ピンク映画

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ピンク映画(ピンクえいが)は、日本のポルノ映画のうち、大手以外の映画製作会社によって製作・配給された作品のこと。現在の製作・配給会社としては新東宝映画、オーピー映画(旧大蔵映画Okura Pictureより)、新日本映像(エクセス・フィルム)がある。この他に製作のみを行っている国映があり、配給は新東宝映画に委託されていたが、近年の作品は他社が配給している。

ピンク映画の傍流として「ゲイ向けピンク映画」と呼ばれる同性愛者向けのポルノ映画があるが、こちらは同項を参照のこと。

概要[編集]

なお、ポルノ映画という名前を日本で初めて使って映画を作ったのは東映である。1968年から1977年にかけて作られていた。網走番外地シリーズでNO.1ヒットを出していた石井輝男ら一般映画でも一流の監督達が演出し、一般映画でも主演スターである梅宮辰夫丹波哲郎吉田輝雄伊吹吾郎らが登場する。そこからポルノの女王と言われる池玲子杉本美樹らがスターとなっていき、フランスポルノの女王サンドラ・ジュリアンクリスチーナ・リンドバーグらがゲスト出演した。豪華な時代劇のセットや衣装を使い、後の日活のポルノとは桁違いの大金を投じていた。当時の日本映画は2本立てが基本であるため、ヤクザ映画と併映されていた。

日活は60年代も後半に入ると石原裕次郎小林旭の肥満や作品のマンネリのため客足が遠のき、後発のスターも観客動員力がなく経営破綻に陥った。成人映画なら一般映画より一桁少ない制作費でも客入りが見込めると1971年にポルノ専門の会社に転進。日活ロマンポルノを名乗った。ポルノを嫌った日活の既存のスターはテレビドラマや他社の映画の仕事を求めて辞めていった。一方、既に名を成していた映画監督らについては、この機に日活を離れた者が多いが、それ以外のスタッフについては、日活に残ってそのままロマンポルノの制作に従事した者も少なくない。
人材・作風などからピンク映画をスケールアップしたものが多い。ロマンポルノは予算が零細企業が作るピンク映画に比べれば潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かったことからピンク映画とは様々な面でカラーが異なっていた。ピンク映画業界のスターだった女優や監督など優秀な人材が日活にヘッドハンティングされることもあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。

日本では「ピンク」という色名が用いられているが、アメリカでの類似映画は、フィルムを青く着色していたことから「ブルーフィルム」と呼ばれる。日本で「ブルーフィルム」とは、温泉街などでの上映会に提供されていた8ミリまたは16ミリフィルムによる短編ピンク映画(その多数は無修正映画)を指すことが多い。

起源と歴史[編集]

1950-60年代、テレビの普及で職を奪われたニュース映画教育映画関係者達が糊口を凌ぐためにお色気をテーマにした短編・中篇映画を制作し、これを同じく衰退しつつあった小規模なニュース映画専門館に供給されていた。

当時は文字通り「お色気」に徹した作品であり、現在の過激な性描写にはほど遠い代物だった。また、作品としての質も決して高くなかった。

しかし、1961年の新東宝倒産が一つの転機となる。新東宝の経営を追われた大蔵貢が大蔵映画を設立。1962年に協立映画製作、大蔵映画配給の『肉体の市場』が公開。「成人指定」「独立プロ製作」「劇映画」という3つの要素を満たした最初の作品として、この『肉体の市場』がピンク映画第一号とされている[1]

この頃、ピンク映画という言葉は無く、「お色気映画」などとも呼ばれていたというが、夕刊紙内外タイムス」文化芸能部の記者で、後に映画評論家の故・村井實(村井実)が1963年に関孝司監督、沼尻麻奈美主演の映画である「情欲の洞窟」を取材した際、「おピンク映画」とこれらの作品群を呼ぶ造語を作り、その後「お」が外れてピンク映画という言葉が誕生したと言われる。

また、新東宝関西支店の有志が新東宝興業(現在の新東宝映画)を設立、大蔵映画と新東宝のピンク映画界の二大会社が成立する。また、一般の劇映画を経験した若松孝二などの監督やスタッフが、次々ピンク映画に参入してきた。特に若松は「若松プロ」を設立し、ピンク映画と言うよりは問題作と言われる作品を発表した。

その一方で業界の淘汰・再編も進み、1960年代中盤には新東宝・大蔵などは全国各地の成人館を一般映画同様、チェーン化していった。1970年には日活ロマンポルノの一定の成功もあって、東映セントラルフィルム東活(事実上の松竹系)、ミリオンフィルム(後のジョイパックフィルム、現在のヒューマックスシネマ)といったメジャー系のピンク映画製作会社も出現した。

1980年代前半はピンク映画の最盛期であり、これら制作会社が多数発表する一方で、ゲイ・ポルノなども制作が開始される。しかし、1980年代後半はアダルトビデオに市場を奪われ衰退、さらにピンク映画に対する映画業界による自主規制などからメジャー系制作会社は次々に撤退。1988年のロマンポルノの撤退も含めて、1990年代には市場が大幅に縮小した。

21世紀に入り、日本の映画産業もデジタル化が進む中、フィルムによる撮影とアフレコによる録音に拘ったピンク映画も、唯一の頼み綱の富士フイルムが映画用のフィルムの生産中止を受けたことにより、今後の動向が心配されている。 新東宝映画や国映、新日本映像はデジタル撮影に移行するなどしてピンク映画の存続を図っている。

表現の特徴[編集]

ピンク映画は文字通り、性描写を第一義とする映画である。しかし、長らく性描写に対する規制が強かったこと、監督やスタッフに映画業界関係者が少なからず存在すること、大学や映画専門学校出身の作家(監督、脚本家)やスタッフ、俳優がそもそも映画業界志望であって一般映画への憧憬が強かったことなどから性描写に力点を置きつつも、一般映画としての質を望むことも多かった。

このため、欧米のポルノ映画ではあまり省みられない映画としての評価と、性描写や女優の美貌などポルノとしてのクオリティが共存する日本独特の物となった。

ピンク映画は低予算、早撮りを特徴としており、一般的な作品の場合300万円程度の予算で撮影期間は3日ほど。従って、多くの場合には二晩徹夜で撮影をし続ける。かつては専用スタジオを用いた撮影も一部で行われていたが、一般的にはオールロケが主流である。限られた予算の補助のために、ロケとして用いられたホテルや飲食店のクレジットを映画の内部に表示するなど、苦心の策も用いられたという。

ピンク映画の作風は作家も影響するが、それ以上に影響が強いのが会社側の要求である。一般的に作家側は芸術的・映画的な作風を望むのに対し、会社側は性描写などポルノとしてのクオリティを望むことが多い。このぶつかり合いの中で作品が生まれると言ってよい。

低予算・短期間で、作家性の強い新人を多く起用することからピンク映画は一種のインディペンデントな作品に思われることもあるが、ピンク映画そのものはむしろかつてのプログラムピクチャーの方に性格は近く、このような制限の中で作家側が独自のカラーを出すことが重要となる。
この「縛り」は会社によってまちまちであり、厳しく条件を要求しアダルトビデオに追随するような作品を求める会社もあれば、作家側に裁量を多く与えている鷹揚な会社もある。作家主義が出やすいのは当然後者であり、ミニシアター映画祭において上映されて「映画」として評価されるのはこのような作品である。
その一方で会社・ピンク映画に特化した観客に好評なのは前者において制作されたポルノとしての性格が強い作品という場合もあり、時として(ピンク映画に興味を持つ)一般映画ファンとピンク映画ファンにおいて評価の違いを生み出すことがしばしばある。

しかし、このような低予算・早撮りという制作形態はかつてのアメリカB級映画と共通しており、事実大手制作会社が一部の大作を除き自社制作から撤退し、社員監督を雇わなくなってからはアメリカのB級映画がそうであったように、ピンク映画が映画監督の養成機関であると同時に登竜門として重要な役割を果たしていた。

その影響[編集]

ピンク映画の出身には若松孝二崔洋一のような「大家」から黒沢清周防正行のような「作家主義」の監督までおり、日本映画においてピンク映画の果たした役割の重要性が伺える。

ポルノとしてのライバルは相変わらずアダルトビデオやアダルトコンテンツなどであり、特に若い観客層を奪い続けている。ただ、その一方で映画作品として質の高さが再評価されることにより、作家性の高いピンク映画がロマンポルノと共にDVDなどソフトとして復活したりしており、意外に底堅い一面もある。また、アダルトビデオから人気女優が進出してくるケースも(人材不足も手伝って)90年代以降では盛んになり、そうした作品で優れたものはアダルトビデオファンをピンク映画に取り込むことも多くなっている。このため、Vシネマに代表されるビデオ作品が新人養成と監督への登竜門の役割を担いつつある。

上映館[編集]

現状[編集]

客層としては自宅の個室でアダルトビデオなどのポルノ作品を鑑賞する環境を持つことの出来ない、出稼ぎ労働者老人などが主で、過去において常連だった学生などはほとんど見られない。特に冬季に暖気を求めてやってくる客層は開館から閉館時まで居座ることがある。企業のスケジュール管理が緩やかだった時代には、営業マンセールスマンが時間調整のために来る事も多かったという。

しかし、近年、上映館の相次ぐ廃館やシネマコンプレックスへの転身により上映と制作の機会が激減している。ピンク映画館は個人経営の場合が多く、観客減と経営者の高齢化(後継者問題)、施設の老朽化(耐震基準を満たせず、建て替えも耐震工事も経済的に困難である等)などで閉館する場合が多い。比較的規模の大きいピンク映画館運営会社でも、すでにピンク映画に集客力は無いと判断し、閉館や一般映画館への転換を図っているケースがほとんどである。

かつて存在した上映館[編集]

関連企業[編集]

大きくわけて、製作会社と配給会社、その両方を行う会社に分類される。

現存する企業[編集]

配給会社
  • 新東宝映画 - 旧新東宝興業。直接製作している他、国映作品の配給も行っていた。
  • オーピー映画 - 大蔵映画の関連会社であり、現在の大蔵映画は直営館での興行のみとなっている。
  • 新日本映像
製作プロダクション

映画会社・興行会社系と映画監督の個人企業に近いものに分けられる。代表的なものにとどめてある。

過去にピンク映画を製作配給していた企業[編集]

配給会社
過去にピンク映画を製作していたプロダクション

かつて存在した企業[編集]

関連項目[編集]

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  1. ^ 『ピンク映画誕生50周年!お宝発見相次ぐ 桃色伝説』、『映画秘宝』2012年8月号