虎徹

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虎徹(こてつ、慶長元年(1596年)? - 延宝6年(1678年)?)は、江戸時代の刀工。同人が作った刀剣の名でもある。「虎徹」とは甲冑師・長曽禰興里(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつである。

概要[編集]

虎徹の作刀は地鉄が緻密で明るく冴え、鑑賞面にも優れ、切れ味鋭い名刀として名高い。別名、興里、長曽禰興里、長曽禰虎徹、乕徹ともいう。通常虎徹といえば、この興里を指す。なお、興里は甲冑師であったため刀剣の他にも籠手などの遺作もある。50歳を超えてから刀工に転じ、老いるほどに輝きを増した異色の刀工である。

虎徹の作刀には国の重要文化財に指定された刀をはじめ、文化財に指定されているものが多い。また、土佐山内氏尾張徳川家奥平氏伝来の品、江戸幕府大老井伊直弼の差料であった脇差などを見ても分かるように、大名などの上流階級が所蔵する品であった。人気が高く、江戸後期には世間一般的に言う大名道具、大名差しといわれる代物となっていた。その人気ゆえに、刀剣業界には「虎徹を見たら偽物と思え」という鉄則があるように、虎徹は贋作が非常に多いことで有名であり、在銘品(虎徹と銘のある品)のほぼ100%が偽物とさえ言える。

「虎徹」の表記について[編集]

「虎徹」とは甲冑師・長曽禰興里(ながそねおきさと)の刀工時代の入道名のひとつである。「虎徹」の方が「興里」に比べて定着していることを考えると間違いとは言い切れないが、厳密にいえば入道名を呼び名とするのは正しくない。刀工名としては興里、あるいは長曽禰興里と表記することが最も望ましく、刀剣書などでは興里と表記することも多い。

本工の銘字は「虎」の異体字である「乕」を用いて「乕徹」とも書き、「虎徹」に比べ「乕徹」と名乗った期間が長いこと、「乕徹」銘の方が後期作であること、刀剣書などでは「乕徹」と表記されることも多いことを考えると、「虎徹」よりは「乕徹」とするほうが妥当とも考えられるが、本項では銘字の引用部分を除いては常用漢字を用いて「虎徹」と記す。

「ながそね」は長曽根、長曾根、長曽禰、長曾禰などと表記されることも多く、虎徹も他の長曽禰一族も「長曽祢」と銘しているため「長曽祢」が正しいという考えもあるが、本項では銘字の引用部分を除いては印刷標準字体を用いて「長曽禰」と表記する。なお、長曽弥、長曾弥と表記される場合もあるが「禰(祢)」と「弥」は別字であり、これは完全な誤りである。「虎鉄」と表記されることも少なくないが、「虎鉄」という架空の刀剣類、刀工等を指し示す場合を除けば誤りである。

長曽禰一族[編集]

長曽禰の一族は近江にルーツを持つ、主に甲冑などを作る鍛冶集団であった。室町時代から記録が散見されるが、江戸中期以降は優れた者がいなかったためか、長曽禰の名を冠する者はいないと言う。日光東照宮に長曽禰一族が作った金具があることから、東照宮建立当時はそれなりの知名度があったとされる。一門には、長曽禰才一、長曽禰興寛、長曽禰三右衛門利光、長曽禰播一山、長曽禰助七などがおり、興里もその一人である。また一説には、門人の興正は興里の甲冑師時代からの助手であったと言う。

甲冑師であった長曽禰興里が江戸に移住後刀鍛冶に転職し一門を旗揚げする。開祖長曽禰興里をはじめ、二代目長曽禰興正、興久、興直。また、大坂に長曽禰長広なる刀鍛冶がいるが、銘ぶり、作風の点から言って直接的な関係はなさそうであるが、血統的な繋がりはあるかもしれない。

虎徹の生い立ち[編集]

虎徹は石田三成佐和山城下(滋賀県彦根市)生まれ[1]。幼少期に関ヶ原の戦いがあり、佐和山城が落城したため福井から金沢に逃れた。金沢では甲冑の名工として知られた。太平の世となって甲冑の需要が減ったためと思われ、江戸に移って刀鍛冶に商売替えしたのは50歳を超えてからである。兜や古釘など、古い鉄を溶かして刀を作り[2]、その古鉄の処理に関する自信からかはじめは古鉄入道と名乗っていたが、その後中国の故事により、虎徹と改める[3]。虎徹は歳とともに急激な成長を遂げ、寛文の終わり頃から延宝の始めが絶頂期であった。作刀上の師は諸説あるが和泉守兼重とされる。没年については定かではないが、「乕徹の研究」では延宝6年(1678年)6月24日に没したとされる[4]

作刀期間[編集]

虎徹の作刀期間は、年紀から考えて明暦2年(1656年)に始まり延宝5年(1677年)に終わったものと思われ、およそ20年にわたり刀剣を製作している。名甲図鑑続輯(めいこうずかんぞくしゅう)には、「明暦元年乙未八月長曽祢奥里於武州江戸作之」と銘のある兜が掲載されている。翌2年3月の脇差が最初の年紀であるため、その間に刀鍛冶として独立したと思われる。ただし、刀鍛冶はわずか数ヶ月でなれるものではないため、作刀の修行をしながら兜などを作って生活を立てていたと考えるのが妥当であろう。また、延宝5年2月が最終年紀であり、通常2月と8月に年紀を切ることが多いため、同年8月までに作刀をやめたか、没したかのどちらかであると考えられる。

作刀場所:一説に近江で刀工になり後江戸に移るとされるが、上記のような「於武州江戸」などと銘のある兜があること、師匠とされる和泉守兼重が江戸にいることなどを考えると、近江での作刀は存在しないと思われる。江戸での作刀場所は初め本所割下水、晩年になり「住東叡山忍岡辺」とある刀剣が存在することから、上野東叡山寛永寺付近とされている。

虎徹の作風[編集]

反り極めて浅く、武骨な寛文新刀姿の作が多い。太平の世であったため薙刀等の需要に迫られず、ほぼ刀と脇差の製作に専念しており、短刀は極めて少ない[5]

  • 造り込み - 大刀と脇差が多い。稀に短刀を見る。初期には典型的な寛文新刀姿となり、反り極めて浅く切先小さく詰まり心となる。延宝頃の作刀は、姿優しくなり、反りが増し、切先伸び心となる。特別注文打ちと思われる脇差の中には、特に身幅が広く大切先になったもの(尾張徳川美術館蔵、尾張家特別注文)、冠落造りとなったものが見受けられる。脇差、短刀の中には刀身彫りが施されているものもある。
  • 地鉄 - 地鉄は鍛えが強く細かく、明るく冴え、地沸良くつく。相州伝、美濃伝を狙った作の中には、荒沸のつくものもある。指表のハバキ元に鍛えの流れた弱い肌がまま見受けられる。これは「虎徹のテコ鉄」と呼び、虎徹の特徴である。
  • 刃文 - 初期は瓢箪刃、後期は数珠刃と呼ばれる刃文を焼くことが多い。匂い口深く、明るく冴える(この二つの刃文を組み合わせたようなものもある)。また初期は美濃風、後期は南北朝時代の刀工郷義弘を狙ったような広直刃調の作風も多い。作刀の多くに、ハバキ元を短い直刃で焼き出す、「江戸焼き出し」を見る。横手下で湾れ、帽子(切先部分の刃文)は、ふくらにそって小丸に返るのを典型とする。火炎状に掃き掛けるものも見受けられる。横手付近で湾れ、くびれた様を「虎の顎」、或は「虎徹帽子」とも呼称される。
  • 彫り - 刀身彫りの名手で、冠落造りの脇差のハバキ元に大黒天等を彫る。下記「虎徹の彫刻」をご参照。
  • 銘 - 虎徹の銘は、ほっそりとして活字体のように整っており、偽銘が切りやすいとされる。しかし、詳細に見てみると線は細いが力強く、しかも浅く銘を切っていて清々しい印象があり、非常に微妙な力加減とバランスで成り立っている。そのため真に本物に迫るほどの銘を切ることは極めて困難と思われる。実際に贋作の銘に注目すると、古い時代の偽物は「興」という字のバランスが取れていないなど、稚雑な感じを受けるものも多い(ただし、鍛冶平直光などのように虎徹の銘を研究し、極めたような人物は別)。また写真技術が発達した現代はより精巧な偽銘を切ることができるようになった。
  • 銘の変遷 - 虎徹の銘は幾度となく切り方が変わっており、20年という短い作刀期間に数種類の銘がある。その理由のひとつには生前から贋作が出回ったことがあると言われている。甲冑師時代、刀工時代のごく初期は「興」という字を略し「奥」のような字になっており、これを「略おき」などと呼ぶ。またそのまま字を崩さずに切る「興」の字を「いおき」と呼ぶ。「興」の最後の画が平仮名の「い」のように見えることに由来する。また「興」の字の最後の画が片仮名の「ハ」、になるもの(寛文8年、同11年、12年、晩年に間々見る)を「ハおき」と呼ぶ。(「略おき」の場合も最後の画は「ハ」になる。」「虎」という字も、初期の「虎」は虎の尻尾が撥ねたようになることから「ハネとら」、後期の「虎」の俗字を用いた「乕」を「ハコとら」という。寛文11年、延宝2、3年には、初期の「ハネとら」銘とも違う「虎」の字で、「虎入道」という銘を切っており、これを「とら入道」と言って、「ハネとら」と区別する。一般的に「ハコとら」時代の刀剣のほうが出来が良いとされ、今日重要文化財に指定されているものは全て後期の作である。
  • 主な銘一覧 - 長曽祢奥里古鐵入道、長曽祢奥里作、長曽祢奥里虎徹入道、長曽祢虎徹入道興里、乕徹入道興里、長曽祢興里入道乕徹、長曽祢虎入道など。ただし、虎徹の銘はこの限りではない。また晩年には「住東叡山忍岡邊」と添銘するものもある(「略おき」の部分は便宜上「奥」と表記した)。

虎徹の斬れ味[編集]

虎徹は斬れ味が良いことで誠に有名であり、近藤勇などが欲しがったのも頷ける。師匠と目されている和泉守兼重と同様、試刀家の山野加右衛門、勘十郎親子が試し切りを行ったものが多く、人間の胴体を2つ重ねて斬った(貳ツ胴)、3つ重ねて切った(三ツ胴)などと金象嵌銘に記されている物が多々あり、4つ胴を切った刀(四ツ胴)が一振り現存(旧御物、現東京国立博物館蔵)する。懐宝剣尺、古今鍛冶備考などの刀剣書には、最上大業物に列せられており、一説には斬れ味においては全刀工一とあり、それを記した辞典も存在するが、世の中の刀工の作品を全て斬り試したわけでもないので、真偽のほどは不明であるが、最上大業物に上げられているので根拠がないわけではない。また、石灯籠を切った、兜を割ったなどとされる虎徹も残されており、斬れ味が良い上に相当の強度もあったようである。

刀剣の業物一覧では、最上大業物12工にランクインしている。

虎徹の彫刻[編集]

虎徹は元来甲冑師であるため、刀身彫刻の名手としても有名であり、同作彫りには「同作彫之」、「彫物同作」などとあり、虎徹の中でも非常に高価である。ただし「同作彫之」などとない場合は、後から第三者が彫ったものか、偽物である確率が高い。脇差には緻密な仁王像大黒天倶利伽羅などを彫ったものが存在するが、刀には濃厚な彫刻はかえって強度を落としてしまうため、濃厚な彫刻はあまり存在しない(簡単な彫りはある)と言う。虎徹は大黒天を好んで彫っており、大黒天を彫った刀剣が数点現存する。この大黒天は戦神でもあるが、むしろ福神として彫ったものであろうと言われている。彫刻の題材からは虎徹が諸仏、故事などの知識があったとされる、と言われるが、虎徹の由来等を考えると十分肯定できる。

虎徹の評価と時代の流れによる評価の変遷[編集]

虎徹の姿は一般的に反りが浅く見栄えが良いとは言えない。しかし鉄が明るく冴えたものが多く、武骨で地味ではあるが刀身にあふれる品格は極めて高いと評される。2万とも3万とも言われている日本の刀工の中でもその作刀技術はトップクラスに位置し、愛好家は多い。その作品は古今東西を問わず美術工芸品として第一級の評価がなされている。虎徹の刀は生前から高く評価され、需要の多い旗本や御家人をターゲットにした作風で一世を風靡した。また重要美術品に認定されている大黒天の彫りのある小脇差を見ても分かるように、豪商などからも需要があり、また大名などの上流階級からも需要があった。その他、明暦の大火で多くの刀剣が消失したことによって江戸での刀剣の需要が増したことも、虎徹の人気を押し上げた要因のひとつである。人気が跳ね上がり需要が追いつかなくなり、偽物が生きているうちから出回ったと言う。そして、延宝6年に虎徹が死去するとますます贋作が横行し、虎徹の死後100年経った時代の刀剣書には「虎徹は偽物だらけ」とまで書かれている。

江戸後期になると関西出身者で刀剣の目利きであった鎌田魚妙が、同郷の贔屓もあって関西系の津田助広などを絶賛したため、番付では津田助広井上真改堀川国広などが上位にきて、虎徹は8位であった。しかし、鎌田魚妙自身その著書の中で、「東国鍛冶数百家に並ぶべき者なき上工也」と記し、東国鍛冶の中では一番高く評価しているようである(ただし鎌田魚妙は大阪などの西国鍛冶が一番であると考えており、虎徹よりも助広の方を高い評価をしている)。虎徹より上位の刀工は全て関西系であるため、関東系の1位と言える。その後、水心子正秀により復古鍛錬法が提唱されてからは実用的な刀剣がもてはやされ、虎徹の刀は再び値が高騰した。一般的には、新刀の横綱と言われ、東の虎徹、西の助広(人によっては国広とする場合もある)と呼ばれ人気があり、その知名度も刀工の中で正宗と並ぶほどであるが、偽物の多さは人気と知名度に比例するため偽作限りなく多く、そうした需要に対して供給される作刀はあまりにも少なく、贋作が当然のごとく横行した。幕末の刀工で刀剣愛好家、贋作家の細田直光(後述の近藤勇の偽虎徹の銘を切った人物とされる)は、自分が今まで作った虎徹の偽銘を『虎徹押し型』という一冊の本にして出版したほどである。

戦前には犬養木堂も虎徹の刀を愛蔵しており、現在における虎徹の評価も幕末からの延長線上にあると言ってよい。

虎徹の偽物[編集]

上述のように虎徹の贋作は極めて多い。虎徹は偽物であることが前提条件といっても良い。これは刀屋、研磨師、愛刀家などの関係者には周知の事実・常識である。江戸時代の様々な刀剣書を見ると偽物が多いなどと書かれていることもある。乕徹大鑑、長曽祢乕徹新考などでは偽物の研究もされている。

虎徹の贋作は主に以下の種類に分類される。

  1. 作風が似た別の作者の刀から本来の銘を消し、新たに「虎徹」などと銘を切ったもの。
  2. 刀身が折れたりして使い物にならなくなった本物のを切り離し、新たに他の刀に接続したもの(『継ぎ茎』)。
  3. 経済的に困窮した刀匠などが偽造目的で刀身を新たに作り、「虎徹」などと銘を入れたもの。

この3つの中で最も多いのが1.であり、最も典型的なパターンとされる。

1.については、虎徹の作風さえ知っていればある程度看破することは可能である。実際の贋作の中には、作風がそれほど虎徹に似ていない刀も多い。ただし、中には作風が似ているという極めて理不尽な理由から法城寺正弘大和守安定などの名工、長曽禰興正源清麿などの巨匠の刀が虎徹の贋作に転じたものもあると言われており、かなりの注意が必要である。また、上述のように虎徹の銘は微妙なバランスで成り立っており、銘が上手く切れていない偽物も多いため、本物の銘を知っていれば簡単に看破できるものも多い。いずれにしろ元あった銘を消して新たに銘を切る場合は茎についたがその部分だけ落ちることになり、汚しをかけて自然に見えるような細工を施すが、自然の錆と人工的な錆は全く違うので看破は容易である。茎が不自然に汚れていたら偽銘の可能性がある。いずれにしろ刀身や銘、茎の特徴、錆具合に少しでも不自然なところがあれば、贋作である可能性が高い。

2.は、接続部分に不自然なところがあるため、そこを仔細に観察することによって看破は可能。刀身と茎のバランスがどこか整っていなかったりする。現在では溶接技術を使い接続する。

3.は、ある程度本物に似せる作風を作ることができる。しかし、名工や巨匠の作風はそう簡単にまねできる物ではない。したがってどこか違っていたりする。いずれにしろ本物の作風を良く知っておくことが肝心である。また、結局は偽銘を切るため、茎の錆具合、銘などを仔細に観察すること。

虎徹の偽銘 
贋作が多い長曽禰虎徹の唯一の救いは、銘が長いことである。作刀のほとんどが9字という比較的長い銘に切っているため、いずれかに不具合が出やすい。例えば「虎」と言う字を上手く切ることができても「興」と言う字を失敗していれば贋作と見抜くことができる。特に注目すべき字は「長」、「虎(乕)」、「興」そして全体的な銘のバランスである。江戸時代は、本物や本物の押し型を横に置いて偽銘を切ったとされ、どこかぎこちない物が多く、本物の「虎(ハネとら)」は躍動感にあふれているが、偽物は鏨が止まり生き生きしていない代物が多い。また、贋作者からみた最大の難関は「興」である。「ハおき」を除き「興」と言う字は画数も多く、バランスが大変とりにくい。したがって古い時代のほとんどが本物の「興」の字と比べると全く違う。また、銘のメリハリ、線の太さも良く観察すること。現在の精巧な偽物でも極めて似せることが出来るが、どこか単調なところも多い。
鑑定書付きのもの
鑑定書付きの物でも注意が必要である。明治時代には、鑑定家が食うに困って適当に鑑定書を書いたと言う。また現在の日本美術刀剣保存協会等発行の認定書、鑑定書も偽造されているものがあるという。また、本物に付けられていた鑑定書を偽物に付けて、本物の虎徹として売る場合もある。したがって、いくら鑑定書の類が付いていても最初から鵜呑みにするのはよくない。刀に何か一つでも不自然なところがあれば、鑑定書付きの物でも贋作の可能性ありと考えること。鑑定書自体にも本物と偽物の「違い」があることがあり、本物の鑑定書の特徴を覚えておくこともひとつの手段である。また状況を逆手に取り鑑定書が偽物ならば必然的に刀も偽物ということも言える。いずれの種類の贋作にしろ、落ち着いてよく考えることが大切である。本物とする根拠は何か。それはどこにあるのか。根拠のない虎徹に本物などありはしない。などと否定的な視点で見ることが最も肝心である。

近藤勇の虎徹[編集]

新選組局長・近藤勇は虎徹の持ち主として一般に有名であり、講談などでの近藤の決め台詞として「今宵の虎徹は血に餓えている」が広く知られている。どのようにして手に入れたかについては諸説ある。

実際には近藤の虎徹は、当時名工として名を馳せていた源清麿の打った刀に偽銘を施したものとする説もあり、現在ではこちらの説のほうが強い[6]。近藤自身は所有の刀を虎徹と信じており、池田屋事件の後に養父宛てにしたためた手紙の中に「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。

他に将軍家から拝領した長曾祢虎徹興正の作であったとする説や、虎徹の養子である二代目虎徹の刀であった説などがあり、子母沢寛の『新撰組始末記』では「江戸で買い求めた」「鴻池善右衛門に貰った」「斎藤一が掘り出した」の三説を挙げている。

司馬遼太郎の小説『新撰組血風録』の中では、上記の子母沢寛の3つの説全てを取っており、近藤は3本の虎徹を所有していたとしている。つまり、江戸で買ったのが偽虎徹であり、鴻池からもらったものと斎藤が掘り出した真の虎徹が計2本、近藤が常用したのは偽虎徹となっている。水木しげるは近藤の伝記漫画『近藤勇 星をつかみそこねる男』の中で、「本物の虎徹だと信じ込んでいたからよく切れたのだ」という解釈を述べている。

指定文化財[編集]

国の重要文化財に指定されている現存刀は以下のとおりである。

  • 刀 銘住東叡山忍岡邊長曽祢虎入道 寛文拾一年二月吉祥日(京都・財団法人高津古文化会館)
  • 刀 銘長曽祢興里入道虎徹(和歌山・紀州東照宮
  • 刀 銘長曽祢興里入道乕徹(個人蔵)1949年指定
  • 刀 銘長曽祢興里入道乕徹(個人蔵)1952年指定
  • 刀 銘長曽祢興里乕徹(個人蔵)1959年指定

脚注[編集]

  1. ^ 虎徹の出生については諸説あり、慶長元年(1596年)近江の生まれであるとする説(上記)、慶長10年(1605年)頃越前の生まれなど、近江か越前かいずれかであろうが定かではない。近江の郷土史や刀剣書では近江出身説が取り上げられている。しかし、本人の作刀に「本国越前住人至半百居住尓武州之江戸尽鍛冶之工精」とあり、そのことで越前出身であるとする刀剣書も多い。ただし、ここで言う「本国」とは、生まれた国を指すのかそれとも本籍のある国を指すのか、解釈により意見が分かれる。またこの作刀の「半百~」の解釈は、虎徹が半百(50歳)くらい江戸に出てきた、あるいは50歳くらいになって刀鍛冶になった、これが製作された寛文3年(1663年)頃に50歳くらいだったなど、いつ生まれたのかも人により解釈が異なる。本項では近江出身説を採用した。
  2. ^ 古い鉄を使用すると鑑賞性が上がり、切れ味良くなり、強度も上がると言われており、虎徹は鍛錬方法をかなり工夫したと考えられる。その一つがテコ鉄である。
  3. ^ 古代中国、後漢の名将であり弓の達人だった李広の故事に「ある日草むらの中に虎を見つけ、とっさにそれを射て矢は見事に命中した。しかし近寄ってよく見てみるとそれは虎ではなく石であり、矢尻は石に見えないほど食い込んでいたという。すなわち一心不乱に努力すれば、一念によって石をも徹すことが出来る。」というものがある。これを知った古鉄は一念発起して名刀を作り出そうと決意し、「古鉄」から「虎徹」に銘字を改めたといわれている。
  4. ^ 虎徹の作刀に見る最終年紀は延宝5年2月(1677年)。刀剣に年紀を切る場合は大抵焼き入れの上手くいく2月、8月に切る場合が多いといわれ、虎徹もその例外ではない。したがって2月で終わっているということは、同年8月までに没したか、作刀をやめた可能性が極めて高い。ただし、8月までに没したという確証はないため、延宝6年に没したという説を採用した。
  5. ^ 虎徹とほぼ同時代の刀工にも同じことが言える。一説に大阪新刀の代表格である津田助広は、約25年の作刀期間の中で1700振り近くの刀剣を製作したとあるが、現時点で薙刀はたった2振りしか確認されていない。当時、刀以外にほとんど需要が無かったことがうかがえる。
  6. ^ ちなみに、清麿自身も稀代の名工と謳われた刀匠の一人であり、偽銘品ながら近藤の偽虎徹は本物に勝るとも劣らぬ切れ味を発揮したようである。

関連項目[編集]