信玄堤

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信玄堤(2010年6月撮影)

信玄堤(しんげんつつみ)は、山梨県甲斐市(旧竜王町)にある堤防である。霞堤(かすみてい)。戦国時代に甲斐の守護、戦国大名である武田信玄(晴信)により築かれたとされる。史料上では「竜王川除場」と記されており、「信玄堤」の呼称は江戸時代後期から見られ、近代以降に一般化した。また、霞堤をはじめ「信玄堤」と呼ばれる堤防は武田氏以降のものを含め県内各地にも存在する(『甲斐国志』に拠る)。竜王堤。

目次

[編集] 釜無・御勅使川と信玄堤の築造

信玄堤(竜王堤)付近の空中写真。写真上方より下方に流れる釜無川左岸(画像右側)に帯状に見える緑地が堤防部分である。また、竜王河原宿(画像右上)の短冊型地割も航空写真から分かる。(1975年撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を元に作成。

内陸部の山間地域である甲斐国は、平野部である甲府盆地を有するが盆地底部は笛吹川釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、縄文時代に定住がはじまり中世には開発が進むものの、安定した定住は困難であった。

特に釜無川は支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、御勅使川治水、信玄堤の築造までは両河川とも盛んに流路を変更し、現在の甲府市域に至る東流路は甲府へも水害を及ぼした。

甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府甲府市)に居館を移し武田城下町の整備を行う。天文11年(1542年)6月に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。川除工事の開始時期は不明であるが、『明治以前日本土木史』では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされているが、川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間であることから、着工時期をそこまでに遡るとする説もある。

『国志』に拠れば、はじめ植林などを行われていたが、御勅使川釜無川との合流地点である竜王の高岩(竜王鼻)に堤防を築いて御勅使川の流路を北へ移し、釜無川流路を南に制御が試みられたという。工事は20年以上にわたり、永禄3年(1560年)8月2日の武田信玄印判状(『保坂家文書』)に拠れば、堤防管理のため棟別役を免除される代わり川除への集団移住(竜王河原宿)が促されており、一応の完成をみたと考えられている。堤防築造と御勅使川治水により洪水被害は緩和され、盆地西部や竜王では江戸時代初期に用水路が開削され新田開発が進み、安定した生産力が確保されたと考えられている。

文禄5年(1596年)の甲府城代浅野幸長家臣浅野吉明(平右衛門尉)の書状[1]に拠れば竜王堤の普請は続けられており、江戸時代にかけて中巨摩郡昭和町中央市(旧田富町)方面へ部分的に延長された。平成6年(1994年)に行われた昭和町河西の発掘調査に拠れば、堤防は河原の砂礫層に杭列が施されたもので、内側へ突出した「石積出し」の痕跡も見られる。新旧の差が見られ、修復が繰り返されていたと考えられている。

[編集] 竜王河原宿と御幸祭

竜王河原宿は堤防の日常的な管理補修や水害発生時における堤防防備の労働力確保のため設置された宿で、赤坂台地の南縁に位置する釜無川旧河川敷の一角に位置する。現在の甲斐市竜王字東裏・西裏地区にあたり、短冊型地割が見られる。初見史料は永禄3年(1560年)武田家印判状であるが、この段階で棟別役一切免除の特権を条件に移住者の募集が募られ、移住者が郷村別に列挙され「竜王村」の地名が記されている永禄8年(1565年)4月晦日文書の段階までに整備が行われていたと考えられている。

釜無川

永禄8年文書に拠れば移住者は主に現在の甲斐市域(旧竜王町域)や南アルプス市域など近辺から集まっているが、特に宿に近い八幡之郷や西山郷(ともに旧竜王町域)が多く、屋敷請人として名前が記されている有力土豪の一族や配下が移住者となっていたと考えられている。また、永禄8年文書では当初の条件であった棟別役免除の縮小が記されており、以後も諸役免除は徐々に縮小されている。

また、古来から水難場では堤防の安全を記念する川除祭礼が行われているが、『国志』巻58神社部に拠れば竜王河原宿には甲斐国一宮浅間神社、二宮美和神社(ともに笛吹市)、三宮玉諸神社(甲府市)が勧請されて三社神社が設置されており、現在に至るまで御幸祭(大御幸、三社御幸、おみゆきさん)が行われている。

川除祭礼自体の起源は諸国一宮制の確立した平安時代にまで遡ると考えられているが、竜王川除場に至る御幸祭の初見は弘治3年(1557年)文書(「弘治3年12月2日付武田晴信判物」)で、美和神社の「二宮祭礼帳」にも記述が見られる。御幸祭は4月第二亥日の夏御幸と11月第二亥日の冬御幸が行われており、各社から川除祭礼を行いつつ御輿が御幸道を経て竜王へ向けて行進し、川除場に達すると神主が水神に対して水防祈念を行い、御輿の担ぎ手が一斉に河原へ向かって小石を投げて神事は完了する。県内では山梨市の窪八幡神社秋祭においても同様の祭礼である「おかわよけ」が行われている。

『国志』に拠れば近世には甲府の一蓮寺において甲府勤番に御札を献上して青銅の奉納を受け、上石田(甲府市)の三社諏訪神社を経ている。上石田三社神社も同様に三社祭神が勧請された神社で、現在でも冬御幸は上石田三社神社までであることから上石田までの渡御が古来の形態で、御勅使川治水・信玄堤築造による開発で竜王川除場までの渡御に発展したと考えられている。また、上石田への渡御は荒川の水防祈願とも関係していると考えられている。

御幸祭に関しては若尾謹之助、野沢昌康、斎藤典男らによる道筋研究があり、武田氏研究では平山優が戦国期の祭礼について考察している。

[編集] 研究史と近年の研究

雁行(がんこう)とよばれる霞堤(かすみてい)(不連続に設けられた堤防)が設けられ、ケヤキなどの樹木が植えられた

信玄堤は『国志』以来、武田信玄関係の評伝や山梨県の自治体史等において信玄期に主導された代表的治績と位置づけられてきた。戦後に本格化した実証的武田氏研究においては柴辻俊六らの研究者もこの見解を支持している。一方で、信玄期の関与を示す直接的な史料は無いことから、笹本正治など信玄の関与を疑問視する意見も見られる。近年では、南アルプス市域の開発に際して御勅使川旧河道に関する考古学的調査が行われ、シンポジウム『信玄堤の再評価』において報告された。

同シンポジウムでは御勅使川の現流路(掘切流路)は短期間に形成されたものであるが自然開削であった可能性が示され、堤防工事が自然作用による流路変更を固定化したものであるとする説も提唱されている(今福利恵「御勅使川流路の変遷と地域の諸相」『信玄堤の再評価』)。これを踏まえて文献史学の立場からは、信玄の治績であるとする立場は維持しつつ、堤防工事は大名権力による川除衆らの技術者集団や労働力が動員され、河原宿設置や用水路開削など一定の計画性により行われたものであると評価する意見が見られる(平山優「中近世移行期甲斐における治水の発展」『信玄堤の再評価』)。

[編集] 絵図

竜王信玄堤や将棋頭、石積出などの堤防の構造物を描いた絵図類は江戸時代から出現する。

文政12年(1829年)8月作成の「信玄堤絵図」(山梨県立博物館所蔵)は原図が貞享5年(1688年)6月に作成された写で、法量は縦79.1センチ・メートル、横263.6センチ・メートル。原図は貞享5年に龍王村・竜王新町の名主・長百姓により作成され、文政12年に富竹新田の保坂家により写が作成された。画面左右が南北となり釜無川・竜王信玄堤と竜王村の集落、用水路が俯瞰で描かれており、堤防や石積出、三社神社の存在が確認され、道は朱線で描かれている。「御本丸様書上」によれば貞享5年に竜王村では甲府藩に対して戦国期以来の特権継続を願い出ており、本図は村の由緒を記した書上に添付された絵図であると考えられている。

文政7年(1824年)作成の「信玄堤絵図」(保坂家文書、甲斐市指定文化財)は富竹新田の保坂家により作成された絵図で、法量は縦41.1センチ・メートル、横108.6センチ・メートル。江戸後期段階の信玄堤の構造が描かれ、貞享5年図と比較すると竜王村の集落や用水路等が省略され、竜王信玄堤と水門や蛇籠のみが描かれ、純粋に信玄堤の構造のみを描く意図であったと考えられている。また、貞享5年図と比較すると廃止された取水口や新規に設置された水門の存在など構造の変遷が見られることから、往古の姿を記録する目的で作成されたものであると考えられている。

この他にも信玄堤を描いた絵図や村絵図なども存在している。

[編集] 脚注

  1. ^ 山梨県立博物館寄託今沢家文書「文禄5年閏7月25日付浅野吉明書状」

[編集] 参考文献

  • 『信玄堤の再評価』「信玄堤の再評価」実行委員会編、2004
  • 『信玄堤研究の新展開-甲斐の治水・利水と景観の変化-』山梨県立博物館、2010
  • 畑大介「信玄堤」『山梨県史通史編2中世』
  • 数野雅彦「竜王河原宿の成立」『山梨県史通史編2中世』
  • 平山優「村の祭礼」『山梨県史通史編2中世』
  • 「治水の進展と甲州流治水術」『山梨県史通史編3近世1』第七章第一節三
  • 柴辻俊六「戦国期の築堤事業と河原宿の成立」『戦国大名領の研究』
  • 安達満「釜無川治水の発展過程」『甲斐路』30号
  • 川﨑剛「釜無川の流路変更について『武田氏研究』13号、1994
  • 平山優「戦国期における川除普請の技術と人足動員に関する一考察-甲斐国を事例として-」『武田氏研究』第31号、2005
  • 堀内真「御幸祭について」『山梨県史研究』第5号、1999

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