八王子空襲

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1945年7月31日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲予告の伝単。右上に「八王子」の文字が書かれている。
空襲を行ったB-29爆撃機

八王子空襲(はちおうじくうしゅう)は、1945年8月2日アメリカ軍東京都八王子市と周辺の町村に対して行った空襲八王子大空襲とも呼ばれる[1]

空襲理由[編集]

  • 1945年8月2日まで八王子市は大規模な空襲を受けていなかった
  • 八王子市街の中心に位置する八王子駅中央線横浜線八高線が通っておりアメリカからは東日本における鉄道の重要都市と位置づけていた
  • 軍需工場の労働者の住居や疎開してきた人が多かった事が空襲の理由となった。

しかし、浅川地下工場(浅川地下壕)など軍事施設については把握しておらず、軍事上・経済上の重要度は低かった。

空襲の以前[編集]

空襲の経過[編集]

空襲後の八王子市街
  • 8月1日の20時20分に警戒警報、20時55分に空襲警報が発令された[5]もののB-29はいっこうに現れず、また午後10時ごろから川崎などが爆撃されているとの情報などが23時頃に入り、市民は八王子に空襲はないと勝手に警戒を解いていた。8月2日の午前0時ごろ、米軍機は伊豆半島から丹沢山を経て八王子に侵入した。その後B-29爆撃機169機が来襲した。
  • 先行する爆撃機が0時45分から目標を照らすためM47焼夷弾を投下し、0時48分に主力部隊がM17集束焼夷弾を投下した[6]。2時間にわたって爆撃され市街域の3.6 km²のうち2.9 km²が焼失した。2時間で1600トンの焼夷弾が投下され日本本土空襲では3番目の投下量となった。また市民一人当たりの投下量は10個となった。
  • 空襲が予告されたため都内中から消防隊が結集されたが故障車や空襲中に到着した消防車が多かった。市街中心部に水利が少なく消防の能力を超えた火災であった。また応援に駆けつけた消防隊員は地理に暗かったこともあり7名の殉職者を出す結果となった[6]

空襲の被害[編集]

慰霊[編集]

戦災殉難者は台町にある1965年昭和40年)10月に建立された富士森公園内の慰霊塔に265人[8]が合祀されている[9]

備考[編集]

この日と同じ頃、長岡市(長岡空襲)、富山市富山大空襲)、水戸市でも空襲があった。また、前日には米軍によって八王子や前述の都市[10]などへの空襲を予告するビラが日本全国に投下された(ページ冒頭の写真を参照)。

脚注[編集]

  1. ^ 八王子空襲を記録する会の著書『盆地は火の海―八王子大空襲体験記録』全3巻等
  2. ^ 由木村にも空襲被害があった!下柚木町会
  3. ^ 相即寺 (浄土宗)東京都八王子市”. 2011年7月25日閲覧。
  4. ^ 命の尊さと平和を訴え「ランドセル地蔵」上演”. 品川区. 2011年7月25日閲覧。
  5. ^ 『八王子の空襲と戦災の記録(資料)』 八王子市教育委員会、1985年
  6. ^ a b 『八王子の空襲と戦災の記録(総説)』 八王子市教育委員会、1985年
  7. ^ 資料によって異なり消防庁調査による『東京戦災誌』では死者60人、負傷者78人、昭和60年八王子市郷土資料館編集の『八王子の空襲と戦災の記録』では473人となっている。ここでは一番発行が新しい八王子市教育委員会編集の『八王子空襲』の人数としている。
  8. ^ 小林ひろゆき 市議会一般質問
  9. ^ 八王子辞典の会 『八王子辞典』 かたくら書店2001年ISBN 4-906237-78-9
  10. ^ 尚、このうち「長岡」という文字は無いが、これは上の写真の「高岡」と誤記されているものである可能性がある。

参考文献[編集]

  • 『八王子空襲』 八王子市教育委員会、2005年
  • 『八王子の空襲と戦災の記録(総説)』 八王子市教育委員会、1985年
  • 『八王子の空襲と戦災の記録(資料)』 八王子市教育委員会、1985年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]