大山倍達

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自宅の庭で巻き藁突きの稽古をする若き日の大山倍達

大山 倍達(おおやま ますたつ、1923年(大正12年)7月27日旧暦6月4日) - 1994年(平成6年)4月26日)は、男性武道家空手家であり、国際空手道連盟総裁・極真会館館長極真空手十段。別名:マス大山。韓国名は崔 永宜(さい・えいぎ、チェ・ヨンウィ、최 영의)。韓国の戸籍では1922年7月27日生まれとなっており、1923年生まれでは新暦と旧暦の誕生日が一致しないため、実際の生年は1922年と推定される。

1970年代週刊少年マガジンに連載された劇画空手バカ一代』でも、主人公として取り上げられた。

生涯[編集]

父・崔承玄と母・金芙蓉の6男 1女の第4子として朝鮮全羅北道金堤市で生まれた。1964年(昭和39年)日本国籍を取得/帰化している。一時期、崔猛虎・大山猛虎・大山虎雄・崔倍達などと名乗っていた。

幼少期は満州国朝鮮半島で育ち、16歳で日本一の軍人を志し、山梨県の山梨航空技術学校(現日本航空高等学校)に入学。きつい肉体労働でアルバイトをしながら学校へ通い、当時難関であった陸軍士官学校へ入学する為の受験勉強も少ない時間の中で行うという苦学生の身であった。1938年(昭和13年)9月に空手道松濤館流船越義珍に師事、その後松濤館流と剛柔流を主に学ぶ。

山梨少年航空技術学校卒業後に陸軍士官学校を受験するも失敗、挫折する。だが、当時拓殖大学学生であった木村政彦が、柔道界最高の栄誉であった天覧試合優勝を成し遂げた事に感動し、1941年春、同じ拓殖大学に入学したとされる。同大学では司政科に在籍したとされ、政治家を志す。石原莞爾主催の東亜連盟に参加する等の活動をするも、同年末に大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。在学中のまま少年兵として徴兵されるという大きな壁に直面し、政治家の志も挫折する。終戦前に海軍の「特攻隊」に志願したが終戦を迎えて出撃ができなかったという逸話もあるがそのような事実はなかった(これは「空手バカ一代」の話からだった)。

早稲田大学高等師範部体育科(のちの早稲田大学教育学部体育専修)中退[注釈 1]。終戦後は千葉を中心に民族運動に参加したとする説もある。また、「山篭り」で空手修行に励んだともいう。1946年(昭和21年)6月に俳優の藤巻潤の実の姉である智弥子と結婚。このときの媒酌人は田中清玄。4人の女の子(留壹琴・恵喜・美喜・喜久子)をもうける。

田園コロシアムで牛と戦う大山倍達。この戦いは後に『猛牛と戦う空手』という映画として公開された

1947年(昭和22年)に京都で開催された戦後初の空手道選手権で優勝[注釈 2]1952年(昭和27年)にプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米、1年間ほど滞在して全米各地で在米のプロレスラーグレート東郷の兄弟という設定(Mas. Togoのリングネーム)で空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラープロボクサーと対決したとされる。

帰国後大山は、を素手で倒し(合計47頭、うち4頭は即死)、その映像は映画『猛牛と戦う空手』1954年(昭和29年)として公開された。

多くの武道家と交流し、また世界各国を巡りさまざまな格闘技を研究、空手の指導を行い、直接打撃制の空手(極真空手-フルコンタクト空手)を作り出した。短期間ではあるが、1956年(昭和31年)に大東流合気柔術の吉田幸太郎から合気柔術とステッキ術も学んだ。その他、講道館柔道を曾根幸蔵九段に、・ボクシングをピストン堀口にそれぞれ師事。

目白の自宅の野天道場、池袋のバレエスタジオ跡の大山道場を経て、1964年(昭和39年)国際空手道連盟極真会館を設立し、数々の名だたる弟子・名選手を輩出している。多くのフルコンタクト系各流派を生み出す元ともなった。

1994年(平成6年)4月26日午前8時、肺癌による呼吸不全のため東京都中央区聖路加国際病院で死去。70歳没。豪快で情に厚い人物であったという。なお大山の死と数時間違いで、初孫娘である桃加林がアメリカにて次女の恵喜とドイツ系の父親の元に生まれた。また桃加林は大山と同じ六白金星の戌年に生まれているおり、顔立ちがどことなく大山に似ていた事から関係者や弟子からは「生まれ変わり」とも言われていた。

死亡直前の4月19日に立会証人5人の下で松井章圭を後継者とする旨等とした危急時遺言が作成されたが、公証役人がいなく、妻の智弥子に知らされていなかったことから大きな確認裁判へと発展。裁判ではこの緊急時遺言について、立会証人の中に遺言によって組織上の地位を得る利害関係者がいたこと、その利害関係者が立会証人として遺言内容の決定に深く関わったことなどから、大山が遺言者として遺言事項につき自由な判断のもとに内容を決定したものか否かにつき疑問が強く残ると判断されて、1995年に却下された。

また「韓国にも戸籍があり妻と三人の息子がいる」と言われたが、韓国の戸籍とされた書類は誕生日が違う事から、「同一人物ではない」と東京法務局と裁判所で認定された。

人物[編集]

ウエイトトレーニングに励む28歳頃の大山倍達。空手家として最も早くパワーの必要性に気付いていた

青年時代より、日本ボディビル界の祖と言われた若木竹丸の著書「怪力法」に影響を受け、戦後実際に若木よりウエイトトレーニングの指導を受けた。発達した胸筋と背筋のためレントゲン撮影では薄く影が出来るほどであったといわれる。またパンチ力の増強のために懸垂が有効と聞けば、最後は片手懸垂を連続20回こなすほど腕力があった。

その反面、若い頃の大山の空手は、荒々しく実戦を重視しすぎていたため、巻き藁突き・サンドバッグ組手稽古・ボディビルの鍛錬ばかりして、型の稽古を嫌い、たびたび先輩方から苦言を受けるほどであった。

大山に黒帯を允許した松濤館の船越義珍。1年3カ月での異例のスピードだった

空手修行時の大山を知る空手関係者は異口同音に「彼は力は強いし、組手や実戦は強いが型は下手」と語っていた。壮年期から晩年にかけて好んで剛柔流の「転掌」や「鉄騎」を演じるフィルムが現存し重厚で見事な型稽古を見ることができる。第5回オープントーナメント全世界空手道選手権大会において、最後の演武は創作型「円転掌」であった。

「空手バカ一代」の爆発的人気により、伝説的存在として「大山神話」が広まったが、実際のところ戦後の一時期においては、敗戦という心の痛手の為に、暴力団の用心棒稼業を行ったり、娼婦といちゃつく連合国軍兵士を叩きのめして回り、指名手配されるなどの荒れた生活であった。連合国軍の憲兵隊から追われる身となった大山は一度逮捕されるが、すきを見て脱走。衆議院議員であった小沢専七郎の助力で身を隠す為に仕方なく身延山、それに引き続き清澄山に山篭りすることとなった。

松濤館の船越義珍から1年3か月で初段を得て以降、剛柔流山口剛玄曺寧柱(書籍における日蓮宗僧籍“曺七大師”)、大東流合気柔術吉田幸太郎、朝鮮YMCAからアマチュア・ボクシング、ピストン堀口からプロボクシング(実際地方のボクシング興行で試合した経験もあり)、曾根道場での講道館柔道若木竹丸井口幸雄などからボディビルや重量挙げ金城裕から沖縄空手との交流や空手界の古老との仲介役になってもらったりと、当時としても多岐に渡る格闘技武術関係者との親交を深める。

柔道史上最強といわれる木村政彦。大山は木村とも親交があった

また、武術修行のみならず、船越門下では実力随一であった船越義珍の三男「義豪」を見舞ったり、本部朝基の弟子、山田辰雄(書籍では由利辰朗)、太気拳澤井健一、玄制流空手、躰道祝嶺正献、虎殺しの空手家である山元勝王などとも親交を結んでいた。

「不世出の達人」「武道の神様」と称された合気道家の塩田剛三は拓殖大学の先輩にあたり、澤井健一と共に養神館本部道場で稽古を見学したこともある。

拓殖大学の先輩には、柔道史上最強と言われる木村政彦も居る。全日本選手権を13連覇し「鬼の木村」と怖れられた。大山は若い頃この木村の強さに惹かれ柔道の試合を観戦しているが、晩年「木村の全盛期ならヘーシンクもルスカも3分もたないと断言できる」とまで言っている。

この木村政彦との戦後の深い親交については『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(増田俊也)に詳述されている。この作品は、木村政彦vs力道山戦で木村が力道山の八百長破りでKOされた時にリングサイドにいた大山の怒りと悲しみを克明に描写している。木村がリングに倒れた時、大山はその場で立ち上がってリングに上がり力道山を倒そうとするが、周りの人間が必死に止める。まさに最強の男たちの運命が交錯する歴史的瞬間であった。また増田は、柔道側からの新視点による綿密な取材から「大山は間違いなく日本屈指のストライカー(打撃格闘家)だった」と断言している。

極真会館初代会長の佐藤栄作首相。大山は大物達を惹き付ける魅力を持っていた

著名な政治家とも親交があり、極真会館の初代会長を衆議院議員の佐藤栄作(極真会館設立の3か月後に首相に就任)、副会長を衆議院議員の毛利松平が務めた。衆議院議員であった辻兼一や同じく衆議院議員の小沢専七郎は、戦後の荒れた時期、大山の庇護を行っていた。

1991年(平成3年)の第5回全世界選手権においてアンディ・フグが劣勢で負けが決まった時、フランシスコ・フィリォに止めが入ったが、フランシスコ・フィリォが構わず左上段回し蹴りをして、アンディ・フグが失神したのを見て「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」としフィリォの一本勝ちを認めた。

大山は極真会館の門弟にとっては何者にも代え得ない絶対無比のカリスマであった。それゆえに1994年(平成6年)の大山の死は、上位クラスの指導者や大山の遺族などの間で“極真”の主導権や方向性・商標、そして大山の後継者の座を巡っての数多くの諍いが繰り広げられる直接の引き金となった。かくて、大山が作り上げた極真空手は内紛と分裂、さらには大山の“極真”の正当後継を自認する団体の乱立で現在に至るまで揺れ続けている。

組手スタイル[編集]

大山の組手スタイルを高弟はそれぞれ次のように証言している。

石橋雅史
立ち方は両足に均等に体重をかけた「自然体」に近い立ち方を用い、片方の掌でみぞおちをカバーしている。構えから間合い[注釈 3]をつめる場合は、ただ歩を進めるのではなく、掌を外側に向けて回しながら、掌の旋回がそのまま「掛け受け」になっている状態で前進する。大山先生は組手では決して後ろに下がることはなく、攻撃を捌きながら側面に回って反撃する動きを身上としていた。剛柔流の型を生かし、
  • 掛け受けからの掌底打ち
  • 手刀上段受けから正拳回し打ちまたは手刀打ち、
  • 相手の肘関節の逆を取る
  • 弓張受けからの孤拳[注釈 4]受け
  • 猫足立ち[注釈 5]から下突き[注釈 6]に繋ぐ掛け受け、
  • 猫足立ちから逆技につなぐ掛け受け

など、円型逆突きを基本にした掛け受けからの手技を多用し、手刀・回し打ち・掌底打ちなどの円の攻撃、また、相手の攻撃をかわしながら入る柔の歩法などに長じていた。しかも、その動きは剛柔流の型の中に見出せるものが多く、大山先生は、ある意味で伝統の空手の動きを組手でそのまま体現できる数少ない達人のひとりであった。[1]

安田英治
僕が見てきた大山先生の組手は、様々な要素を取り入れて相手に応じて変えていくもので、これと決まった形はなかった。追い突きよりも右の逆突きを得意とし、蹴りでは前蹴りが多かった。直線よりも、当然受けて打つんだけれども、それを円を描きながら回り込んでといった動きであった。受けるというのも普通にパンと受けるのではなく、引っ掛けていた。僕らなら上段受け、中段受けなんてやるけれども、大山先生は受けて掛ける。いろいろな武道を先生は学ばれたから、その中から生まれてきたのかもしれない。掛けて、相手の動きに合わせて捻ったり関節技をかけたり、それでも完全に極めることはあり得ないわけで、ある程度で止めていた。空手の中に違うものを入れていく、これは他の空手の師範にはない所で、格闘技的な要素を追求されていたのだと思う。前手か両手で掛け、回り込んでしまえば横に行く、相手は死に体になるから、後は突いても先生は柔道もなさっていたから、ポンと投げていた。蹴りがきたら、受けずに肘で落としたりもしていた。正拳突きを当てるにしても中段で、顔は掌底で押したりして、まともに当てることはしなかった。裏拳・回し打ち・振り打ちなどを回り込みながら使っていたが、剛柔流的な要素でしょう。とにかく技は多彩で、最終的には正拳が威力あることははっきりしてるけど、それをみぞおちにも形でしか当てなかった。接近したらヒジで突き上げるだけでなく、力があるからそのまま持ち上げて、3~4メートルも投げてしまったり、縦横無尽だった。[1]
大山茂
まず、大山倍達総裁の組手の構えは左足前の猫足立ちが多かった。得意技は貫手で目突きと金的蹴りという激しいものだった。貫手の目突きは、バラ手にして、スナップをきかせて目を突かれると、もう目から涙がポロポロ止まらない。左前蹴りのあと、右のバックハンドという回転技も良く使っていた。それとよく使っていたのは左足前の構えから「尾麟(びりん)の構え[注釈 7]」のように右手を前に出す。接近戦だと左足前なのに右手を前に出してきた。これで上体を逆にタメておいて左の掌底を出す。この掌底が真っ直ぐ来る時と振り打ち気味に来る時がある。ほとんど正拳は使わないで、ボディーを突く時でもコントロールして、ほとんど生徒にケガさせなかった。私は右の正拳が得意だったが、胸などはわざとたたかしてもらったが、胸の汗が私の目にバシッと入り、目がヒリヒリしたことを覚えている。「今のはいいね。もう1回来なさい」という感じだった。でもたいていは右の正拳で行くと左の掌底がカウンターで顔面に来て、次に総裁の右の拳などが飛んでくる。

総裁の組手で多かったものは、遠い間合いは両手を前に出して「前羽の構え[注釈 8]」で構えて、近づくとダイナミックな動きになる。よく使われていたコンビネーション[注釈 9]は、左足前の構えのままで右手を前に出し相手の前手をひっかけ左の掌底、このあとに右の貫手・右の金的蹴りへと繋げる。ストレートな攻撃が得意だった。蹴りも前蹴り・後ろ蹴りといった直線的な攻撃が得意だった。左の前蹴りを出して、回転して右の後ろ蹴りを出したりね。この時の後ろ蹴りは、腰を入れた横蹴りぎみのやつだね。私も参考にさせてもらった。でも、総裁の蹴りの中で一番危なかったのは何と言っても金的蹴りだね。泰彦なんかも当時一番動いたからね。よく金的蹴りを喰らっていた。当時は毎日、総裁ひとりで何十人も組手の相手をしていた。とにかく総裁との組手はいい思い出ですよ。[1]

大山泰彦
大山総裁は左足前の半身の組手立ちに構えて、スーと前に出て左手で相手の前の手を落とす。その時総裁の右手は掌底で顔面カバーする。払った左手で裏拳左右打ちのような感じで「最破(サイファ)」の型通りに下からポーンと来る。時には奥の右手で髪を掴まれ、それで裏拳を決められたこともある。総裁は相手の左手を払った後、受けた自分の左手を胸までもってくる。そうすると相手の胸に向かって肘が出る。そこからパーンと裏拳がきて右の正拳がゴチン。勿論強くは当ててこなかった。あとよくもらったのが、右の踏み足で間合いを詰めて右の掌底の回し打ち。だいたい耳の辺りをパチンと引っ叩かれた。また私が左の前拳で突くと総裁は左手で突きを受け引っ掛けながら、右手は私の肩を摑んで私の体をくるっと回し、それからドーンと押したり、投げ技はずいぶん使っていた。

総裁は体は大きかったけれども、組手になると動きに柔らかさがあり、手が上から下から横から出たりしていた。普通の人だと一、二と真っ直ぐに来てそれから横の技となるんだけど、総裁の場合、いきなり裏拳だったり回し打ちが下からくる。ある時は裏拳打たれて右の正拳をお腹にポーンともらったり、ある時は摑まれて投げられたりした。とにかく総裁の両手が変幻自在で何が来るか、全く分からなかった。あとは目突きと金的蹴りかな。目突きは横から下からパッと入れられてしまうので「アッイテ」と思ったときには涙が出てた。金的蹴りも総裁の得意技で、蹴りを大きく蹴っていくとパチンとスナップをきかせて蹴られる。すると総裁は「キミ、金的は男の魂だよ。ケ、ケ、ケ」と(笑)。金的蹴りは私もよく真似した。

総裁はよく私の突きや蹴りをその大きな体で受けてくれた。「叩いてこい」というので、思い切り叩くと汗がパチッとはね返ってくる。「もっと強く」と再び言われ、「よーし」ともう1回叩くと上から掌底で頭をガチンと叩かれ、グシャと総裁の足元に潰されてしまう。でも、私たちには思い切りは攻撃しなかったね。裏拳でもキチっと握るんじゃなくて軽く握ってパンという感じだった。だから、総裁と組手をして次の日に残るケガというのはなかった。他の黒帯の人たちの方がイヤだったよ。総裁との組手は「パチっ」とのばされるんだけど気持ちよかった。「泰彦、頑張れ」という意味で叩いたと思う。それだけ弟子のことを思っていたんだと思うよ、総裁は。[1]

中村忠
大山館長が僕らと組手をする時は、いつも受けの組手ですからね。攻撃をさせて、それを受ける。僕らは腹や胸をポンポンと突いても蹴っても構わない。そんな時の大山館長の組手の構えは、最初は「前羽の構え[注釈 8]」で、次に寄り足をして、「尾麟の構え[注釈 7]」、そして「龍変の構え[注釈 10]」で、スッと踏み込んでくる。この上下に回転する手が、裏拳に変化したり、相手の道着を手刀で引っ掛けたり、様々に変化する。今度は手が来ると思って上段をガードすると、ローキックのように足払いでいきなり倒される。まさに変幻自在で、こちらからは動きが読めない。でも、僕ら生徒とやるときはほとんど正拳を使わず、掌底で顔面にバチンときたり、みぞおちやアバラを狙う時も掌底でしたね。掌底と言っても体重を乗せ、踏み込んで打ってくるのですごく効きますよ。僕も大山館長の掌底を脇腹に喰い、動けなくなったことがあります。

でも、僕なんかじゃなく、もっとうまい上手な先輩とやる時は正拳も使うこともありましたよ。僕は高一でまだ始めて間もない頃で館長も手加減してくれていましたが、安田先輩茂さん泰彦さんなんかと、組手をするときは激しくやってましたね。大山館長は右の正拳が得意だったようですが、直線的な正拳だけでなく、回して打つ正拳もよく使っていましたね。それが回し打ちとは違って、正拳の背刀部側の拳頭で打つんです。館長の正拳は普通の人の何倍も拳頭が大きく、いろんな角度から鍛錬されていましたから、その拳頭の背刀部側をフックのように使い、相手が前へ出てくると、サッと左側45度へ体サバキして、すれ違いざまに右の正拳回し打ちを当てるんです。ただし、顔面やみぞおちは危ないので、わざと胸を狙って入れてましたね。

館長の組手は柔らかく受け、変幻するけれども、極めの時は「ウウッ!」と腹から呼吸というか気合を出し、瞬間的にすごい威圧感を感じさせるんです(原文ママ)。こちらは自由に攻撃させてくれるんですが、他から見るとあまり動いていないように見えるんです。実際に大山館長と向き合うと、撹乱されて攻められないんですね。「上からくるか下からくるか?」と思っているうちに倒されてしまう。最初は間合いが遠くて、こちらは突いたり、蹴ったりできるんですが、わからないうちにスーッと入ってきて、瞬間に何か小技を出してきてやられてしまう。今思うと、遠い間合いの攻撃も全て館長にコントロールされていたんでしょうね。館長はダイナミックな攻めの方に、接近すると相手の突きを孤拳で受け、その手を掌底に返して腹を打ったり、手刀に変化させたり非常に小技もうまい方でした。たぶん当時は30代前半の一番円熟していた時期だったんじゃないでしょうか。大山館長はあの大きな体で動きが速く、足も股割りで全部開く柔軟性をお持ちでした。回し蹴りも横蹴りも上段にヒュッと上がりましたよ。組手のときはほとんど中足で回し蹴りを使い、やはり強く当てないように気を使っていましたね。でも一番の得意技はやはり右の正拳で、掌底や孤拳はそれを使うための付随する技だったと思います。[1]

山崎照朝
組手において私が大山総裁から学んだ最も重要なことは「技は力の中にあり」で、相手の構えを正面から崩していく破壊の組手であった。フットワークを使う動きをしてくる相手よりも、ガードが固く、どっしりと腰を落とした静の動きを持つ相手の構えはなかなか崩せない。総裁はこういう状態のとき、よくこう言われた。「何も体を打つ必要はない。正拳を打つんだ。相手の手を殴って崩せ。相手の出している前手を殴って、構えを崩して相手の中に入れ!」ということをいつも言っていた。「相手の構えが固ければ、それを力で崩していけばいいじゃないか」という正面突破の理論が総裁の考え方の根本にあると思った。「相手の拳が強かったら、相手の拳を殴って使えなくしてしまう。蹴りが強かったら逆に蹴り返して折ってしまう。相手の最も自信のある技を受けるのではなく、打ち砕いて戦意をなくしてしまう。これが極真カラテであり、組手の極意である」と常々仰っていた。相手の攻撃を受けるときも極真では真っ直ぐ直線で中に入って受ける。他流の場合、サイドに出て捌くのが一般的だけど、相手にしてみたら体勢をそれほど崩されないから、不利にならない。直線で受けるということは相手の攻撃のラインを変えるということだから、無駄な動きは不要になる。総裁の理論で「点を中心に円を描き、線はそれに付随するものである」という言葉があるが、これは自分が点になって直線で進むことによって相手を崩し、また相手の攻撃ラインを変えて、相手の背後に回りこむことで結果的に円を描かれるということで、自分の攻撃が必然的に防御になり、防御は攻撃になる「攻防一体」を意味している。総裁は私に「点を中心に円を描く、破壊の組手」を伝授してくれたと思っている。[1][2]

異種格闘技戦[編集]

木村政彦の証言

木村が本格的にプロレスラーに転向する前、昭和26年から28年頃、大山倍達は一緒に地方巡業に回っている。その際、木村と遠藤幸吉らがプロ柔道の試合をやったりプロレスの試合をやったりしていた。試合が終わると「誰か挑戦する人はいませんか」と観客の飛び入りを求めた。相手をするのは大山であった。

ある地方興行で元大相撲の力士が挑戦してきた。大山はこれを簡単に倒してしまった。次に名の知られた全日本クラスの柔道家が挑戦してきた。大山はこれも簡単に料理してしまった。大山は今度は「2人同時でいいですよ」と言った。大山の強さを知る木村政彦は客に「もう危ないからやめた方がいい」と止めたが、この相撲取りと柔道家は大山が当時まだ名を知られていなかったのでまた「やらせろ」と上がってきた。後ろから柔道家が、前から相撲取りが迫ってくるのを、大山はまずは後ろ蹴りで柔道家を倒し、前蹴りで相撲取りをKOしてしまった。どちらも一発であった。そのあまりの技の速さに観客たちは騒然となった。2人ともそのまま病院送りとなった。相撲取りは肋骨が2本折れていた。

この木村政彦の証言は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」に出てくる。著者によると木村は強さという物に厳しく、強い格闘家しか絶対に認めない男で、その木村が言うのだからこのエピソードは間違いなく事実だとしている。また大山が当時の大学柔道チャンピオンとの喧嘩に勝ったことも、柔道家や空手家への取材で事実だろうと書いている。

中村頼永の証言

US修斗の中村頼永は、1990年ロサンゼルスで出会ったミツ山下という柔術家から「大山倍達の異種格闘技戦を見たことがある。彼は凄い」という話を聞かされた[1]。当時、山下はグレイシー柔術の中級者であり、ホリオン・グレイシーヒクソン・グレイシーの長兄)の道場でアシスタント指導員をしていた[1]。山下から聞かされた話を中村は次のように語る[1]

40年くらい前に中学生の頃、ミツ山下氏はテレビで見たそうです。大山総裁は空手着でリングに上がり、相手は大柄なボクサーだった。大山総裁は素手でどっしりと腰を落として構え、フットワークは使わない。その周りを長身のボクサーがジャブを出しながら、フットワークを使い、回るという展開から始まりました。ボクサーはなかなかスピードのあるパンチを出すので、大山総裁も構えたままスキをうかがう展開が続きましたが、そのうち、なかなか飛び込めないので大山総裁はあきらかにイライラした表情になってきたそうです。大山総裁はしびれを切らしたように、相手に向かってジャンプ。これは前に鋭く飛び込んだのを外人(ミツ山下)だからこう表現したのでしょう。飛び込むや否やボクサーのボディーになんと貫手を一撃。みぞおちにモロに決まり、一発でボクサーはKOされたそうです。山下氏はグレイシー柔術をやっているため、空手や打撃系の格闘技はあまり認めない立場ですが、「あの試合だけは凄かった。それは凄かった」とマス大山に関しては別格の存在として尊敬しているようです。また、ゴッドハンドが実際に戦ったときの様子を見たことを誇らしげに思っているようです。山下氏は格闘技の専門家であり、立場もある人物であり、さらに立場としては空手の敵役にある人物。その彼が話すことなので、これは信憑性のある話として受け取っていいと思います。[1]

以上が中村の証言だが、大山茂はこの話を聞いて、「大山総裁の現役時代は、貫手はほとんど目を狙って出しており、右中段逆突きが非常に強く、それを喰って立ってられる人間はいないだろうというほどの威力だったから、おそらく、正拳だったであろう」と語っている[1]。ただ、素手で手を開いて構えたところから、握りながら突き、即引き手をとると、空手を見慣れていない人(当時のアメリカ人で見慣れた人物がいるとは考えにくい)にとっては、貫手に見えることがある[1]。いづれにしても仮にボクサーを倒したのが貫手ではなく正拳だったとしても、この話の価値や信憑性が全くさがるものではない[1]

10円玉曲げ[編集]

非常に握力の強い空手家であった。著書『強くなれ! わが肉体改造論』によると、若い頃の握力は100キログラムを超えていたとのこと。最近の検証では120〜130キログラムあったと言われている[注釈 11]。若い修行時代から、両手の五指の訓練は欠かさなかった。その結果、硬貨を、親指人差し指中指の腹の部分で押さえて曲げることが出来たとされる(「パワー空手」の記事による)。未だにこの記録を打ち破る者は、自らの弟子からも、それ以外からも出ていない。大山の著書には柔道家の木村政彦が実見しているとある。

目撃談として、剛柔流山口剛史山口剛玄の息子)が「1953年(昭和28年)に浅草公会堂で演武会を開いた時、10円玉を曲げていた。後で目の前でやってもらったこともある[1]」と言い、南本一郎[注釈 12][3]は「初めて会った時に、3つの指で10円玉を曲げたんですよ。それもハンパな曲がり方じゃなくて、しっかり曲がってた[3]」と証言している。

空手バカ一代』などの漫画でもこのエピソードが語られ、この際全身にジンマシンが出るという話を聞き、当時の週刊少年マガジン編集長が連載を決意したという逸話がある。劇中では「原因は不明だが人間の限界を超えた動きの副作用」というような表現がされていた(『男の星座』)。また貧乏空手家時代に、他人のオゴリへの返礼としてこの技を余興として見せたという。

これら(硬貨曲げ等)はトリックがあったと指摘する関係者もいるが、昭和26年から昭和33年に作成された10円玉(いわゆるギザ十)は現行の10円玉よりも若干薄く、大山倍達は実際に曲げたという説が有力となっている。10円玉の硬貨折りを実見したと語る人も多数存在する。前述の証言をした山口剛史は幼少の頃、新年会や演武会で大山の硬貨折りやビール瓶の手刀斬りなどの神技を見るのが楽しみだったと語っている。なお、硬貨を曲げることは貨幣損傷等取締法違反である。

逸話[編集]

宮本武蔵を深く尊敬していた大山[注釈 13]は、作家吉行淳之介と対談した際[4]、吉行から「五味康祐によると武蔵はホモだったそうですね」と言われたため、怒りのあまり吉行を殴りそうになったが、自制して手を出さず、怒りを顔に表すことすらしなかった。このため吉行は大山の怒りに気付くことなく平然と対談を終えたが、後日、知人を介して大山から危うく暴行を加えられる寸前だったと知り、恐怖におののいたと語っている。

横山やすしの弟子である横山ひろしによると、若き日のやすしがクラブで大山と遭遇した際に10円玉が曲げられるかどうかで言い合いになり、大山は「僕は曲げられるけど今日は帰るよ」と言い残し、やすしは「兄ちゃんちょっと待て!逃げんのかい」と絡んだ。なお、やすしは大山を何者であったのか全く知らずに、クラブのママから空手道場を経営されている人と紹介され「明日おまえんとこ決着に行ったるわ」と啖呵を切ったが、実際に行ったかは不明である。

氏は常々「握り方3年。立ち方3年。突き方3年。9年やらないと空手の門には立てない」といっており、それでも晩年、夜中に目が覚めて「自分の拳の握り方が本当に正しいのか?」と自問することがあったという[5]

極真最強論[編集]

大山は生前、「格闘技の中では空手が一番強く、空手の中では極真が一番強い」と、極真最強論を公言していた。 フジテレビの「SRS」の中で、大山の肉声テープが複数回放送されたことがある。

主な門下生[編集]

直弟子
孫弟子

著書[編集]

技術書[編集]

  • 『What is Karate?』 日貿出版社1958年(昭和33年) ※世界で25万部のベストセラー
  • 『This is Karate』 日貿出版社、1965年(昭和40年)
  • 『Vital Karate』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『ダイナミック空手』 日貿出版社、1967年(昭和42年)
  • 『Advanced Karate』 日貿出版社、1970年(昭和45年)
  • 『空手を始める人のために』 池田書店1971年(昭和46年)
  • 『100万人の空手』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『わんぱく空手』 KKベストセラーズ1976年(昭和51年)
  • 『秘伝極真空手』 日貿出版社、1976年(昭和51年)
  • 『続・秘伝極真空手』 日貿出版社、1977年(昭和52年)
  • 『史上最強の空手を始める人に』 みき書房1982年(昭和57年)
  • 『極真カラテ入門・マス大山が教える武道カラテの神髄』 池田書店、1983年(昭和58年)
  • 『これが試し割りだ』 日貿出版社、1984年(昭和59年)

自伝[編集]

武道論[編集]

  • 『わが空手五輪書』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『極真への道-私の空手哲学』 日貿出版社1975年(昭和50年)
  • 『世界に賭けた空手-5000万人日本脱出への提言』 潮出版1976年(昭和51年)
  • 『わがカラテ革命』 講談社、1978年(昭和53年)
  • 『The Kyokushin Way』 日貿出版社、1979年(昭和54年)
  • 『わがカラテ日々研磨』 講談社、1980年(昭和55年)
  • 『わがカラテ覇者王道』 サンケイドラマ出版1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ求道万日』 講談社、1982年(昭和57年)
  • 『極真大道空手一代』 日貿出版社、1982年(昭和57年)
  • 『わがカラテ武道教育』 講談社、1983年(昭和58年)
  • 『青春をどこまでも熱く生きよ』 みき書房1983年(昭和58年)
  • 『空拳士魂・わが極真の実像』 テレハウス1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(地之巻)』 PHP研究所1983年(昭和58年)
  • 『昭和五輪書(水之巻)』 PHP研究所、1985年(昭和60年)
  • 『昭和五輪書(火之巻)』 PHP研究所、1986年(昭和61年)
  • 『昭和五輪書(風之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『昭和五輪書(空之巻)』 PHP研究所、1987年(昭和62年)
  • 『極真カラテ21世紀への道』 徳間書店1992年(平成4年)
  • 『武道論』 徳間書店、1992年(平成4年) ※平岡正明と共著
  • 『勝負の鉄則』 PHP文庫1993年(平成5年)

写真集[編集]

  • 『爆発マス大山空手』 勁文社1974年(昭和49年)
  • 『極真空手世界を征く』 講談社1975年(昭和50年)
  • 『一撃必殺空手いのち』 講談社、1976年(昭和51年)
  • 『必殺カラテ! わがいのち』 講談社、1979年(昭和54年)
  • 『大山倍達 空手極限の世界』 朝日出版社1984年(昭和59年)
  • 『ゴッドハンドの軌跡』 コア出版1987年(昭和62年)

漫画原作[編集]

その他[編集]

出演[編集]

映画

題材にした作品[編集]

アニメ
映画

注釈[編集]

  1. ^ 早稲田大学高等師範部国民体錬科は、第二次世界大戦終戦後の1946年(昭和21年)に「体育科」と改称され、1951年(昭和26年)に高等師範部は「教育学部」に改組された。
  2. ^ 京都座における京都文化協会主催の体育大会を指すとして、はっきりとしたルールのある「大会」では無いとする説がある
  3. ^ 対戦相手と自分の距離のこと。間合いを見極めることで自分の技を相手にヒットさせることができる。間合いには以下の3通りがある。
    • 限度間合い - 一撃では攻められず、かといって追撃をかけても逃げられる間合いで、相手の攻撃パターンを読むまでの一時的なものとして用いられる。
    • 誘導間合い - どちらか一方が誘いを入れる間合いで、待ち拳として用いる。
    • 相応間合い - 両者が互角の力量で戦う場合の、共に攻撃範囲内にある間合いのこと。
  4. ^ 手首を掌底とは逆にそらし、曲がった関節部分のこと。
  5. ^ 後屈立ちよりも歩幅が狭く、体重は100%後足にかけ、前足はつま先が床に触れている程度にする。
    後屈立ち - 前足はつま先につけ、前足と後足は30対70の割合で体重をかける立ち方である。
  6. ^ 構えた手を相手の顎や身体の肝臓などに下から突き上げる。ボクシングのアッパーカットに類似した技である。
  7. ^ a b 「龍尾の構え」とも呼ばれ、前足側の手で手刀受けから上体をひねり後ろ足の手を上から落としてくる構えのこと。
  8. ^ a b 手刀を前に出し、前足側の手をやや上にした防御力のある構えで後屈立ちか、猫足立ちで構える。
  9. ^ 複数の技を組み合わせ、連続で繰り出し攻撃すること。
  10. ^ 「上下の構え」とも呼ばれ、手刀受けから相手の突きを落としたり、蹴りへ移行する時などに使われる。両腕を地面に平行にして交互に円を描き、間合いをつめる。
  11. ^ 日本拳法の選手が握手をしてもらった後に、選手の手の平には手形の跡が残るほど強烈な握手だったとの伝聞が存在する。
  12. ^ a b 大山道場で師範代を務めた強豪。日本大学剛柔流空手道部出身で石橋雅史の後輩である。大学在学中に浅草の剛柔流本部で大山倍達と知り合い、大山が池袋立教大学裏で道場を開設した時に南本は道場での指導を頼まれ、大山道場初期の門下生を指導した。相手を羽目板まで追い込んでも攻め続けたという厳しい姿勢を持ち、大山道場に「負けてはいけないんだ」という闘争心を持ち込む指導をした。その後、仕事の都合で道場へ通えなくなったことから、指導の引継ぎを先輩の石橋に頼み、大山道場を去った。
  13. ^ 大山は歴史小説『宮本武蔵』の作者である吉川英治に知己を得ており、極真会館の道場訓は吉川の監修を得たものである。
  14. ^ 第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会から第6回まで連続出場し、第6回全日本選手権で4位に入賞した。現在は国際武道連盟・極真空手 清武会の師範である。
  15. ^ 現・極真会館 松島派代表。総本部指導員を経て、シンガポールで1年間指導後、郷里の群馬県で支部を開設した。
  16. ^ 1961年(昭和36年)9月2日生まれ。青森県出身。本部道場所属。身長185センチメートル・体重110キログラム。第12回全日本選手権でデビュー後、全世界選手権・全日本選手権・全日本ウエイト制重量級に参戦すること実に20回。ウエイト制重量級で4度チャンピオンに輝いている。ちなみに通算成績は88戦70勝18敗。全日本選手権は第24・25回の4位が最高。全世界選手権では第4・5回で7位が最高と上位入賞を果たすが、優勝を獲得することができなかった。しかし、その攻撃力は怪物と呼ばれ、突き・蹴り共に激しいものがあるが、特に膝蹴りは強烈であった。現在は全日本極真連合会の理事を兼務しながら、沖縄支部を管轄している。
  17. ^ 極真会館秋田支部所属で、第3回全日本空手道選手権に初出場。第4・5回全日本選手権は共に3位、第6回全日本選手権5位、第1回全世界選手権5位とそれぞれ入賞し、第8回全日本選手権で念願の初優勝を遂げた。正拳突き前蹴り・回し蹴りを得意とし、その戦いぶりから闘将と呼ばれた。第2回全世界選手権に推薦枠で出場。5回戦でウィリー・ウィリアムスと対戦し、延長戦でウィリーの正拳突きと下突きの連打で一本負けをし、引退。現在は新極真会の秋田本庄道場の師範である。
  18. ^ 浜井識安の石川支部出身。第13回全日本選手権初出場し、4回戦で竹山晴友に敗退。しかし、第14回全日本選手権では中村誠を破ったブラジルアデミール・ダ・コスタ松井章圭に勝ち、決勝進出。三瓶啓二に惜敗したものの準優勝した。第3回全世界選手権にも出場し、第16回全日本選手権では竹山と再戦したが、判定負けで3位入賞。これを最後に選手権大会から退く。岡山県支部長に就任して、現在では極真会館 松井派から離れて、極真会館 極眞會の代表である。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n  『拳聖 大山倍達 地上最強の空手』 福昌堂1998年(平成10年)4月1日発行、3-19頁、23-46頁、117頁。
  2. ^ 山崎照朝 『無心の心』 スポーツライフ社1980年(昭和55年)、156頁。
  3. ^ a b  『蘇る伝説「大山道場」読本』 日本スポーツ出版社2000年(平成12年)1月4日発行、42-49頁。
  4. ^ 吉行淳之介 対談 浮世草子三笠書房集英社1971年(昭和46年)。
  5. ^ 消費税が日本を救う(日経プレミアシリーズ)p297
  6. ^ a b c  『新・極真カラテ強豪100人(ゴング格闘技1月号増刊)』 日本スポーツ出版社、1997年(平成9年)、49頁、60頁、114頁、116-117頁、150-151頁。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]