神智学協会

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神智学協会の紋章
神智学協会設立趣意書
ウイリアム・クァン・ジャッジ

神智学協会(しんちがくきょうかい)は、アメリカ生まれのヘンリー・スティール・オルコット1832年 - 1907年、初代会長[† 1])、ロシア帝国生まれのヘレナ・P・ブラヴァツキー(1831年 – 1891年)、ウイリアム・クァン・ジャッジ英語版(1851年 - 1896年)らが1875年11月にアメリカのニューヨークで興した、神智学[† 2]を振興するための神秘思想結社で、宗教団体と言われることもある[1]。結成当時は多くの人に影響を与え、のちのアメリカのニューエイジにおける様々な思想・信仰、大衆オカルティズムの起源と言われる[2][3]

神智学協会の目的[編集]

  • 人種信条性別階級皮膚の色の相違にとらわれることなく、人類の普遍的同胞愛の中核となること。
  • 比較宗教、比較哲学、比較科学の研究を促進すること。
  • 末だ解明されない自然の法則と人間に潜在する能力を調査研究すること。

概略[編集]

右から、オルコット、ベサント、レッドビータ(1905年12月、アディヤール)
ベサントとクリシュナムルティ(1911年、ロンドン)

1875年、弁護士で名誉大佐のヘンリー・スティール・オルコット(通称オルコット大佐)、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人、HPBと略記)、弁護士ウイリアム・クァン・ジャッジ英語版が中心となって、ニューヨークで神智学協会が設立された。初代会長はオルコットが務めた。

1877年、ブラヴァツキーの主著『ヴェールを剥がれたイシス』(Isis Unveiled: A Master-Key to the Mysteries of Ancient and Modern Science and Theology)が出版される。

1878年、創立時からの会員である英人チャールズ・マシィが帰国して英国神智学協会が設立される[4]。オルコットらはヒンドゥー教改革団体アーリヤ・サマージとの提携を決め、12月、オルコット、ブラヴァツキーら数名がインドに向けて出立。

1879年、ボンベイ(現ムンバイ)を拠点にインドでの活動を開始し、雑誌『神智学徒』創刊。

1880年、ブラヴァツキーがインドの有力な英字紙の編集者であったアルフレッド・パーシー・シネット英語版の夏の別荘に滞在中、シネットの求めに応じて大師クートフーミから返信の手紙が届き、以後数年間に及ぶマハトマたちとの文通が開始される(A・P・シネット宛マハトマ書簡[5][† 3]

1882年、マドラス(現チェンナイ)南郊のアディヤール (Adyar) に神智学協会本部が設立される。

1883年、協会本部内に設けられた密閉されているはずの厨子の中にマハトマ書簡が頻繁に出現するようになる[7]アンナ・キングスフォード英語版が英国神智学協会に加入、ロンドン・ロッジの長となるも、キリスト教神秘主義を志向したキングスフォードは帰国したA・P・シネットらのインド派と対立、シネットが同ロッジの会長となる[4]

1884年、ブラヴァツキーとオルコットは欧州に旅行に出る。おおぜいの聴衆に迎えられ、多くの名士や知識人、新聞記者らが見に来る。これに伴いドイツでは「ゲルマン神智学協会」が設立される[8]。アンナ・キングフォードは自身の率いるヘルメス・ロッジを「ヘルメス協会」に改組して神智学協会から独立[4]。アディヤール本部の家政を任されていた元使用人エマ・クーロンは、マハトマ書簡やその他のさまざまな奇蹟は虚偽だったと暴露し、「奇跡」を起こすように指示したブラヴァツキーの手紙を公開(クーロン事件[6]。これを機にロンドンの心霊現象研究協会は会員のリチャード・ホジソンを現地に派遣し、同年末、ブラヴァツキーがヨーロッパから帰還する前に調査が開始される。

1885年、「マハトマ書簡」の筆跡はブラヴァツキーのそれと同じであり、ブラヴァツキーは巧妙な詐欺師だと断定するホジソンの報告書が発表され(ホジソン・レポート)、協会は決定的な打撃を受ける。ブラヴァツキーは混乱を避けてヨーロッパに舞い戻り、オルコットはインドに残る。ホジソン・レポートの打撃を克服するため、ブラヴァツキーは隠棲先のヴュルツブルクで原稿を書き始める[9]

1887年、先の不祥事による混乱が沈静化すると、ブラヴァツキーはイギリスのロンドンに移り、小説家メイベル・コリンズ英語版の家に逗留。ロンドン・ロッジとは別にブラヴァツキー・ロッジを開設し、機関誌『ルシファー』が創刊される[10]

1888年、ブラヴァツキーが2年間に書き溜めた原稿が第2の主著『シークレット・ドクトリン』(The Secret Doctrine)として出版される。ブラヴァツキーのロッジ内に「秘教部」が創設される[11]

1889年、後に協会の中心となる社会活動家アニー・ベサントが加わる。

1891年、ブラヴァツキー死去。後継者としてアニー・ベサントを指名するが、権力闘争となる。

1895年、アメリカのジャッジと、インドのオルコット、ベサントが決別。アメリカのジャッジの組織は「アメリカ神智学協会」として分離独立(この分裂以降、オルコットとベサントの率いるインド、ヨーロッパの派閥をアディヤール派と呼称する)。

1896年、米神智学協会を率いたジャッジが死去し、キャサリン・ティングリー英語版がその運営を引き継ぐ(この派は後にサンディエゴ近くのポイントロマにコミュニティーを築き[12]、ポイント=ローマ派と呼ばれる[13][† 4]。ティングリーが各地で自派の正統性を訴えると、これに呼応してベルリンで米神智学協会傘下の「ドイツ神智学協会」が設立され、医師フランツ・ハルトマン英語版[† 5]がその指導者となる[15]

1897年、フランツ・ハルトマン、ミュンヘンで「国際神智学同胞会」という分派を設立(翌年ライプツィヒへ移動)[16]

1902年、会員の一人ルドルフ・シュタイナーがベルリンに神智学協会(アディヤール派)のドイツ支部を設立、その事務総長に就任。同地でシュタイナーは雑誌『ルツィフェル』を発刊(後に『ルツィフェル=グノーシス』に改名)[17]

1907年、オルコット死去、ベサントがインドの神智学協会(現神智学協会アディヤール英語版)のトップに就任。

1909年チャールズ・ウェブスター・レッドビータ英語版がインド人少年ジッドゥ・クリシュナムルティを見出し、ベサントが養子として英才教育を施す。ロバート・クロスビーが米神智学協会(ポイント=ローマ派)から分かれて「ユナイテッドロッジ」(en:United Lodge of Theosophists)を結成[18]。ブラヴァツキーの盟友であったイギリスの有力会員G・R・S・ミード英語版が脱退して「クエスト協会」を設立[18]

1912年、神智学協会の第2代会長であったベサントとレッドビータがクリシュナムルティを世界教師(=キリストの再来)とする動きに反発し、ルドルフ・シュタイナーは神智学協会を脱退。

1913年、シュタイナー、人智学協会(アントロポゾフィー協会)を設立。

1923年、米国の神智学協会(アディヤール派)に参加していたアリス・ベイリー英語版、独立して「アーケイン学校」を発足させる。

1925年、ベサントがクリシュナムルティをトップとする「東方の星教団」設立。ディオン・フォーチュンの『コスミック・ドクトリン』が発表され、フォーチュンは神智学協会キリスト教神秘主義ロッジの会長となる(1927年まで在任)[19]

1929年、クリシュナムルティ本人が「真理は集団で追求するものではない」との考えに基づき、「東方の星教団」を解散する宣言を行い、神智学およびすべての宗教から離れる。インド、スリランカなど一部を除き、神智学協会の多くの組織が離反、協会の大部分が消滅する。

1934年、レッドビータ死去。アディヤール派はベサントとレッドビータの著作をもとに神智学を再構築(ネオ神智学)。内容はブラヴァツキーのものと幾分異なる。

日本における神智学[編集]

宗教学研究者の吉永進一は、日本の霊性文化における神智学の重要度はアメリカに比べると低く、明治期から紹介されたにもかかわらず、常に忘却されていたと述べている[3]。神智学協会の活動としては、明治22年にはオルコットが来日し、文献が翻訳され神智学ロッジが作られたが、評価は一部の仏教青年に限られ、仏教復興運動が軌道に乗ると、神智学は忘れられた[3]。明治40年代には、海軍機関学校の講師であったE・S・スティーブンソンというポイント・ロマ派の人物が逗子にロッジを開き、ブラヴァツキーの書籍を翻訳している[3]。大正期には、詩人・慶応大学英語教員のジェイムズ・カズンスが中心となり、アディヤール派のロッジ活動が行われ、大正9年に東京国際ロッジが開設された[3]。その後鈴木大拙夫妻が京都にうつると、このロッジは閉鎖された。大正13年には、鈴木ビアトリスが大谷大学龍谷大学の教員を中心に大乗ロッジを発足させた。これにはアメリカのハリウッドにあるクロトナ神智学学院に滞在した宇津木二秀も参加し、京都での活動は宇津木と鈴木大拙夫妻が中心となって行われた[3]。ロッジ活動は低迷していたが、神智学の思想は大正時代以降、ある程度広まった[3]

昭和期には、教育者・牧師・翻訳者であった三浦関造[20](1883年 - 1960年)が神智学に興味を持ち、精神療法兼子尚積との出会いや見神体験を経て霊的な実践家として活動するようになった[3]。昭和5年にはアメリカに滞在し、サンディエゴのポイントロマの神智学協会で講演を行い、神智学の影響を受けたメタフィジカル教師たちと交流した[3]。神智学的なメシア論を展開し、戦中はファシスト的オカルティストと提携していた[3]。昭和28年にヨガナンダヨガ技法を集めた『幸福への招待』(東光書房、1953年)を著し、最晩年の7年間は神智学・ヨガ教師として活動し、神智学ヨガ団体「竜王会」(綜合ヨガ団体竜王会[21])を結成した[3]。(ただし、竜王会発足後に三浦が紹介したのはヨガナンダのヨガではなく、インドのヨガは堕落しており、アリス・ベイリーポール・ブラントンモーリス・ドーリルなどを学ぶことが重要であると主張している[3]。一方「いかがわしい誤謬だらけの西洋模倣ヨガの本を悉く捨ててしまいなさい」とも述べている。)三浦によって竜王文庫が設立され、機関誌『至上我の光』(昭和29年創刊)を刊行し、三浦の生前には自著や神智学、ヨガの書籍が10冊ほど出版された。当時は冷戦時代であり、三浦は終末思想を展開したドーリルの教説に特に傾倒し、ブラヴァツキーの霊的進化論、新時代の到来と終末思想、マスター(マハトマ)と彼らが住むシャンバラの存在、救世主の待望、地球空洞説ユダヤ人陰謀説などを背景に、自身の神格化を強め、竜王会は一種の宗教団体に近くなっていった[3]。昭和35年に三浦が死去したため、竜王会の終末思想は激化することはなかった[3]。会長職は娘の田中恵美子が継ぎ、竜王文庫は三浦の著作などを刊行し続け、1970年代まで神智学思想の数少ない供給源であった[3]

1971年(昭和47年)に、竜王会の内部部門として神智学協会日本支部である「神智学協会ニッポン・ロッジ」が作られ、田中恵美子が初代会長となった。田中恵美子が1995年に没した後、1996年から2003年まではジェフ・クラークが第2代会長を務めた。神智学ニッポン・ロッジは、2003年以降、竜王会と分かれ、インドのアディヤールに国際本部がある神智学協会(神智学協会アディヤール)の直属の下部団体として活動している。

[編集]

  1. ^ オルコットの興味はのちに神智学から仏教に移った。
  2. ^ ここではブラヴァツキーら神智学協会に始まる思想を指し、キリスト教の伝統における従来の神智学とは異なる。
  3. ^ 後にA・P・シネットはブラヴァツキーとは距離を置くようになるが、霊媒を使ってマハトマとの通信を継続しようとした[6]
  4. ^ ティングリー没後はパサデナに移転[12]神智学協会パサディナ)。
  5. ^ 先のリチャード・ホジソンによる調査の折、アディヤール本部の責任者を務めていた[14]

出典[編集]

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参考文献[編集]

  • 稲生平太郎 『定本 何かが空を飛んでいる』 国書刊行会、2013年
  • 山本弘 「空中から手紙が降ってくる!? 神智学の大家ブラヴァツキー夫人!」『トンデモ超常現象99の真相』 と学会[山本弘+志水一夫+皆神龍太郎]著、洋泉社、2006年
  • 横山茂雄 「影の水脈」『聖別された肉体 - オカルト人種論とナチズム』 書肆風の薔薇、1990年
  • 吉永進一 執筆 「神智学」『現代宗教事典』 井上順孝 編、弘文堂、2005年、279-280頁。
  • 吉村正和 『心霊の文化史 — スピリチュアルな英国近代』 河出書房新社〈河出ブックス〉、2010年
  • 吉村正和 『図説 近代魔術』 河出書房新社〈ふくろうの本〉、2013年
  • レイチェル・ストーム 著 『ニューエイジの歴史と現在 - 地上の楽園を求めて』 高橋巖・小杉英了 訳、角川書店〈角川選書〉、1993年
  • クリストファー・パートリッジ 著 『現代世界宗教事典—現代の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ』 井上順孝 監訳、悠書館、2009年
  • Goodrick-Clarke, Nicholas (2008). The Western Esoteric Traditions. New York: Oxford University Press. 
  • Greer, John Michael (2003). The New Encyclopedia of the Occult. Woodbury, MN: Llewellyn Publication. 

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]