オロモウツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
オロモウツ
Olomouc panorama.jpg
Olomouc flag.png Olomouc CZ CoA.png
位置
オロモウツの位置の位置図
オロモウツの位置
座標 : 北緯49度35分38秒 東経17度15分3秒 / 北緯49.59389度 東経17.25083度 / 49.59389; 17.25083
歴史
最初に文献に登場した年 1017年
行政
チェコの旗 チェコ
 州 オロモウツ州の旗 オロモウツ州
 郡 オロモウツ郡
オロモウツ
市長 Martin Novotný
地理
面積  
  域 103.36 km2
標高 219 m
人口
人口 (2006年現在)
  域 110,381人
    人口密度   1,068人/km2
公式ウェブサイト : [1]
大聖堂

オロモウツチェコ語:Olomoucポーランド語:Ołomuniec)は、チェコの都市。モラヴィア地方の中部に属するチェコ第5の都市。街の中心部にあるオロモウツの聖三位一体柱は、ユネスコの世界遺産に登録されている。ドイツ語ではオルミュッツ(Olmütz)。

地勢・産業[編集]

モラヴィア地方中部の農業地帯に位置しており、モラヴァ川とビストジツェ川が近くで合流する。農業機械、化学工業なども盛ん。約65キロ南西にブルノが位置している。

歴史[編集]

古代には、ローマ帝国軍の軍事拠点が置かれていたと考えられている。中世に入ると、1063年に司教座がおかれた。

1241年モンゴル帝国ポーランドに侵攻した際には、ボヘミア軍が援軍として派兵されたが、モラヴィアまでモンゴル軍に迫られた(モヒの戦いオロモウツの戦いチェコ語版ロシア語版)。 1253年プシェミスル朝のボヘミア王オタカル2世のもとで都市特権を得てモラヴィア地方における主要都市へと発展し、モラヴィア辺境伯領の都となった。

1479年にオロモウツの和議が行われ、ハプスブルク家オーストリアから追放する条約が結ばれている。しかし17世紀前半の三十年戦争の際に、スウェーデンの攻撃で荒廃し、都はブルノに移った。

19世紀、民族主義の高揚がヨーロッパ各地でみられたが、ボヘミア地方と比べると民族運動の高揚が弱く、1848年のウィーン三月革命の際には、当時の皇帝であったフェルディナント1世がこの都市へと逃れた。1850年、この都市でオルミュッツ協定が成立し、小ドイツ主義に基づくドイツ統一を図るプロイセンオーストリアがおさえた。その後、革命で解体していたドイツ連邦が再び成立した。

文化[編集]

16世紀後半に創設されたパラツキー大学がある(フランチシェク・パラツキーにちなむ)。プラハ大学(カレル大学)についで、チェコにおいて歴史のある大学である。

1716年から建設が始まったオロモウツの聖三位一体柱は、およそ40年の歳月を経て完成し、現在は世界遺産に登録されている。

姉妹都市[編集]


外部リンク[編集]