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(ぜん)は、大乗仏教の一派[1]。南インド出身の達磨が中国に入り教えを伝えて成立したとされている。

中国禅はからにかけて発展したが、の時代に入ると衰退していった。日本に純粋な禅宗が伝えられたのは鎌倉時代であり、室町時代幕府の庇護の下で発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が世界に伝えられた。

概要[編集]

単に「禅」という場合は一般に「禅宗」[2]を指すが、文脈や場合によって「禅那」(: Dhyāna , ディヤーナ、: Jhāna, ジャーナ、禅定[3]を指す。

不立文字[4]を原則とするため中心的経典を立てず、教外別伝[5]を原則とするため師資相承[6]を重視し、そのための臨機応変[7]な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。

坐禅を基本的な修行形態とするが、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは中国の唐代末期からである。後に、「禅宗」の発祥に伴ってその起源を求める声が高まり、さかのぼって初祖とされたのが達磨であり、それ故、歴史上の達磨による直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は部派仏教における禅とは異なり、了義[8]大乗の禅である。

言葉の由来[編集]

サンスクリットの「ディヤーナ」(: Dhyāna )が中国で音写され「禅那」(ゼンナ)、更に略され「禅」(ゼン)になった[9]。現代北京語の発音はチャン(chan2)である(禅譲の「禅」とは意味と発音が異なる)。

漢訳仏典には駄衍那(だえんな)・持阿那(じあな)と音写している例もある。

他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪[10]・功徳叢林[11]・念修[12]

『禅』の字義は天・山川を祀る、譲り与える、開くといったものであった。これに「心の働きを集中させる」という語釈を与えて禅となし、「心を静かにして動揺させない」という語釈を与えて定とし、禅定とする語義が作られた。

圭峰宗密の著書禅源諸詮集都序には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。[13]また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。

中国では禅定が同義語。類似の概念として三昧(Samādhi、サンスクリット)がある。「禅」あるいは「定」という概念は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては「三学」(戒・定・慧)の一つとして、また、大乗仏教においては「六波羅蜜」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

ディヤーナを現代語で和訳すると瞑想となる。ちなみにヨーガ(yoga)も意訳すれば瞑想とされる(音訳は瑜伽)が、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字を強調するため、瞑想と禅は異なる物として区別される。

伝説時代から達磨大師までの禅の歴史[編集]

禅宗では釈迦法嗣を次のように伝えている。

釈迦摩訶迦葉阿難陀商那和修優婆毬多提多迦彌遮迦婆須密多仏陀難提伏駄密多波栗濕縛富那夜奢阿那菩底迦毘摩羅那伽閼刺樹那伽那提婆羅睺羅多僧伽難提伽耶舎多鳩摩羅多闍夜多婆修盤頭摩拏羅鶴勒那獅子菩提婆舎斯多不如密多般若多羅菩提達磨

マハーカーシャパ(摩訶迦葉)はバラモン階級出身の弟子で、釈迦法嗣とされる(法の継承者)。拈華微笑といわれている伝説が宋代の禅籍『無門関』に伝わる。

世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。

『無門関』第一巻(世尊拈華)

二十八祖ボーディダルマ(菩提達磨)(南インド出身)が中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。 達磨は中国禅の始祖となった。

中国の禅の歴史[編集]

最初期[編集]

中国禅の歴史は『景德傳燈錄』等の文献に記述されている。

中国禅の初期の法統は次のように伝えられたとされる。

菩提達磨-神光慧可鑑智僧璨大醫道信大満弘忍 (-大鑑慧能

禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信580年 - 651年)、五祖弘忍601年 - 674年)以降である。

北宗と南宗[編集]

五祖・弘忍には、筆頭弟子で「漸悟禅」を旨とする北宗禅の祖となる神秀と、その弟弟子で「頓悟禅」を旨とする南宗禅の祖となる慧能という2人の優れた弟子がいた。神秀の北宗と、それに対立した慧能の弟子・荷沢神会の南宗派(荷沢宗)は、代の長安洛陽を中心に大いに隆盛したが、会昌の廃仏によって命脈を絶たれることになった。(なお、北宗は、神秀の弟子である普寂の弟子道璿によって、日本へも伝えられている。また、チベット吐蕃)で行われたインド仏教と中国仏教の宗論であるサムイェー宗論において、カマラシーラ(蓮華戎)等と対峙した中国禅僧・摩訶衍は、北宗の者であったと言われている。)

こうして、唐末以降の後世には、慧能の南宗のみが残ることとなり、今日現存している全ての禅宗はここから派生したため、それらは皆、中国禅宗の第六祖を、神秀ではなく慧能としている。

慧能以降の発展[編集]

六祖慧能638年 - 713年)の名を使用し、弟子の荷沢神会が編纂したと考えられている『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』に新しい坐禅と禅定の定義が宣揚されたのを契機として、後の中国禅宗は確立・発展したものと考えられる。

師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

『六祖壇経』坐禅第五

さらに『景德傳燈錄』に載せる、慧能の弟子の南岳懐譲677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

景德傳燈錄』巻第五

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した「五家」観念が一般化して「五家」(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐派の勢力が伸長し、「五家」と肩を並べるまでになり、この二派を含めて「五家七宗」(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。

慧能以降の法嗣[編集]

慧能以降の主な法嗣の系統は、以下の通り。

五家七宗[編集]

臨済宗[編集]

臨済義玄を宗祖とするが、唐末五代においては、華北に地盤を置いた臨済宗は、義玄の門弟三聖慧然興化存奨以後、その宗風はさほど振るわなかった。存奨系統の南院慧顒風穴延沼らが一部でその法統を継承するに過ぎなかった。

北宋代になって、延沼の弟子の首山省念門下の汾陽善昭広慧元漣石門蘊聡といった禅匠が輩出して、一気に宗風が振るうようになった。善昭門下に石霜楚円瑯琊慧覚が出、楚円門下からは楊岐派楊岐方会黄龍派黄龍慧南が出て、その一門が中国全土を制覇することとなった。

高峰原妙は、その宗風を、「痛快」という言葉で表現している。

黄龍派[編集]

宋代の中期以降に、慧南の系統が勢力を伸長し、楊岐派と共に、五家と肩を並べるまでになった。慧南の門下から晦堂祖心東林常聡真浄克文が輩出し、祖心の弟子の死心悟新霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦覚範慧洪らが出て活躍し、当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。

楊岐派[編集]

黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤仏鑑慧懃仏眼清遠という、「三仏」と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆虎丘派虚堂智愚を出した松源派無準師範を出した破庵派なども活躍した。

潙仰宗[編集]

潙山霊祐仰山慧寂を祖とする。この系統も十国荊南南唐を中心として教勢を張ったが、その後は次第に衰退し、宋代にまで伝わることがなかった。

元の高峰原妙は、その宗風を「謹厳」という言葉で表現している。

雲門宗[編集]

雲門文偃を祖とする。文偃門下の香林澄遠洞山守初徳山縁密など多くの俊哲が出て唐末に一大勢力を形成し、五代末より北宋にかけて、隆盛を極めた。宋代には、澄遠の系統から現われた雪竇重顕文殊応真系統の仏日契嵩が活躍した。重顕門下には、天衣義懐が出た。その後も、仏印了元大梅法英らの禅匠を輩出し、臨済宗とともにもっとも隆昌を極めたが、南宋以後は次第に衰え、元代にはその法系が絶え、二百余年で滅びることとなった。

元の高峰原妙は、その宗風を「高古」という言葉で表現している。

曹洞宗[編集]

洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国荊南南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞雲居道膺門下の同安道丕疎山匡仁門下の護国守澄青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程である。

北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。

南宋代には、子淳の下から宏智正覚真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。

河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫雪庭福裕耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、朝において、道教全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。

元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。

法眼宗[編集]

「五家」観念の初源となった『宗門十規論』を著した法眼文益を祖とする。五代十国では、呉越国王の銭氏一族が、永明道潜天台徳韶永明延寿らの法眼宗に属する僧らを保護したため、江南地方において、その宗勢が振るった。

宋代になると、徳韶、延寿の系統は衰退した。代わって、清涼泰欽帰宗義柔の系統が、その主となった。泰欽門下からは、雲居道斉霊隠文勝の師弟が出て活躍したが、次第に衰退に向かい、ついに北宋末には、その系統は断絶してしまった。

元の高峰原妙は、その宗風を、「詳明」という言葉で表現している。

日本の禅の歴史[編集]

日本には、公式には13世紀鎌倉時代)に伝えられたとされている。だが、9世紀平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれての禅僧・義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録が残っている。また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することから始まるが、それ以前に大日房能忍多武峰日本達磨宗を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑義介らは元日本達磨宗の僧侶であったことが知られている。

鎌倉時代以後、武士庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになった。また、五山文学水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。

中国から日本に伝わる禅の宗派に25の流れがあり、臨済宗から独立した黄檗宗を含めると47流になるとされる。

日本禅宗25流


臨済宗[編集]

唐の臨済義玄を宗祖とする。日本では中国から臨済禅を伝えた栄西に始まり、その後何人かの祖師たちが中国からそれぞれの時代の清規を日本に伝えたため分派は多い。現在の日本の臨済宗は公案禅といわれ、江戸時代に白隠がまとめたスタイルである。公案とは、裁判の公判記録のことであるが、転じて禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいうようになった。それぞれの判例を一則、二則と数える。その対話を知ることにより悟りを知ろうとする。公案は論理的な思考によって理解する事ができない内容が多い。

臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大である。江戸時代、宗学が発達し、無著道忠1653年 - 1744年)が現われ、諸本を校訂し、綿密を究めた手法を確立し、膨大な著述を残した。その著書は、近現代においても研究上の価値を失わない水準を有しており、影印版が実用書として出版されている。

曹洞宗[編集]

以下は曹洞宗の法系の一例である。

釈迦-(中略)-大鑑慧能青原行思石頭希遷薬山惟儼雲巌曇晟洞山良价雲居道膺同安道丕同安観志梁山縁観大陽警玄投子義青芙蓉道楷丹霞子淳真歇清了天童宗珏雪竇智鑑天童如浄永平道元孤雲懐奘徹通義介瑩山紹瑾-...

六祖曹渓慧能洞山良价から曹洞宗とした。日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。

道元は自分の教えは「正伝の仏法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。

初期は在家への布教にも熱心であったが晩年は出家第一主義の立場を取った(正法眼蔵十二巻本参照)。その後総持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式や密教の考え方も取り入れられ一般民衆に対し全国的に急速に拡大した。

曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことがそのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが公案そのものを否定しているわけではなく、また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。

普化宗[編集]

9世紀に臨済録に登場する普化に因み始まる。普化についての記録はほとんどない。虚托尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。日本から中国に渡った法燈国師が、中国普化宗16代目孫張参に弟子入りし、1254年に帰国することで、日本に伝わった。本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていた。

江戸時代に幕府により組織化されたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって1871年明治政府により解体された。宗派としては失われ、臨済宗に編入された(ちなみに一月寺は現在日蓮正宗に属する)。しかし、尺八虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっている。

黄檗宗[編集]

1654年江戸時代)に、明から招かれた中国臨済宗の隠元隆琦禅師により始まる。当初「臨済真宗」を標榜しようとしたが幕府の許可が得られず、臨済の師黄檗希運の名を取り臨済宗黄檗派と称した。明朝風の禅と念仏が一体化した禅浄混淆禅(分かり易く「念仏禅」とも称される。)を特徴とし、読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られる。また、1663年萬福寺に設けられた戒壇をはじめ、各地で授戒会を開いたことで、江戸時代の戒律復興運動に影響を与えた。江戸時代を通じて一宗として見做されることなく、臨済宗の一派で終始した。黄檗宗を名乗り、臨済宗から独立を果たしたのは、明治維新後の1876年のことであり、明治以後に禅宗中の一宗となった。

日本の禅の教義[編集]

中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったが、比叡山の影響の大きい日本の多くの禅の宗派は教義を展開する。この節では現代日本に於ける禅宗の姿を鳥瞰する。

全ての人が例外なく自分自身の内面に本来そなえている仏性[14]を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行を継続するなかで、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指す。そうして得た悟りから連想される智慧を以て生滅因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道解脱して涅槃に至り[15]、その後に一切の衆生を導くことを目的とする。そのため師家が修行者に面と向かって臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに直に本性を指し示す道[16]であるとされる。

主な修行形態として坐禅を採用するのは、達磨大師が坐禅の法を伝えたとする以外にも、古来より多くの諸仏が坐禅によって悟りを開いてきたからであるとされる。最近は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であるという生理学教授[17]もいる。ただし、自分も根本的には仏祖と同一であるという境地に到達した者には、一切の行動にことごとく仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行うようになる。

禅宗においては、そもそも禅宗とはなにかといったメタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達してのちに、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑[18]における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて経典や他人の中に仏を捜しまわることがかえって仏道成就の妨げになるからであると説く。沢庵和尚がたとえて言うには、「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで到達できる[19]とする。

禅宗の坐禅における禅定の種類[編集]

禅宗における坐禅は四種類ある。

愚夫所行禅
凡夫・外道[20]が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように[21]動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。
観察相義禅
小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業[22]を作る結果となるからである。夢窓国師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて生き仏になることができると説く。
攀縁如実禅
大乗の菩薩が、中道を覚って三業[23]を忘れ、有るでもなしでもなしと達観する境地。生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない[24]
如来清浄禅
如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返るというのは、前記の二禅を飛び越え、愚夫所行禅から直にこの位に達することを意味する。それゆえ如来十号菩薩五十二位も枝葉末節であるとされる。

これらの上にさらに五つめの段階を設けて、如来清浄禅に安住せずに人々を教え導こうとする祖師禅があるといった古人もいる。

また、愚夫所行禅から如来清浄禅に至るまでの上達の様子については『鉄眼禅師仮字法語』に詳しい。

方便[編集]

方便法輪。日本の禅では、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する柔軟な心構えをいう。教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。

只管打坐(しかんたざ)
ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。意識を捨てて無意識下において坐禅する[25]、坐禅そのものになりきることを意味する。いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する。この手法によって初心者でもより深い禅定の境地を容易に体験可能であるとされる。ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばず、そのために初心者向けの方便として只管打坐[26]・修証一如[27]こそが禅宗の極意であるということが言われる。坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。
公案禅(こうあんぜん)
達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。無理な想像は妄想となって理解に歪みを生じ、自ら生み出した曲解に妨げられてますます悟りから遠のくという事態は、昔から多くの師家を悩ませてきた。経典を学ぶにしても、学び手に必要なものはまず悟りの体験である。悟りというものは自分の心で自分の心を確認し、自分の心で自分の心を理解するものである。他人に頼って何かを明らかにするとか、自分以外の何かを利用して体得するようなものではない。従って、悟るためには何よりもまず坐禅の実践によって自分自身と向き合うことが肝要である。こうした問題意識から、思考癖のある聡い修行者に坐禅を実践させるために、禅師たちが考え出した方法が公案禅である。修行者に公案を与え、行住坐臥つねに公案の答えを考えさせるのである。
公案
公案は直に悟りの境地を指し示したものであり、ひらめきと一体化した言い表せない感情的なものである。心がけがよくなく、このままではまちがった方向に進むおそれのある修行者[28]に対して、師家が薬のような意味合いで修行者に授ける。内容は、昔の高僧の言葉を使うこともあれば、即興で作られることもある。公案を与えられた修行者は、その言葉がどのような本意から創造されたかを正しく悟って、師家の前で心を以て回答することを要求される。公案の多くが自己矛盾的文体を為しており、そのまま意味を理解しようとしても論理的に破綻する場合が多い。公案の答えは常識的な思考の届かないところにあり、自己を消し去ることで矛盾を解消したり、矛盾を止揚して高次の段階で統一したものである場合が多い。そういった答えに至る過程に禅の極意が含まれているとし、修行者を正しい悟りに導くための工夫の一つとされる。ただし、このような学習を捨てて坐禅させるという方法は、師家の善良な監督下にあって庇護を受けることができる出家の僧侶に向けたものであり、在家の信者は坐禅と学習の両方を行う必要があるとされる。
内観
禅の修行が厳しく、師家のほうでも敢えて禅人を苦しめるのは、富貴で安穏であれば仏道を求めることが困難だからである。釈迦が王位に就いて姫と歓楽に耽り、国中の財産を集めた贅沢三昧の生活を自ら捨てて出家して六年間の苦行をしたのも、このような理由であるとされる。不意に病にかかり、気を失って死んだ方がましだと思うような病苦の中にあるときこそ必死に坐禅すれば、またとない大悟の機会となる。たとえ大悟を得られなくとも、その時の苦しみを思い返せば多少の生活の苦しみは取るに足りなくなる。また、無始無終の生死の迷いを打破し、如来の悟りに徹底するようなめでたい事は、少しばかりの艱難辛苦なしには得られるものではないという覚悟が必要であるとされる。とはいえ参禅が限度を超えて神経衰弱の苦しみにある修行者を見かねた白隠禅師が、その治療方法としての内観の秘法を伝授した。神経衰弱から来る禅病を直すための心身の休養方法であり、心身がもとより空虚なものであることを体験するために、24時間の睡眠と禅宗的なイメージトレーニングと数息観と丹田呼吸を行う。
二入四行
達磨が伝えたとされる二つの真理への至り方と、四つの実践方法。悟りに至る方法は数多くあるが、それらはすべてこの二つに要約されるとする。

霊魂(精神の永遠性、小我)の否定[編集]

禅宗(特には臨済宗)では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。

禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である[29]。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である[30]

もし悟った禅僧が、心身は一如であり肉体も精神も不滅であるというならば、これは仏性を直指した奥の深い説法であるといえる。

後の中国では禅宗(とりわけ臨済宗)を称するものが多数派、内容的には念仏禅が主流となり、文革の宗教弾圧後の復興を経た現在の中国大陸においては、清代の史跡を中心とするチベット仏教の寺院が都心部などで散見されるほかは、浄土教的要素が混淆した禅宗が一様化して残るのみとなった。結果として(二種類の中国禅や日本禅の古法の一部を継承する台湾や香港、華厳禅の韓国を除けば)今日の中国大陸では日本にあるようなセクト主義的な諸宗派の伝統はほぼ消失している。 -->

世界の禅[編集]

禅者でもある仏教学者の鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカヨーロッパへと禅が紹介され、日本語の発音による「Zen」(禅)が世界的に広まった。その後、曹洞宗の弟子丸泰仙によってヨーロッパで布教され、21世紀の現在では、臨済宗、曹洞宗共にアメリカやヨーロッパに寺院を構えている。カトリックでも習慣で元々瞑想が存在していたため、一部で取り入れられている。

近年において[編集]

現在、ベルギーでは政府文書により禅がカルトとして分類されている。その経緯は、1997年にフランスドイツオーストリアに続き、カルトに対する政策を作るためベルギー代議院の社会正義委員会で審理委員会が設けられた。同委員会は670ページにわたる報告書を作り上げたが、そこで採り上げられた189の運動の中に禅も含まれている。ただし、「ある運動がこのリストに載っている事実は、公訴の調査中であったとしても、当委員会がその運動をカルトと見做しているとは意味しない」とも記されている。

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  1. ^ 本来、大乗仏教は一切衆生の仏道成就という一つの目的を共有する大きなひとまとまりのものであり、仏祖が様々に教えた中の一つを取り上げてことさら禅宗と称して一派に細分化すべきではないのであるが、敢えて分化して説明するならば本項のようになる。
  2. ^ 禅宗では自宗と自宗以外のすべての教宗とを区別する意味で禅宗と自称する。
  3. ^ 禅那(ぜんな)。坐禅を組むこと。あるいは参禅すること。禅那は、仏性の存在を前提に坐禅することをいう。そのため坐禅と同じ姿勢でも仏性を前提としないものは禅那とは言えず、単なる瞑想であるとして区別する。
  4. ^ 不立文字(ふりゅうもんじ)。文字・言葉の上には真実の仏法がないというのは、仏祖の言葉は解釈によっていかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である。悟りは文字によって得ることはできないとはいえ、沈黙によっても得ることができないとされるため、一切の説明を行わないということはなく、臨機応変な方便として様々な方法で説かれる
  5. ^ 教外別伝(きょうげべつでん)。人格を相伝すること。文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされる。
  6. ^ 師資相承(ししそうしょう)。悟りの機微は師から弟子へと受け継ぐべきものであり、それが法脈となって後世の人々を救う。生きた仏として残るため個別のケースに応じた柔軟な指導が可能となる。そのため固定の戒律を持たず、固定の修行方法を持たず、特別な本尊を定めることもなく、必ず出家しなければならないというような決まった形もない。
  7. ^ 臨機応変(りんきおうへん)。例えば、あまりに経典を大切にしすぎる人には、正法眼蔵も世尊拈華も真実の悟りから見れば寝言のようなものであるといって捨てさせたり、あまりに経典を軽んじすぎる人には読経を勧めたりといったことである。
  8. ^ 了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。涅槃経四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。
  9. ^ 旧字体は「」、漢字制限当用漢字常用漢字)以後は現表記が多く用いられる。
  10. ^ 棄悪(きあく)。心の正しき働きを覆い隠すような一切の悪を捨て去る
  11. ^ 功徳叢林(くどくそうりん)。衆徳のあつまること叢林のようである。
  12. ^ 念修(ねんしゅう)。修は習得すること。習得して得られるものは棄悪・功徳叢林である。
  13. ^ 大正大蔵経[1]; 岩波文庫本、14頁
  14. ^ 教宗では俗人と仏とを別々のものと考えた上で仏性という言葉を使うが、禅宗では俗人も欲を除けばそのまま仏であるという意味で仏性という。全ての人がそなえていると書いたが実際は人に限らず生きとし生けるものすべてが円満に持っており、姿形は動物によって違うが仏性は平等であるとされる。ただし、このように読んで頭で理解するにとどまって体感を伴わないことを嫌うのが禅宗である。
  15. ^ 悟って如来と同じ境地に入ること。体験を経てから涅槃に至るまでの一連の流れについて頓悟漸悟あるが、人の利鈍によって早い遅いがあるにすぎない。
  16. ^ 不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)。言葉や文字によらず、直に本性を指し示すこと。教宗にはない禅宗の特徴とされる。例えば、月とはこういうものだと口で言って説明するのではなく、黙って月を指さすようなものである。ところが、その指を見ても何のことかわからずに、指の長短や肌の濃淡を論じるような者のために教宗があるとする。ただし、禅宗が指すものは悟りの境地であり、教宗が指すものも悟りの境地である。それゆえ禅・教は表裏一体のものであり、禅の中に教があり、教の中に禅があるため、双方を両立するになんら矛盾はなく、特に他宗派を誹謗する者に対しては禅教の両立が推奨される。
  17. ^ 有田秀穂 東邦大学医学部生理学教授
  18. ^ 世尊拈華、迦葉微笑(せそんねんげ、かしょうみしょう)。故事。釈迦が入滅するに際し、大衆居並ぶ説法の席で一枝の蓮華を拈って見せた。みな何のことかわからず押し黙るなか、ひとりマハーカーシャパだけが微笑してうなずいた。それを見た釈迦はマハーカーシャパが悟りを開いたことを知り、我が不立文字・教外別伝の正法はあなたにゆだねると言って仏法伝授の使命を授けたというもの。
  19. ^ 到達するといっても、なにか悟りという別の境地があってそこへ向かって進むわけではなく、その境地が元々の自分(いわば出生以前の自分)であり、その境地が底なのである。
  20. ^ 外道とは仏教以外の宗教者のこと
  21. ^ 壁は、外から来る妄念から内心を守り隔てるものの例えである。のちになって、物質的な本物の壁の意味に解されたが、これは誤りであろう。(柳田聖山 達磨の語録 P51)
  22. ^ 身口意の三業(しんくいのさんごう)。みだりに殺すこと、盗むこと、犯すこと、罵ること、騙すこと、綺語を言うこと、詭弁を言うこと、貪ること、怒ること、邪なことの十悪。
  23. ^ 身口意の三業。来世の生存は業を因縁として決定する。悪業に限らず、善業であっても善果としての来世が決定してしまうため、輪廻を逃れることができない。そのため善悪そのものを離れてしまうことが重視される。そして苦楽や生死についても同様に、とらわれないことを重視する。生死にとらわれなければ、輪廻もまた消滅するので、すべてが寂滅した世界観が開ける、というような意味である。しかし、このように学んだだけで実感を伴った悟りに至る人はまれである。それゆえ禅宗では話をせず、一切を投げすてて悟りの本分に直行させるために教外別伝を行う。
  24. ^ 教宗では衆生を成仏させきってから自らが成仏するのが菩薩であるとされるが、禅宗では先に自らが成仏して如来となってから衆生を導くことを奨励する。この両者は手段が違っているだけで、衆生を済度しようという目的は同じであるため、どちらが間違っているということはない。もしこの両者について正誤にとらわれる者があるならば、彼は自分自身が小乗に陥っていないか鑑みる必要があるとされる。
  25. ^ 睡眠中も無意識ではあるが、眠りという無明が付着しているために夢を見て一喜一憂する。理法に目覚めながら目覚める対象にとらわれないのが仏である。
  26. ^ 只管打坐(しかんたざ)。真実の只管打坐は単なる無念無想や無意識というようなものではなく、意識があるでもなくないでもなく、無念でも有念でもなくて、心身が澄み渡った空のように清くありのままを映し出す鏡のように感じられるところにあるとされる。ただし、この境地すらいまだ大悟徹底ではない。しかし大悟徹底の前段階であるとして歓迎される。
  27. ^ 修証一如(しゅしょういちにょ)。坐禅は、まだ悟っていない者が修行によって悟りに到達するようなものではなく、生来的に仏性を持っている(悟っている)はずの者が改めて修行をするのであって、それは修行がそのまま悟りなのであるという意味の喝。どんな凡人・外道も本質は仏なのであって、もともと悟った仏である者が、ことさら悟りを求めて坐禅するということがあってはならない。仏が仏になることを目指すというのであれば、大乗仏教が元々仏たる性質を指摘する本意に反するからである。このように、心そのものが即そのまま仏であると教えるのは、悟り・涅槃・仏性に執着させないための方便である。
  28. ^ 心がけの良くない修行者とは、はじめから本気で仏道を求める気持ちが無く、禅僧としての名声を求めていたり、金稼ぎを目論んでいたり、他人に言い負かされたくない一心で、あるいは知識をひけらかすために経典の学習を優先し、初心者に対して褒め貶しを行うような者。
  29. ^ 心身は幻であると聞けば、諸行無常のことを言っているのだと理解するかもしれないが、大乗教では実体がないことを理由に固定観念をうち破って中道に至らせる意味で使う。水面に映った月は、実相であるとは言えないが、確かに姿を映しているように見えるから実相ではないとも言えない。有るわけでもなし無でもなし、しかし有でもあり無でもあるという中道にこそ実相があるという意味である。禅宗では、世界はこのように曖昧であるから捨て置け、坐禅せよと教える。
  30. ^ 唯識では迷妄と悟りが調和した境地を第八識、常住不滅の衆生の本心を第九識などと区別して教えた。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]