フニャディ・ヤーノシュ

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フニャディ・ヤーノシュHunyadi János, 1409年? - 1456年8月11日)は、15世紀ハンガリー王国の政治家。トランシルヴァニア総督。オスマン帝国の侵攻に対して、ポーランドヴェネツィアと同盟して抵抗し、ハンガリー最盛期の基礎を作った。ハンガリーでは祖国の英雄として知られる。フニャディ・ラースローマーチャーシュ王(マティアス・コルヴィヌス, Matthias Corvinus)の父。

フニャディ姓は、父ヴァイクがヴァイダフニャド(現在のルーマニア・フネドアラ)のフニャド城を領したことから名乗ることになったと見られる。ヴァイクより前の事跡は定かでなく、ワラキア豪族がトランシルヴァニアに逃れてきたものかと推測されている。

ヤーノシュは、ハンガリー王であった神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され、傭兵隊長としてイタリアなどで戦闘に従事した。ハンガリーに戻ると、トランシルヴァニア公に抜擢される。

  • 1442年、トランシルヴァニアに侵攻したオスマン帝国軍を撃退。
  • 1443年、ハンガリー十字軍を組織してオスマン帝国を破り、ソフィアを回復。
  • 1444年、ヴァルナの戦いでオスマン帝国に大敗、ポーランド王でハンガリー王を兼ねたヴワディスワフ3世(ウラースロー1世)が戦死する。フニャディは、敗戦の責任を追及され、死刑の判決まで受けるが、それまでの功績が認められ、司令官の職を解かれて領地に逼塞させられる。このとき、フニャディを追及したのがヴラド2世ドラクルヴラド・ツェペシュの父)だったといわれる。
  • 1446年、無政府状態に陥ったハンガリー国内の混乱を収拾するため、中小貴族たちの支持によってフニャディが復権、摂政に就く(王位はラディスラウス・ポストゥムスが継いでいたが、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世に捕えられていた)。
  • 1447年、ヴラド・ドラクルが暗殺される。暗殺したのはフニャディだともいわれる。
  • 1448年、ハンガリー十字軍を組織するが、セルビアでオスマン軍に敗れる。
  • 1456年、ベオグラードを包囲したオスマン軍を破る。この勝利を記念して、ローマ・カトリック教会は正午に鐘を鳴らす習慣を始めたといわれる。しかし、フニャディは戦地で流行したペストに罹って没した。
  • 1458年、ヤーノシュの子、フニャディ・マーチャーシュがハンガリー王に即位(在位:1458年 - 1490年)。