大善寺 (甲州市)

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大善寺
大善寺 本堂.JPG
薬師堂(国宝)
所在地 山梨県甲州市勝沼町勝沼3559
位置 北緯35度39分21.4秒
東経138度44分35.4秒
座標: 北緯35度39分21.4秒 東経138度44分35.4秒
山号 柏尾山
宗派 真言宗智山派
本尊 薬師如来
創建年 伝・養老2年(718年
開基 伝・行基
札所等 甲斐百八霊場18番
文化財 薬師堂(国宝)
木造薬師三尊像、木造十二神将立像、木造日光・月光菩薩立像(重要文化財)
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大善寺(だいぜんじ)は、山梨県甲州市勝沼町にある寺院。宗派は真言宗智山派、山号は柏尾山、本尊は薬師如来である。

歴史[編集]

正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)三枝守国による建立とする伝承があり(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。また、柏尾山経塚出土の康和5年(1103年)在銘経筒には当時の伽藍の様子が記され、天台寺院として機能していたことも示されている。

寺伝では養老2年(718年)、行基甲斐国柏尾山の日川渓谷で修行した時に、夢の中に葡萄(甲州ぶどう)を持った薬師如来が現われ、満願を果たし、葡萄を持った薬師如来像を建立したことが当寺の起源であるとされている。甲州葡萄の始まりは行基が法薬として葡萄の栽培法を村人に教えたことであるともいわれている。本尊の薬師如来像の持物は失われているが、元は右手に葡萄を持っていたという伝承がある(薬師如来像の右手は通常は掌を正面に向ける施無畏印であるが、大善寺の薬師如来像は右手を膝前に垂下している)。

鎌倉時代には鎌倉幕府が甲斐・信濃国において棟別銭を課して本堂が再建された。戦国時代には天文19年(1550年)に郡内領主の小山田信有(出羽守)がニ子を連れて参詣を行っている(「大善寺文書」)。天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍に攻め込まれた武田勝頼岩殿城大月市)に向かう時に大善寺に戦勝を祈願したが、郡内領主・小山田信茂の離反にあい、天目山で自決した。この一部始終を目撃した理慶尼が記した武田滅亡記が大善寺に保管されている。

伽藍[編集]

  • 楼門:元禄17年(1704年)建立
  • 本堂(薬師堂):堂内柱の刻銘から弘安9年(1286年)に建立されたと見られている。山梨県内で最も古い建物と言われている。
  • 鐘楼:現在の鐘楼は正徳4年(1714年)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次大戦の折に供出され、現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された。

文化財[編集]

国宝
  • 本堂(薬師堂)附:厨子1基
寄棟造檜皮葺。鎌倉時代の本格的密教仏堂。内部の柱に弘安9年(1286年)の刻銘がある。屋根は寄棟造(正面から見た屋根形が台形を呈する)であるが、大棟(台形の上辺に当たる部分)が極端に短いのが特色である。ただし、この屋根形式は江戸時代の修理によるもので、建築当初からこのような形であったかどうかは定かでない。堂内の厨子は堂よりやや遅れて文和4年(1355年)の作。
重要文化財(国指定)
  • 木造薬師如来及び両脇侍像
平安初期の作と考えられている薬師三尊像。当寺の本尊として本堂の厨子内に安置され、秘仏である。三像ともに桜材の一木造。中尊の像高85.4センチメートル。
  • 木造十二神将立像
薬師三尊像を安置する厨子の両脇に安置される十二神将像。像高138 - 145センチメートル。寅神像の胎内に嘉禄三年(1227年)、大仏師蓮慶が造った旨の銘がある(『山梨県史資料編中世4考古』)。また、近年の解体修理により、丑神、巳神、酉神、亥神の像内からも嘉禄3年(1227年)及び安貞2年(1228年)の造像銘が発見された。銘文から、奈良の仏師で山梨県内では福光園寺の吉祥天像の作例がある蓮慶(れんけい)による作であると判明し、甲斐国における慶派仏師の活動を示す資料として注目されている。ただし、12体の像には作風や構造の違いもみられ、特異な作風をもつ午神像などは作者が異なるともいわれる。
  • 木造日光・月光菩薩立像
    • 附:日光菩薩像内納入品(薬師如来印仏(25通)1綴(正応五年の記がある)、薬師如来印仏6巻、十一面観音印仏5巻、墨書紙片、紙礫等一括)[1]
本尊薬師如来像の両脇侍の日光月光菩薩像とは別の鎌倉時代の像。本尊薬師如来像が安置される本堂中央厨子の両脇壇上に安置される。像高は日光菩薩が248センチメートル、月光菩薩が247センチメートル。日光・月光菩薩像は通常は薬師如来の両脇侍像として安置される。南北朝時代の暦応2年(1339年)に記された「大善寺炎上堂宇什物注進状案」(『大善寺文書』)では文永7年(1270年)・建武3年(1336年)の火災で焼失した堂宇・宝物が書き上げられ、文永7年の火災で「大善寺新仏 丈六」が焼失したとあり、現存する日光・月光菩薩像は、この焼失した丈六仏の両脇侍として造立されたものと推定されている[2]
材と思われる針葉樹材の寄木造、漆箔仕上げで、玉眼を嵌入する。主要部は前後左右4材矧ぎ、像内は内刳りを施し、割首[3]とする。両腕と両足先は別材を矧ぐ。像容は慶派の特徴を持ち、13世紀半ば頃の作製と考えられている。大善寺では嘉禄2年(1226年)頃から鎌倉幕府の支援を得た本堂の再建が行われており、本像も十二神将像とともに再建時に造立された可能性が考えられている[4]
2007年度に重要文化財に指定され解体修理が行われ、日光菩薩像の胎内には印仏などの像内納入品が確認される。印仏は薬師如来坐像や十一面観音菩薩立像、薬師如来立像などの姿が捺されたもので、発見当初はで束ねられた紙束状であった[5]。納入品は日光菩薩像の背面から胸部に鋸挽きが施されて納められていた。[6]確認される文字から正応5年(1292年)に「僧顕俊」により発願されたことが確認された。「顕俊」については不明であるが、正応5年の翌年には本堂が落慶しており、難航していた弘安期の復興事業に関係する納入であるとも考えられている[7]
山梨県指定有形文化財
  • 木造役行者倚像 平成9年6月19日指定
修験道の祖とされる役行者の像。檜材の寄木造。彫眼。像高は83.9センチメートル。老相の修行者として表され、長頭巾を被り法衣に袈裟を付け両肩から藤衣も掛ける。右手には錫杖、左手に経巻を持ち、高下駄を履き椅子に座る。『甲斐国志』に拠れば本像は御坂山上にあり、武田信春が当寺境内の六所明神社に移したという。富士信仰に関係する造立であると考えられている。
  • 鰐口 昭和39年11月19日指定
鎌倉時代の鰐口。総径44.5センチメートル、厚さ14センチメートル。耳や鋳継ぎ部が若干欠損。表面には三重の圏線を表し、中央に蓮華文の撞座が鋳出されている。外区左右に徳治2年(1307年)の年記があり、山梨県内では富士川町明王寺に伝来する貞応3年(1224年)に継ぐ古い作例。再建本堂に懸架するために制作されたと考えられている。
  • 大善寺金銅金具装山伏板笈 平成8年11月7日指定
年記は存在せず、室町期から近世初頭と推定される板。総高91.5センチメートル。
  • 大善寺文書 72通 昭和44年11月20日指定 
平安時代末期の安元3年(1177年)から江戸時代初期の慶長8年(1603年)までの古文書群。大善寺は山梨県内で最も中世文書の残存が多く、安元3年6月日平某下文を最古とし、鎌倉幕府の発給文書や、南北朝・室町期の文書が中心。戦国期の文書は少ない。
  • 大善寺中世墓出土陶器 平成19年4月26日指定
境内の薬師堂や庫裏、参道付近などで出土した陶器類。いずれも鎌倉時代のもので、古瀬戸瓶子3点(高さ19.0センチメートル-25.3センチメートル)、古瀬戸灰釉四耳壺1点(高さ28.8センチメートル)、古瀬戸鉄釉水滴1点(高さ3.7センチメートル)、常滑小壺1点(高さ20.5センチメートル)、美濃須衛四耳壺1点(高さ20.5センチメートル)。灰釉四耳壺の内部には骨片が確認され、水滴以外の瓶子や壺類は器の一部を故意に打ち欠いており、在地豪族の蔵骨器であると考えられている。

大善寺を描いた絵画[編集]

江戸時代後期の天保12年(1841年)には浮世絵師歌川広重甲府道祖神祭礼幕絵制作のため甲斐国を訪れ、甲府に滞在する。広重は甲府を拠点に甲府近郊や甲斐名所のスケッチを残しており、『甲州日記』の「旅中、心おほへ」には数々のスケッチが見られる。「心おほへ」十六丁・十七丁では、右頁に前頁から続く高尾山大本坊の境内が記され、左頁には大善寺の全景がスケッチされている。画中の文字のうち大善寺の部分は「カツヌマヨコブキ」「柏尾山」「大善寺」「薬師堂」なお、広重は日記部分でも4月分で大善寺門前の鳥居に掛かった額について言及し「馬一疋☆牛一頭」の図を記している。

1903年(明治36年)4月に出版された銅版画日本寺社名鑑 甲斐国之部』では「柏尾山大善寺之景」が描かれている。

その他[編集]

大善寺では宿坊を経営しており、宿泊することも可能。寛永末期に造られた江戸時代の日本三名園と言われる池泉鑑賞式庭園を見ながら食事ができる。

交通[編集]

拝観[編集]

  • 9:00~16:00 拝観は有料

脚注[編集]

  1. ^ 像内納入品は2013年に重要文化財に追加指定されている(平成25年6月19日文部科学省告示第116号)。
  2. ^ 『シンボル展 大善寺 日光・月光菩薩像』
  3. ^ 木彫仏像の頭部を制作過程でいったん割り放した後、再接続する技法。頭部の仕上げを容易にする、材のゆがみを調整するなどの利点がある。
  4. ^ 「新指定の文化財」『月刊文化財』525号、第一法規、2007、pp.10 - 11
  5. ^ 『シンボル展 大善寺 日光・月光菩薩像』
  6. ^ 『シンボル展 大善寺 日光・月光菩薩像』
  7. ^ 『シンボル展 大善寺 日光・月光菩薩像』

外部リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』429号、第一法規、1999年
  • 「新指定の文化財」『月刊文化財』525号、第一法規、2007年
  • 鈴木麻里子「大善寺日光・月光菩薩像及び十二神将像について」羽中田壮雄先生喜寿記念論文集刊行会編『甲斐の美術・建造物・城郭』岩田署員、2002年
  • 清雲俊元ほか著『大善寺 山梨歴史美術シリーズ2』山梨歴史美術研究会、2008年
  • 近藤暁子『シンボル展 大善寺 日光・月光菩薩像』山梨県立博物館2012年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]