B級映画

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B級映画(ビーきゅうえいが、 英語: B movie)とは、1930年代のアメリカで始まった短期間の撮影、低予算で、上映時間も限定されたなかで製作された映画のことである。1932年からアメリカ合衆国の映画界で二本立て興行の中で添え物として上映されて、やがてハリウッド映画が大作主義となり、製作本数が激減する頃には消えていった。しかし今日ではこれとは別に、規模が小さく、少ない予算で作られる映画や、単に質が落ちる映画を指して言う言葉として使われることが多く、B級映画の定義は非常に曖昧であり、人によってはその解釈が異なる。

概要[編集]

映画史の上からいえば、二本立て興行で多い予算をかけてスターを揃えて一流監督が作る映画がA級映画で、それに比べて、添え物として少ない予算で無名の俳優を使い撮影期間も上映時間も限られている映画がB級映画であり、これはある一定の時期にアメリカで使われた言葉である。

ただし、今日使われている「B級映画」とは、次の2つの側面から使われている。

  • B級映画は低予算で規模が小さいなど小作品のイメージで捉え、それに対してA級映画は破格の予算で作られた大作映画を指す。商業的大作や芸術的力作に対して、その格下という比喩的意味合いで使われることが多い[1]
  • 単に映画を批評する場合にもっぱらランクを指し示すものとして使われている。B級映画よりも質の良いものを「A級映画」、さらに質の落ちるものを「C級映画」、出来の悪さにつれてD級やZ級という言い方もする場合がある。

どちらにしてもA級映画やC級映画などの呼び方は、あくまでB級映画が前提での比較対象であり、使用頻度はB級映画が多い。また、B級映画の多くが娯楽作品であり、あまり深く考えず気楽に見られる映画という面も持つ。映画監督クエンティン・タランティーノに代表される「B級映画自体が好き」という映画ファンが存在する。

B級映画の定義[編集]

しかし、もともとは「B級映画とは、映画産業におけるあくまで歴史的な現象であり、作品の価値に由来する概念なのではない。[2]」(「ハリウッド映画講義」蓮實重彦)ことは、おさえておかなければならない。

「職人監督が器用に仕上げて見せる娯楽映画も、観客動員を当て込んで話題性だけを誇示するゲテモノ映画や、意欲を欠いた企画が量産する粗製乱造のプログラム・ピクチャーが、それだけでは『B級映画』ではない。『B級映画』はあらかじめ二本立て興行の添え物として上映されることを目的として企画され、製作され、監督されたものだという点に尽きている[3]」(「ハリウッド映画講義」 蓮實重彦)。したがって、同じように製作されて、予算の高低、規模の大小、俳優の格、時間の長短、内容の良し悪しを論じても、それはA級、B級で区別されるものでもなく、そもそもA級映画でさえ厳密な定義つけは難しいと言える。

B級映画の歴史(アメリカ)[編集]

B映画[編集]

1927年、「ジャズシンガー」によってトーキー映画の登場により、映画会社がこぞってトーキー施設を備えた撮影所の拡充をしていく中、ウイリアム・フォックス社(後の20世紀フォックス)も撮影所を新築した。そしてそれまで使われていたウエスタン・アヴェニュー撮影所、新しく作られたウエストウッズ・ヒルズ撮影所との間で、新しい撮影所には会社から予算を投入して1本当たりの製作費も高くして、古い撮影所はそれまで通りで1本当たりの製作費は新撮影所より低いことになった。そこからウエストウッズ・ヒルズ撮影所は「A地域」と呼ばれて、大きな作品はそこで撮影され、ウエスタン・アヴェニュー撮影所は「B地域」と呼ばれて低予算で製作する作品を撮影することになった。これが「B地域の作品」とされて、それがやがて「B映画(B-Pictures)」と言われるようになった[4]。しかしこれだけでは単に地理的な区分だけであって、後に「B級映画」と呼ばれるようになった背景には、1929年の大恐慌とその後の映画界の不況が影響している。

二本立ての添え物[編集]

1929年10月からの大恐慌で映画界も直撃を受け、1930年の1週間当たりの平均観客動員数が1億1,000万人であったのが、1932~33年頃には1週平均6,000万人に激減した。これに対して映画会社が考えたのがそれまで無かった2本立て興行であった。サイレント時代から興行形態は様々な変遷を経ているが、興行の目玉である長編物(フィーチャー)は1本立てであり、これに短編や連続物(シリアル)などを加えて映画興行が成り立っていた。長編物はほぼ90分(1時間半)の上映であった。そこで観客を呼び戻す方策として料金はそのまま同じで長編物を二本立てで上映するシステムに変えることになった。そして、ハリウッドは年間で300本の映画を製作する必要が生じた。これに応じて撮影所は同じ長編でも二本立てでメインになる映画は長編90分にして、もう1本はそれよりも短い50~70分の時間で予算を抑え、当然スターは使わず、しかも限られた日数で製作することとした。そのため、上映する2本の映画に格差をつけて、もう1本が添え物のような形になったので、それが「B級映画」と呼ばれるようになった[5]。これは必ずしも映画会社だけの発案ではなく、実は興行側の映画館からの要請もあった。当時映画館は景品を出したりして観客を喜ばせる方策を打ち出し、その一つとして二本立ての試みを一部始めていた。それに対応して映画会社も量産体制に入ったのである[6]。そしてフォックス社が「A」撮影所と「B」撮影所に分かれたように、当時の他のメジャー会社(パラマウント、ワーナー、MGM、ユナイト、ユニヴァーサル、コロンビア、RKO)なども例えば自社でAユニットとBユニットに分けてB級映画の製作に乗り出し、本数が足りないところはB級映画を専門に製作するマイナー会社であるリパブリック、モノグラム、グランド・ナショナル、PRC[7]などが製作していった[8]

B級映画の限られた条件[編集]

B級映画は、A級映画に比べて、予算はおよそ十分の一、撮影期間は2週間(中には2日や5日も珍しくなかった)、上映時間[9]は60~70分で長くても80分という基準であった[10]。そして今日までこのB級映画の第1号映画は特定されていない。そして映画として記憶されているものも少なく、B級だけに出演した俳優も多く、彼らはB級俳優としてやがて忘れられていった[11]。結局それは便宜的に作られた映画だったことになる。収益は低いが予算も十分低かったので利益は保証されており、観客の入場者数はさほど重要性を持たなかった[12]

しかし別の側面では、新しい監督や脚本家、そしてプロデューサーらの若く有能な才能のテスト場として使われ、その限られた条件をうまく使って斬新な編集や即興的な演出、単純で単調さを逆に全面に打ち出すなど新しい映画の方向を模索する場となり、やがて彼らの何人かがここから巣立ち、1950~1960年代にアメリカの映画史を彩ることになった。これは後に1960年代にテレビ映画の製作に携わって、1970年代に映画の世界に進出して活躍したケースと同じであった。

B級映画の終り[編集]

戦後反トラスト法の成立によって、1948年に「パラマウント訴訟」の同意判決が進みメジャー会社のそれまで強固であった製作ー配給ー興行の垂直統合のシステムが崩れて、手持ちの劇場チェーンを切り離すと、メジャー各社のB級映画の製作は中止された。そしてマイナー会社はリパブリック、アライド(モノグラムの後身)、AIP[13]などがまだ製作を続けたが、しかし、この時期になるともはや純B級ではなくて、普通の長編フィーチャーの長さの映画で二本立て興行を維持するために製作していた。しかしそれも1950年代に入ってからテレビ映画の興隆で各プロダクションもテレビ映画の製作にシフトし、ハリウッドが大作主義に移行するなかでB級映画は無くなった。

この1950年代にリパブリックやアライド、AIPなどのもともとのB級製作会社が自由になった配給状況でB級ではないフィーチャー映画を製作したことは、この時点でもはやA級・B級の区別が無くなったと考えられるが、別の観点から低予算で製作された映画だとしてB級映画と見る見方もある。しかしこの期間のB級映画にはA級映画よりもはるかに自由な創造を可能にして映画製作者の「創意と創造性の試金石」となり、今日ではそれぞれのジャンルでの古典として認められて「現代の映画製作者のインスピレーションの源泉となっている」とされている[14]

B級映画のエピソード[編集]

  • B級西部劇のスターで日本でも有名であったランドルフ・スコットは常にB級スターのイメージがつきまとうが、増渕健氏は彼がB級スターなら、ジョン・ウェインもB級スターと呼ばなければならないとしている。事実ジョン・ウェインは「駅馬車」に出演するまでにB級映画に56本出演している。スコットは終始メジャー会社に属した俳優であり、A級映画にもよく出演したが、ウェインは「駅馬車」までの10年間、B級専門のマイナー会社を渡り歩いている[15]
  • 後にアメリカ合衆国大統領となったロナルド・レーガンもB級映画出身の俳優であったし、他にもジャック・ニコルソンなど多くの名優や名監督を輩出している。

今日のB級映画[編集]

今日、限られた期間で撮り経済的にも限られた条件で製作された映画を現在でもB級映画と呼ぶ場合がある。

  • そして第1作はB級映画と言われながら高い評価を得たり、あるいは大ヒットして、続編が超大作映画となってシリーズ化するケースもある。『ターミネーターシリーズ』がその典型的な例で、第1作『ターミネーター』では制作費が600万ドルだったのに対し、第3作『ターミネーター3』で制作費は1億6千万ドルに跳ね上がっている。同時に、シリーズを追うごとに主演のアーノルド・シュワルツェネッガーのギャラも高額になっていった。
  • 007シリーズ」も第1作『ドクター・ノオ』は低予算で製作されたがヒットしたため、第2作『ロシアより愛をこめて』、第3作『ゴールドフィンガー』と進むにつれて制作費も大幅に多くなり、豪華なアクション大作シリーズへと成長、世界的に大ヒットした。
  • 現在でも低予算と言われる映画でも、7000ドルで制作された『エル・マリアッチ』や、30000ドルで制作された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』など興行的に大ヒット作となった作品もある。
  • そんな中でもB級映画をひたすら撮り続けた「B級映画の帝王」と呼ばれるロジャー・コーマンは、映画界に多大な影響を与えており、彼の下で映画を学んだ映画関係者は数多い。しかし、コーマン本人は「B級映画の帝王」と呼ばれる事を好んでいない。その理由は彼本人の「B級映画」の定義は前述してある二本立て映画の前座低予算映画であり、彼が作っている作品はそれとは違うエクスプロイテーション映画や前座ではない単独の低予算映画であるからだと説明している。

最近は低予算というのも曖昧なもので、どこからが高予算か漠然としている。むしろ見た目のムードでしかない。スピルバーグの映画は相対的に低予算で撮影しており、しかし見た目は豪華である。早撮りで短期間に撮ったからと言って、その作品の価値が落ちるわけでは無い。

ジャン・リュック・ゴダールはアメリカのB級映画からその作風を学んだとも言われている。彼の最初の作品「勝手にしやがれ」はジョゼフ・H・ルイス[16]サミュエル・フラー[17]を範として映画会社モノグラムに捧げるとしていた。蓮実重彦は「ハリウッド映画史講義」で「ゴダールがエドワード・G・ウルマー[18]のPRC時代の撮影から最も多くの教訓を引き出した」としてその経済的・時間的及び空間的に限られた条件の中での撮影の単純さの中にB級映画の輝きがあり、ゴダールがその単純さの魅力を語っていると述べて[19]、そして80年代以降のリンチやクローネンバーグ、ジョーダンやバートン、ハートリーよりもゴダールの方が遥かにB級映画に近いとして「ゴダールは一貫してB級の単純きわまりない輝きを旋回している」と述べている[20]。ただし蓮実重彦はまた「語の厳密な意味でB級映画は永遠に失われている」[21]としてもはや存在しないと述べていた。

BムービーとB級映画[編集]

そこで今日使われている低予算の「B級映画」と区別して、歴史的にアメリカの一時期にあった映画を原語のまま「Bムービー」と呼び、峻別する向きもある。「きらめく映像ビジネス」(集英社新書)の著者の純丘曜彰は「Bムービー」をB級映画と訳すことは誤解を招く表現であって、フィーチャーかBムービーかは純粋に上映形式の問題であって作品の出来とは関係は無いとして『フィーチャーでも駄作は数多く、Bムービーでも名作はいくらでもある』と述べている。[22]。そして人気のあるBムービーは本編のフィーチャーの当たり外れのリスクを抑えて映画館に安定した観客動員をもたらしたとして、低予算で早撮り、ワンパターンで似たり寄ったりだとしてもそのマンネリにこそ親しみがあり健全なエンターティメントであるとしている。ただし、純丘曜彰はジョン・ウエインのB級西部劇やボブ・ホープなどの珍道中シリーズを例に挙げながら、日本のプログラム・ピクチャーの例として、いわゆる『社長』『駅前』『若大将』『無責任』のシリーズものや、『座頭市』『寅さん』もBムービーの範疇であるとしている[23]

B級映画の歴史(日本)[編集]

ところで日本映画では、歴史的にB級映画という言葉は使われず、その概念もなかった。しかし、それに相当する映画はかつて存在した。それは全くアメリカと同じく二本立て興行の実施に際して生まれた映画である。

松竹のシスター・ピクチャー[編集]

1952年まで日本映画の興行は一本立てで、二本立てを行う映画会社は無かった。しかし興行する映画館では戦後の復興が進んで、映画館も活況を呈してきた頃から、二本立てを望む声は多かった。いわゆる一番館では出来なくても二番館から下の館では、違う映画会社の作品を組み合わせて二本立てで興行を行う映画館も出てきていた。しかし映画会社は過当競争と作品の質的低下、製作費の高騰などを恐れて躊躇していたが、1952年4月に当時の映画業界のトップであった松竹が二本立て興行に踏み切り、その際にアメリカと同じく1本は長編、もう1本は40~50分の中編として映画を製作し、この中編映画を当時松竹はSP(シスター・ピクチャー)と名付けて、4月10日に西河克己監督、佐田啓二・幾野道子主演の「伊豆の艶歌師」を長編物「雪之丞変化」と同時上映で実施した。これが当時の松竹SP第1号で上映時間は45分であった[24]。松竹はこのSPの製作にあたり監督や俳優のトレーニングの場とし、また二本立てを行うことによって契約館を増やし、映画館側が他社の作品と抱き合わせでの二本立て興行を阻止する狙いがあった。その後に小林正樹監督、石浜朗・小園容子主演で「息子の青春」(45分)、野村芳太郎監督、同じ2人の主演で「鳩」(45分)などが公開されている。小林正樹と野村芳太郎はその翌年に本来の長編物(フューチャー)の監督になった。SP映画は新人の育成には大きな成果があり、後に大島渚[25]や山田洋次[26]もこのSP作品の監督を経験するところから本格映画でのデビューを果たしている[27]。しかし、興行面での契約館の増加は目標通りには進まなかった。それは松竹カラーとしての文芸作品が多く地味で、興行側からはそれほどの評価は得られず、やがて1954年に入るとSPを30~40分物に縮小した[28]

東映の娯楽版[編集]

この時に攻勢に出たのが東映であった。1954年には各社とも二本立て体制をとり始めたが、まだこの時期は新作で完全長編二本立てではなく、試行錯誤の時期であった。東映は1951年創立の後発会社でこの時期は松竹・大映についで業界3位であった。興行側が強く二本立てを望んでいることで、そこで東映は本編(フューチャー)1本に「東映娯楽版」という活劇でしかも三部作として売り出し、月形龍之介・大友柳太朗主演の「真田十勇士」[29]、他に「謎の黄金島」「少年姿三四郎」などをおよそ40~50分前後で、本編に付けて上映して、しかも三部構成の連続物なので次回もその続きを見るために観客を呼び込むなどして、この娯楽版には「雪之丞変化」も東千代之介主演の三部作として製作した。そしてこの娯楽版から「笛吹童子」の三部作が製作されて、第1部「どくろの旗」45分、第2部「妖術の闘争」44分、第3部「満月城の凱歌」57分がそれぞれヒットして主演の中村錦之介を一躍スターに押し上げた[30]。翌年正月には「紅孔雀」五部作が公開されて、本編の片岡知恵蔵の多羅尾伴内シリーズ「隼の魔王」よりも人気を呼んだ。

この娯楽版の狙いは、三部構成にすれば全体は120分を超す長編物であり、内容において本編と変わらない当時の実質A級映画であったことである。そしてまだデビューしたばかりの若手俳優を使い、しかもここから東千代之介、中村錦之介、大友柳太朗などその後の東映時代劇を支えるスターが育っていった。この少し後には連続物でなく独立した映画も製作して、当時デビューしたばかりの高倉健が「電光空手打ち」「流星空手打ち」などの1時間足らずの作品で主演を演じている[31]。この東映娯楽版が松竹SPと違って、本編の添え物ではなく、実質は観客を映画館に引き寄せる力になったことで、東映は東映作品だけを上映する契約館を増やし、やがて東映が映画業界のトップに躍り出ることになった。

東宝のダイアモンド・シリーズ[編集]

一方東宝は1956年に「ダイアモンド・シリーズ」と名付けて「鬼火」(加東大介・津島恵子主演)、「琴の爪」(中村扇雀・扇千景主演)など9本の映画を製作した。上映時間が50分であるが、スタッフ、キャストとも本編と変わらない陣容で、経済性を考慮しながらも高いクオリティを維持することを目指したが、松竹SPや東映娯楽版ほどの特徴がなく、文芸ものであったので長続きはしなかった [32]

東映のその後の動き[編集]

東映はその1956年に警視庁物語シリーズをスタートさせた。上映時間が60分前後、モノクロ、ドキュメンタリータッチ、そしてスター俳優は無く、ロケーション中心でアップテンポな展開で、1956年2月18公開の「逃亡5分前」から以後1964年「行方不明」まで24本が製作された。歯切れのいい畳み込むようなテンポで新鮮な画面が生まれて、後に1961年に東映が製作して当時のNET (現テレビ朝日)で放映された日本初の1時間テレビ映画「特別機動捜査隊」に受け継がれていく[33]。そして1964年に製作終了後には再編集して1時間のテレビ番組として放映されている。

東映は1960年に第二東映を設立して、配給系統を2ルートにして、時代劇路線と時代劇路線とを区分した。この時に第二東映では本編1本と60分前後のほとんどB級と言っていい映画を組み合せた上映システムをとったが、なにしろ製作本数が倍になるだけに、余りの製作本数に現場がついてこれず粗製乱造と言われて翌年11月には第二東映は無くなった[34]。そしてこのあたりから、長編2本の二本立て興行が常態となり、他の各社も同じ形態になって、B級映画にジャンル分けされる作品は姿を消した。そして時代はテレビ映画を作る時代を迎えることとなった。それはほぼアメリカと同じような経過を辿ったことになる。

B面映画[編集]

一部にB面映画という言葉があるが、正しくはB面映画はB級映画のことではない。B級映画はメインの本編(長編)と同時上映された中編の映画をさすが、B面映画は長編物二本立て興行がスタートしてから、どちらがメインなのかを示すために、レコードの裏表のようにA面・B面と呼ばれたことに起因している。流行歌のレコードが本来A面で売り出したのに、B面がヒットすることがあったように、B面映画は長編であってB級映画のような添え物ではない。

注釈[編集]

  1. ^ 「世界映画事典」697P 「B級映画」の項目参照
  2. ^ 「ハリウッド映画講義」96P 蓮實重彦 著 
  3. ^ 「ハリウッド映画講義」112P 蓮實重彦 著
  4. ^ 「ハリウッド映画講義」 108p 蓮實重彦 著 
  5. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」120~124P 増淵健 著 
  6. ^ 「ハリウッド映画講義」 112~113p 蓮實重彦 著 
  7. ^ プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーションの略。1939年設立。都市郊外のいわゆる二番館にB級映画を提供する製作会社として記憶されている。
  8. ^ 1933年には製作本数がメジャー系が60%で、マイナー系は40%に達していた。「B級映画~フィルムの裏まで~」125P 増淵健 著 
  9. ^ 増渕健氏によると、B級映画の定義について悩んでいた頃に、たまたま昔のB級西部劇を見る会が開かれて、その場にB級西部劇のビデオを持ってきたアメリカの作家リチャード・ブロティガン氏と会話する機会があり、そこで「B級とA級との違いは何か?」と彼に問うと、リチャード・ブロティガン氏は一言「Runing time」と答えたという。この限られた上映時間こそB級を決める要素と言える。
  10. ^ 「ハリウッド映画講義」 114~115p 蓮實重彦 著 
  11. ^ しかし、B級映画の出演で演技を磨き、やがてそれをステップに大作に出演する機会をつかみ一気に大スターになった場合もある。ジョン・ウェインがその例である。
  12. ^ 「フィルム・スタディーズ事典」410P「B級映画」の項目 参照 
  13. ^ アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズの略。ロジャー・コーマンが一時期所属していた映画会社。
  14. ^ 「フィルム・スタディーズ事典」410P「B級映画」の項目 参照
  15. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」83~84P 増淵健 著 
  16. ^ 1930年代後半から多くの映画を監督し、フイルムノワールに影響を与え、全編同時録音と即興演出はその後ヌーベルバーグにも受け継がれたとされている。「拳銃魔」が知られている。50年代後半にテレビに移行して「ライフルマン」「ガンスモーク」「バークレー牧場」などテレビ西部劇を監督している。
  17. ^ 多数のB級映画を監督し、その後1990年代までテレビ映画で出演したり監督していた。彼はまたゴダール監督の「気狂いピエロ」に出演している。
  18. ^ オーストリア生まれ。「日曜日の人々」「黒猫」「ハバナ・クラブ」「恐怖のまわり道」などの作品を監督してその即興演出はゴダールに影響を与えたとされている。シナリオが無くても映画は撮りあがったと言われている。
  19. ^ 「ハリウッド映画講義」 125~128p 蓮實重彦 著 
  20. ^ 「ハリウッド映画講義」 143~144p 蓮實重彦 著 
  21. ^ 「ハリウッド映画講義」 143p 蓮實重彦 著 
  22. ^ 「きらめく映像ビジネス」140P 純丘曜彰著 集英社新書
  23. ^ 「きらめく映像ビジネス」141~142P 純丘曜彰著 集英社新書
  24. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」224~225P 増淵健 著 
  25. ^ 「愛と希望の街」(60分)
  26. ^ 「二階の他人」56分 1961年12月15日公開。
  27. ^ 山田洋次は後に「SPと称したやつで、一種のテストを兼ねていた」と語っている。
  28. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」225~229P 増淵健 著 
  29. ^ 1954年1月21日 公開。この時だけ「忍術猿飛佐助」「忍術霧隠才蔵」「忍術腕くらべ」の三部作を一挙上映であった。
  30. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」229~233P 増淵健 著 
  31. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」234~235P 増淵健 著 
  32. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」237~238P 増淵健 著 
  33. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」239~249P 増淵健 著 
  34. ^ 「B級映画~フィルムの裏まで~」248~252P 増淵健 著 

出典[編集]

  • 「ハリウッド映画講義」 蓮實重彦 著 筑摩書房  1993年9月発行 
  • 「B級映画~フィルムの裏まで~」増淵健 著 平凡社  1986年8月発行
  • 「きらめく映像ビジネス」 純丘曜彰著 集英社新書  2004年9月発行
  • 「フィルム・スタディーズ事典」 スティーヴ・ブランドフォード、ハリー・キース・グラント、ジム・ヒリアー共著 杉野健太郎 中村裕英 監修・訳 フィルムアート社 2004年7月発行
  • 「世界映画事典」岩本憲児ほか監修 岩本憲児 奥村賢 佐崎順昭 宮澤誠一 編集 (株)日本図書センター 2008年6月発行

関連項目[編集]