたとも
- ^ この間の家格は親藩なので老中など幕府の役職には就いていない。
- ^ 埼玉ゆかりの偉人データベース 嵩 俊海 埼玉県文化振興課
- ^ 経済産業省の事業として、ニューヨーク日本国総領事館公邸で「小江戸川越と歌麿の世界 in ニューヨーク」などのイベントも開催されている。
- ^ 角川日本地名大辞典
- ^ 商家での児童労働は当時の川越の社会問題となっていた。
- ^ 広島へ投下された兵器の正体を国内でいち早く「原子爆弾」と訳し政府に報告したのは、川越市で海外放送を傍受した通信社だった(朝日新聞。2010年8月9日)[リンク切れ]
- ^ 埼玉県財政比較分析表
- ^ 川越駅西口周辺地区基本構想を策定
- ^ 川越狭山工業会の公式サイトより
- ^ Barry Duell, The Japan Times, Saturday, June 23, 2007
- ^ 埼玉県内商店街通行量調査 川越のサンロード、新富町が1、2位独占(産経ニュース。2010年4月5日)
- ^ 蔵の街川越・屋台骨は、やはり住民パワー「川越蔵の会・総務大臣表彰」(クオリティ埼玉。2011年1月17日)
- ^ 「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2010」が決定 大賞は高松、川越、長浜などで地方再生を手がけた西郷真理子さん(Nikkei online。2009年12月4日)
- ^ MIPIM、西郷真理子氏の市街地再生計画が日本初のアワード受賞(日経BP。2011年3月25日)
- ^ 川越の歴史生かす街計画、国が認定 最大で50%補助も(朝日新聞。2011年6月9日)
- ^ 「川越・一番街」の交通に関するアンケート調査結果について(埼玉大学・川越市) (PDF)
- ^ 川越に自転車専用通行帯 県内設置は23年ぶり(埼玉新聞。2009年6月29日)
- ^ 外国人観光客:7割増、昨年4万2000人(毎日新聞。2011年3月3日)
- ^ 川越織物市場の会のサイト
- ^ 旧山崎氏別邸庭園が県内初の国登録記念物へ(毎日新聞。2010年11月20日)
- ^ 埼玉県最萌トーナメント
[編集] 外部リンク
- 行政
- 観光
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