樫出勇

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樫出 勇
Kashiide.jpg
生誕 1915年2月
新潟県 刈羽郡北条村
死没 1994年
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1934 - 1945
最終階級 陸軍大尉
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樫出 勇(かしいで いさむ、1915年2月 - 1994年)は、陸軍軍人戦闘機操縦者。最終階級は陸軍大尉新潟県刈羽郡北条村(現柏崎市)出身。ノモンハン事件および太平洋戦争末期の本土防空戦において活躍し、B-29爆撃機に対する通算最多撃墜記録を有する。

経歴[編集]

ノモンハン航空戦 [編集]

日本陸軍とソ連空軍の間に起こったノモンハン航空戦に樫出は参戦しており、5機以上を撃墜する戦果を挙げた。20機以上を撃墜したノモンハンエースは23名おり、その中で篠原弘道准尉、井上重俊大尉、西原吾郎軍曹、3名は九七式戦闘機を駆り戦った撃墜王として有名である。篠原弘道准尉は戦死したが、3ヶ月で58機を撃墜した。

本土防空戦のB-29撃墜王 [編集]

屠龍部隊[編集]

二式複座戦闘機(愛称「屠龍」)を駆り、1944年(昭和19年)6月16日のB-29による初来襲(八幡空襲)の空戦から終戦までに樫出は北九州に来襲したB-29を26機撃墜したとされる(日本側発表のみによる)。当初は二式複座戦闘機には「屠龍」という愛称は冠されていなかったが、北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、樫出が所属していた小月飛行第4戦隊(複戦)と芦屋飛行第13戦隊を「屠龍部隊」と皆が呼ぶようになり、この名が定着した。また彼らには被撃墜時には必ず敵機を道づれとする信念があったという。

樫出とともに戦った搭乗員の活躍も目覚ましかったとされ、日本側の記録によれば1945年(昭和20年)3月の時点で樫出中尉、木村准尉ともにB-29を18機撃墜、西尾准尉が11機撃墜、藤本軍曹が6機撃墜、佐々大尉、河野軍曹ともに3~4機撃墜、小川中尉、鈴木少尉、馬場曹長、内田曹長、西村軍曹、岩井伍長、辻伍長、横田伍長、筒井伍長ら2機撃墜、4機撃破というものであった。木村少尉は1945年7月14日に戦死してしまったが、樫出は木村少尉のことを自分を上回る技量の持ち主であると評価しており、(B-29撃墜数22機とされる)木村少尉が生きていれば自分を越す撃墜数を挙げていたと語っている。もっとも1945年春からP-51D等の戦闘機が随伴するようになってからは日本の戦闘機による邀撃はほぼ無力化しており、以降目立つ戦果は上げていない。

戦果[編集]

1944年(昭和19年)8月20日、2度目のB-29大挙来襲に対する邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち23機撃墜を報じた。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。一方、アメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失(損耗率23%。交戦以外による損失を含む)で、そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、対空砲火による損失が1機としており、逆に日本機17機撃墜を報じている[1]。仮に日本側の記録が事実とすればこの邀撃戦は来襲機の28%を撃墜したことになり、ヨーロッパ戦線でも例を見ない(従来の記録は来襲機の10~15%撃墜)大戦果となる。

脚注[編集]

  1. ^ COMBAT CHRONOLOGY OF THE US ARMY AIR FORCES

参考文献[編集]

  • 樫出 勇『B29撃墜記 夜戦「屠龍」撃墜王樫出勇空戦記録』(光人社NF文庫、2005年新装版) ISBN 4-7698-2203-0
    • 潮書房『丸』平成9年(1997年)7月号~平成10年(1998年)2月号に連載された「私は「B-29」26機撃墜した!」の文庫本。