B級映画

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B級映画の代表例とされる、エド・ウッド監督の『プラン9・フロム・アウタースペース』(1959)

B級映画(ビーきゅうえいが)とは、短期間撮影の低予算で製作された映画のことである。そのため、単に質の悪い映画を指すことも多い。ただし、B級映画の定義は非常に曖昧であり、人によってはその解釈が異なる。

概要[編集]

B級映画のB級は、専らランクを指し示すものとして使われる。B級映画よりも質の良いものを「A級映画」、さらに質の悪いものを「C級映画」、出来の悪さにつれてD級やZ級という言い方もする場合がある。A級映画に関しては、低予算のB級映画に対して、破格の予算で作られた大作映画を指すこともある。A級映画やC級映画などの呼び方は、あくまでB級映画ありきであり、使用頻度もB級映画には及ばない。また、B級映画の多くが娯楽作品であり、あまり深く考えず気楽に見られる映画という面も持つ。映画監督クエンティン・タランティーノに代表される「B級映画自体が好き」という映画ファンが存在する。

予算はB級映画並みだが高い評価を得たり、あるいは大ヒットして、続編が超大作映画となってシリーズ化するケースもある。『ターミネーターシリーズ』がその典型的な例で、第1作『ターミネーター』では制作費が600万ドルだったのに対し、第3作『ターミネーター3』で制作費は1億6千万ドルに跳ね上がっている。同時に、シリーズを追うごとに主演のアーノルド・シュワルツェネッガーのギャラも高額になっていった。 ほかにも、「007シリーズ」第1作『ドクター・ノオ』が低予算映画にも関わらずヒットしたため、第2作『ロシアより愛をこめて』、第3作『ゴールドフィンガー』と進むにつれて制作費も大幅に多くなり、豪華なアクション大作シリーズへと成長、世界的に大ヒットした。

スティーヴン・スピルバーグ監督作品の激突!ジョーズも低予算故の撮影方法が功を奏した典型的な例の一つである。これらは映画史に残る高い評価を得たためB級映画とはみなされない。

早撮り低予算[編集]

B級映画の撮影期間は2週間程度ものが多く、数ヶ月をかける大作映画、1ヵ月程度をかけるプログラムピクチャーの1ヶ月前後をも下回るケースが多い。上映時間も短めである。低予算と言われるB級映画の予算は、もちろん作品によって異なり、日本でも1億円前後から数百万円までの幅がある。低予算がゆえに、超大作映画のように全世界で何億ドル稼ぎ出す作品はまずないが、低予算ながらも、7000ドルで制作された『エル・マリアッチ』や、30000ドルで制作された『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』など興行的に大ヒット作となった作品もある。

B級映画のなりたち[編集]

1920年代後半、トーキー映画の登場により、映画会社がこぞって撮影所の拡充をしていく中、ウイリアム・フォックス社(後の20世紀フォックス)も撮影所を新築した。以前使われていた旧撮影所は、『B撮影所』と名づけられ、前座用低予算映画が撮影されるようになった。この『B撮影所』で撮られた映画ということから、前座用低予算映画のことを「B映画(B-Pictures)」と呼ぶようになった。さらに、他の映画会社でもB映画の名称は浸透していき、それが後に「B級映画」へ転じていった。

元来の「B級映画」は、1932年から1947年アメリカ合衆国で作られた短期間撮影の低予算映画のことだった。当時のアメリカでは、映画は2本立て公開されており、その1本目に前座として低予算映画が上映されていた。1950年代から映画がカラーになるとともに、次第に二本立て興行が減っていき、現在、前座公開する映画は無くなり、そういった意味でのB級映画は製作されてはいない。

映画の二本立て興行は廃れていったものの、早撮り低予算の映画は作られ続けており、これが現代におけるB級映画と言える。低予算がゆえに新しい俳優や監督を起用することになり、それが映画界の人材を育てる環境にもなっている。後にアメリカ合衆国大統領となったロナルド・レーガンもB級映画出身の俳優であったし、他にもジャック・ニコルソンロバート・デ・ニーロなど多くの名優や名監督を輩出している。そんな中でもB級映画をひたすら撮り続けている「B級映画の帝王」と呼ばれるロジャー・コーマンは、映画界に多大な影響を与えており、彼の下で映画を学んだ映画関係者は数多い。しかし、コーマン本人は「B級映画の帝王」と呼ばれる事を好んでいない。その理由は彼本人の「B級映画」の定義は前述してある二本立て映画の前座低予算映画であり、彼が作っている作品はそれとは違うエクスプロイテーション映画や前座ではない単独の低予算映画であるからだと説明している。

スプラッシュ[編集]

日本映画では、B級映画に相当する概念としてスプラッシュという似た概念は存在していた。1980年代まで、日本映画は同じフィルムがあちこちの映画館を巡回する公開方式がとられていた。ある町である映画が数週間上映されると、同じフィルムが別の都市の劇場に送られ、また上映される。最初に上映する館を封切館と呼んだ。この方式だと、封切館のある大都市では真っ先によい状態のフィルムで映画を見ることができるが、地方都市では遅れた上に状態のよくないフィルムを同じ料金で見させられることになる。それでは劇場主や観客が納得しなかった。そこで、遅れて上映される劇場には、別に若干短い映画をつけて上映するようになった。この後付の映画はスプラッシュと呼ばれた。そういった背景もあって、スプラッシュは主に地方都市で上映され、大都市ではほとんど上映されなかった。ただし、東京にはスプラッシュのみをかけるスプラッシュ専門館があった時代もある。スプラッシュには通常、米国のB級映画が当てられたが、邦画に洋画の2本立てでは観客が納得しないことが多かったため、スプラッシュ専用の映画(主にプログラムピクチャー)が作られるようになった。なお、2本立て興業のどちらかがスプラッシュであるとは限らない。日本のスプラッシュは、米国のB級映画と同じように、低予算、短期間で撮影されたが、若くて無名なスタッフや俳優が名をあげるためのよい場所にもなった。

1980年代後半以降、フィルムは上映館すべての分を一度に製造し、全国一斉同時公開することが一般的となった。このため、スプラッシュもほとんど製作されなくなった。さらに、『スプラッシュ』という邦題の映画が実際につくられたため、映画用語としては用いられなくなった。[要出典]

関連項目[編集]