ジョージ・W・ブッシュ

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ジョージ・ウォーカー・ブッシュ
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ジョージ・W・ブッシュ

アメリカ合衆国第43代大統領
任期: 2001年1月20日 – 現職
副大統領: ディック・チェイニー

テキサス州第46代知事
任期: 1995年1月17日2000年12月21日

出生: 1946年7月6日(61歳)
コネチカット州
ニューヘイブン
政党: 共和党
配偶: ローラ・ブッシュ
サイン:

ジョージ・ウォーカー・ブッシュGeorge Walker Bush, 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国の第43代・現大統領2001年1月20日 - )である。 ブッシュは、最初に2000年の大統領選挙で当選し、2004年の大統領選挙で再選した。 彼は、1995年から2000年まで第46代テキサス州知事を務めた。また、彼は元米国大統領ジョージ・H・W・ブッシュの長男でもある。

ブッシュは大学を卒業後、彼の家族の石油会社で勤務した後、下院議員選挙に出馬したが落選した。その後、テキサス・レンジャーズを共同所有した後、テキサス知事選挙のために政治運動に戻った。彼はアン・リチャーズを破って、1994年のテキサス知事に当選した。ブッシュは接戦で論争の的になった大統領選挙において、一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。

大統領としてブッシュは、2001年に1兆3500億ドルの減税プログラムを[1] 、2002年に落ちこぼれを作らないための初等中等教育法に署名した。2001年10月、同時多発テロ後、ブッシュは世界的なテロとの戦いを発表して、アフガン侵攻ターリバーン政権を倒し、アル・カイーダを破壊してオサマ・ビン・ラディンを逮捕することを命じた。2003年3月にブッシュはイラク侵攻を命じ、イラクが国際連合安全保障理事会決議1441に違反しており、戦争がアメリカ合衆国の保護のために必要だったと主張した。[2][3]

イラク戦争の中、ブッシュは自称「戦争大統領」として出馬し[4] 、2004年11月2日に再選された。[5] ジョン・ケリー上院議員に対する彼の大統領選挙は、イラク戦争と国内問題のブッシュの遂行をめぐる論争にもかかわらず、好結果となった。[6][7]再選後、ブッシュはますます激しい批判を受けた。彼の国内の支持率は、2001年同時多発テロ直後の[8]90%(The Gallup Organizationによってこれまでに記録される最高のもの)[9]から、記録に残る中で最も低いアメリカの現職大統領の支持率である[10]2008年2月20日現在の19%にもわたった[11]

目次

[編集] 父親との呼称による区別

アメリカでは、父親のブッシュ元大統領と区別するため、第43代大統領であることから「43(フォーティスリー)」や、ミドルネームを表す「W」、またはそこから派生して「Dubya(ダビャ)」と呼ばれることもある。また(歴史的には同姓同名で血縁関係のある人物を区別する際、年長者を「大(major)○○」、年少者を「小(minor)○○」と呼ぶので)父を「大ブッシュ」と呼ぶのに対して、息子の方を「小ブッシュ」と呼ぶこともある。「Bush Jr.(ブッシュジュニア)」の称もある。

[編集] 若年期と軍歴

ブッシュが1歳の頃。父と母と。
ブッシュが1歳の頃。父と母と。
ジョージ・W・ブッシュ(後列、左から2番目)。と家族。
ジョージ・W・ブッシュ(後列、左から2番目)。と家族。
空軍州兵時代のブッシュ
空軍州兵時代のブッシュ
1990年、妻ローラと娘のジェンナ、バーバラと。
1990年、妻ローラと娘のジェンナ、バーバラと。

ブッシュは1946年7月6日コネチカット州ニューヘヴンで、ジョージ・H・W・ブッシュバーバラ・ブッシュの長男として生まれた。ブッシュは四人の兄弟、ジェブニールマーヴィンドロシーと、テキサス州ミッドランドヒューストンで育てられた。もう一人の妹・ロビンは、1953年白血病によって3歳で死亡した。[12]ブッシュの祖父・プレスコット・ブッシュコネチカット州選出の上院議員で、彼の父は1989年から1993年まで米国大統領を務めた。

ブッシュはマサチューセッツ州アンドーバーフィリップス・アカデミーに通った。そこで彼は野球をして、最終学年まで男子校のヘッド・チアリーダーだった。[13][14] 父の先例にならって、ブッシュはエール大学に通い、1968年に歴史学士号を取得した。[15]大学の専門課程に、ブッシュは秘密結社スカル・アンド・ボーンズのメンバーになった。[16][17]

1968年5月に進行していたベトナム戦争のまっただ中に、ブッシュは適性検査の筆記試験で、下から25番目の成績だったにも関わらず[18][19]、合格の最低点だったので[20] 、テキサス空軍州兵に認められた[21]。これは、一度に一万人以上の空軍州兵人員(多くの戦闘機パイロット)がベトナムの作戦を支援するために招集されていた時期だった。[22] 訓練の後、彼はヒューストンで任務を任せられ、エリントン空軍基地からコンベアF-102を飛ばした。[23]批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために、軍務で有利に扱われ、正常な兵役ではなかったと主張した。合衆国国防総省は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録を全てを公開した。.[24] 1970年に、ブッシュはテキサス法科大学に出願したが、不合格にされた。[25] ブッシュは共和党の議会選挙活動に取り組むために、1972年アラバマ空軍州兵へ転任し、1973年10月にハーバード・ビジネス・スクールに通うために、約8ヶ月早くテキサス空軍州兵を退役して、不十分に6年間の兵役義務を終了した。[26]

この時期に、ブッシュにはいくつかの薬物乱用治安紊乱行為の報告があった。ブッシュはその時期に「あまりにも多く」飲んでいたことを認め、彼の人生のこの期間を「無責任な青春期」の「放浪」の期間だったと言った。[27]1976年9月4日、ブッシュは30才で、家族の夏の別荘付近で、飲酒運転容疑で逮捕された。彼は罪を認めて150$の罰金を科され、運転免許証1978年までメインで停止された。[28][29]

ハーバード大学MBAを取得した後[30]、ブッシュはテキサスの石油工業会社に入社した。1977年に、彼は友人に学校教師・司書のローラ・ウェルチ・ブッシュを紹介された。彼らは結婚して、テキサス州ミッドランドに居住した。ブッシュは妻の合同メソジスト教会に入会するために、米国聖公会を脱会した。[31]

1978年にブッシュはテキサス州の19下院議員選挙区から立候補した。ブッシュは、ブッシュが地元と接触していなかったと描写した相手ケント・ハンスに、6000票の差で負けた。[32] ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー[33]スペクタン・7ハーケン・エネルギーなどの会社の社長、最高責任者となった.[34]これらの事業は、1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした、石油価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれないインサイダー取引の疑惑が起こったが、証券取引委員会(SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた。[35]

1988年にブッシュは、ワシントンD.C.で家族と父の大統領選挙活動に取り組んだ。[36][37] 選挙運動の後、1989年4月にブッシュは、テキサス・レンジャーズの株を購入し、5年間無限責任組合員を勤めた。[38] ブッシュは活発にチームの企画を指導して、定期的に試合に出席し、しばしばファンと売店に座ることを選んだ。[39]1998年、ブッシュは最初に80万ドル投資したレンジャーズの株式を売却し、1500万ドルの利益を得た。[40]

[編集] テキサス州知事

ブッシュは1994年のテキサス州知事選挙に出馬を表明したが、これは弟のジェブ・ブッシュのフロリダ州知事選出馬と同時である。共和党の予備選挙で大勝し、人気のあった現職のアン・リチャーズ知事(民主党)との一騎打ちとなる。

ブッシュにはKaren Hughes、John Allbaugh、Karl Roveといった選挙参謀がついた。ブッシュの選挙運動に対して、リチャーズ知事へのアンフェアな中傷であるとする批判も上がった。しかし公開討論での効果的な弁舌により、ブッシュの人気は上昇した。結果、11月8日の選挙において、52%対47%の得票率で当選した。[41]

知事としてブッシュは、首尾良く不法行為改革のための法律を支援し、教育資金の支出を増やして学校の教育水準を上げ、刑事制度改革を行った。ブッシュは152人の死刑を執行させたが、これはアメリカにおいて一人の州知事が執行させた死刑数としては最高記録である。[42] ブッシュは20億ドルの歳入超過を減税に回したが、これはテキサス州における減税額の最高記録である。この減税により、ブッシュは企業活動を擁護する経済右派としての評価を確立した[41]

ブッシュはまた教会などの宗教組織による教育、アルコール・薬物依存症対策、家庭内暴力対策活動への政府支出を行った。ブッシュは6月10日をテキサス州の「イエス(・キリスト)の日」と定め、この日には「支援を必要とする人々への奉仕をテキサス州民に要請する」とした。[43]

1998年11月3日には69%の得票で再選を果たす。[44] 同年、共和党大統領候補予備選挙への出馬を表明する。大統領選挙当選に伴い、知事職は2期目途中で辞任(知事就任期間:1995年1月17日-2000年12月21日)。

[編集] 大統領職

[編集] 1期目

「愛国者法」にサインするブッシュ
「愛国者法」にサインするブッシュ
「盟友」のブレア首相と
「盟友」のブレア首相と

大統領の第1期目は、ほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦を勝利し、2001年1月20日に大統領に就任。民主党候補アルバート・ゴアが、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟ジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の、一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし、最終決着するまでゴア陣営の激しい反発に合い、またフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)、発足当初の国民支持率は高いものではなかった。

任期9か月目の9月11日ニューヨークワシントンD.C.同時多発テロが発生。彼は世界貿易センタービル跡地を見舞い、リーダーシップを発揮して驚異的な支持率を獲得した。直後に報復攻撃の準備に取り掛かり、対テロ戦争と名づけたこの戦争は、概ね世界各国の同情と賛同を受け、10月7日アフガニスタン侵攻によって開始された。また国内では、テロ対策に不可欠だとして「パトリオット法」愛国者法)を制定する。しかし、炭疽菌小包による無差別殺人が一時横行し、同時テロとともに国内はパニック状態になった。一方、アフガニスタン作戦は順調に進み、12月7日にはタリバーン政権は壊滅、同月に新政権を樹立させた。

2002年1月、一般教書演説において悪の枢軸発言。これはイラクイラン北朝鮮大量破壊兵器を開発保有するテロ国家と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては武装解除問題を抱えていたので厳しい態度で臨み、国連の査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。翌2003年に入ると、いよいよイラクに対し強硬姿勢を採るようになる。しかし、フランスドイツロシア中華人民共和国などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁攻撃に反対した。また、国際的にも開戦反対の市民運動が起こっていたが、支持率自体は相変わらず高かった。

「大規模戦闘の終結宣言」を行うため空母に降り立ったブッシュ大統領
「大規模戦闘の終結宣言」を行うため空母に降り立ったブッシュ大統領

3月17日にブッシュはサッダーム・フセインと側近に対して、48時間以内の国外退去を求める事実上の最後通牒を発表。3月19日、最後通牒を無視したイラクに対し開戦(イラク戦争)した。作戦は順調に進み、5月1日には「大規模戦闘の終結宣言」を行ったが、これについて特にイラク側との協定はなく、実際にはまだ戦時中であった。イラクはアメリカ・イギリス・ポーランドによる分割占領と、連合国暫定当局による統一した国家運営を行い、徐々に民主化することとした。

7月11日には、アメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59%に急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの逮捕に成功し、裁判の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際はアメリカ軍を狙った攻撃や自爆テロが絶えず、死者は湾岸戦争の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。

[編集] 2期目

第二期目における一般教書演説を行なうブッシュ
第二期目における一般教書演説を行なうブッシュ
ロンドン同時爆破事件に関する声明を発表するブッシュ。第31回主要国首脳会議の会場であるイギリスグレンイーグルズホテルにて
ロンドン同時爆破事件に関する声明を発表するブッシュ。第31回主要国首脳会議の会場であるイギリスグレンイーグルズホテルにて
ハリケーンの被災地を訪れニューオーリンズ市長と握手をするブッシュ
ハリケーンの被災地を訪れニューオーリンズ市長と握手をするブッシュ
サミットにアメリカ合衆国大統領として参加(手前の列、左から4番目)
サミットにアメリカ合衆国大統領として参加(手前の列、左から4番目)

2004年、ブッシュは再び大統領選挙に立候補したが、都市部のリベラル層がブッシュ支持から離反し、同時多発テロ発生後やイラク戦争開戦時の高支持率は維持できず、特に選挙戦の終盤は、対立候補の民主党ジョン・ケリー上院議員と支持率は拮抗しているとたびたび伝えられた。しかし、最終的にはブッシュが1988年の大統領選挙以来となる、過半数の51%を得票、選挙人もケリー候補を34人上回る286人を獲得し、2回目の当選を果たすことになった。

2005年2月2日、第2期目における一般教書演説を行った。外政に関しては各国との協調路線を取ると述べた。イラクの国民議会選挙を評価し、イランの核開発問題に対して強硬な姿勢を打ち出し、さらに、中東各国の和平・民主化、シリアの正常化、核開発を進めていることを明言している朝鮮民主主義人民共和国の核廃棄問題などを取りあげ、世界を自由にするという決意を述べた。

8月29日ルイジアナ州ハリケーン・カトリーナが上陸。ハリケーンで過去最大級の犠牲者を出す災害となったにもかかわらず、政府の予防の不十分さと対応の遅れが非難された。本来、攻撃や災害から住民を守るべき州兵までイラクへ派兵されていることも大いに疑問視された。また、彼の母親であるバーバラ・ピアスが被災地を訪れた時のインタビューで「被災地に住む人は貧困層ばかりで、避難所に入れた方が恵まれている」と発言し、批判はさらに高まった。実際、被災者への支援は白人系の富裕層に偏っており、逃げ遅れて被害に遭った貧困層の救援は後回しで、衛生状態が悪い中、放置された。

さらに10月には、イラク戦争開始前にイラクの大量破壊兵器購入に懐疑的な見解を述べた、元駐ガボン大使ジョセフ・ウィルソンの妻バレリー・プレイムCIAの工作員であると意図的に情報漏洩し、元大使の信頼性を落とそうと画策した事件に関し、チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーが、事件の主導人物の隠蔽目的の偽証罪に問われ米連邦大陪審に起訴される(プレイム事件)。その後リビーは一審有罪判決を受け、さらに副大統領も情報漏洩の主導的関与を行った疑いが持たれている。

この影響で、11月にニューズウィーク誌が実施した世論調査によれば、支持率は36%にまで低下。他の世論調査でも支持率が低下しており、ブッシュ政権は2期目の最初の1年目から試練に直面した。年末、ブッシュはイラク開戦の重要な根拠となった大量破壊兵器の報告に誤りがあったと発表した。開戦以前からイラクの武装解除は順調に行われていたことがすでに明らかになっていたが、これを追認する形となった。しかしながら、フセインの圧政からイラク人を解放したことを強調し、戦争の正当性を改めて訴えた。

2006年11月8日に行われた中間選挙で、与党共和党は敗れ、民主党に連邦議会上下両院の多数派の座を奪われた。このため、ブッシュはイラク政策の責任者であったラムズフェルド国防長官の辞任(事実上の更迭)を発表。後任にロバート・ゲーツ元CIA長官を指名した。

その後も、相次ぐ閣僚の不祥事や原油高による経済への不満などもあり支持率は低迷。2007年5月には支持率が最低の28%となるなど、苦しい政権運営を強いられている。報道官などのスタッフを入れ替えて人事の刷新を図ったが、成功していない。マスコミではレームダック化も指摘されている。

今後は、議会多数派の民主党との妥協を余儀なくされるため、政策を変更せざるを得なくなると予想されている。

2007年3月には“老朽化した核弾頭の更新”を名目に、冷戦終結後初めての新型核弾頭設計に着手する事を表明。2012年を目途にSLBMへの配備を目指すとしている。

2007年6月28日、事実上政権の“遺産”となると思われた共和党提出の『不法移民の在留資格獲得に道を開く移民制度改革法案』が米上院における採決で否決された。法案は、アメリカ・メキシコ国境の警備を強化する一方で、すでに入国した不法移民に罰金支払いや身元審査を条件に就労の合法化や永住権取得に道を開く包括的な改革であったが、共和党反対派が大々的なキャンペーンを行い、推進派からも内容の一部をめぐり反対の意見が出た。ブッシュは賛成を求めて電話で最後の説得にあたったが、「支持率が記録的に落ち込んだ彼の懇願は実を結ばなかった」(米紙ワシントン・ポスト)という。

2007年9月オーストラリアシドニーで行われたAPECの演説で、OPECと言い間違えた上にこの演説で三回もの言い間違いをし、参加者から失笑をかった。

[編集] イラク戦争

国連安全保障理事会でイラクを批判するブッシュ
国連安全保障理事会でイラクを批判するブッシュ
イラク駐留が長期化するにしたがい、低下に歯止めがかからなくなった支持率(ギャラップ/『USAトゥディ』による世論調査、青:支持する、赤:支持しない、緑:どちらでもない)
イラク駐留が長期化するにしたがい、低下に歯止めがかからなくなった支持率(ギャラップ/『USAトゥディ』による世論調査、青:支持する、赤:支持しない、緑:どちらでもない)

ブッシュ政権は、イラクが国際原子力機関 (IAEA) の査察に全面的に協力しないこと、生物兵器化学兵器も含め大量破壊兵器を隠し持っていることなどを強く主張し続けた(イラク武装解除問題)。先制攻撃も辞さないこと、軍事行動を肯定する国連安全保障理事会による決議は「望ましいけれども必要ではない」ことなどを主張し、2003年3月17日(アメリカ現地時間)国際法に則り「48時間以内にフセイン大統領とその息子がイラクを去らなければ軍事行動を行う」という最後通告を行った。

国連の武器査察団による査察が継続されるなか、フセイン政権はこの譲歩案を拒否し、通告どおり2003年3月19日(アメリカ現地時間)に軍事作戦が開始された(空爆そのものは1998年以降、英米軍によって頻繁かつ継続的に行われている)。戦争に至る経緯においてアメリカは、フセイン政権に対し一応の説得を続けていた。このためブッシュ支持者の側には、フセイン政権が過去のアメリカや国連の要求を受け入れていれば戦争そのものが起きなかったとする意見もある。

開戦の決断によってイラク市民が独裁者から解放され、かつジェノサイドにも近い弾圧を受け続けてきたクルド人が生きる権利を獲得できたとする主張がある一方で、イラクの住民の間では、戦争によって生活がさらに苦しくなり、民族間紛争の激化などによる治安の悪化が起きたとして、フセイン政権時代を肯定的に見る意見も存在する。またアメリカ軍占領下での情勢があまりにひどいものであったため、積極的にフセイン政権を支持するわけではなくとも、「(アメリカ軍に占領されている今より)フセイン時代の方がマシだ」と言った、消極的にフセイン時代を支持する人も含めると相当な数にのぼる。

また、アメリカの主張する、「イラクがアルカーイダ等のイスラム原理主義テロリストの支援を行った」云々は、フセインがイスラム原理主義者でなく逆の“アラブ民族主義者”であり、両者は犬猿の仲であることを無視した主張であるという意見もある。

およびこの戦争では、バグダードが占領される前より、占領した後に死傷した兵士の数の方が多い。戦車や戦闘機など大掛かりな兵器を早々に手放して兵力を温存させ、隠しておいた手榴弾や小型爆弾のような小型の兵器、あるいは地雷などを流用した即席爆発装置を使ってゲリラ戦に持ち込まれたことがその要因である。イラク軍内では開戦前からそのような方法が研究されていたにもかかわらず、情報を見過ごしていた、あるいは過小評価していたことが要因である。これは完全に先見の明がなかったことをあらわしている。

詳細はイラク戦争を参照。

[編集] 政権

[編集] 政権スタッフ

職名 氏名 任期
大統領 ジョージ・ウォーカー・ブッシュ 2001 -
副大統領 ディック・チェイニー 2001 -
国務長官 コリン・パウエル 2001 - 2005
コンドリーザ・ライス 2005 -
国防長官 ドナルド・ラムズフェルド 2001 - 2006
ロバート・ゲーツ 2006 -
財務長官 ポール・H・オニール 2001 - 2003
ジョン・W・スノー 2003 - 2006
ヘンリー・M・ポールソン 2006 -
司法長官 ジョン・D・アシュクロフト 2001 - 2005
アルバート・R・ゴンザレス 2005 - 2007
マイケル・B・ムケイジー 2007 -
内務長官 ゲイル・A・ノートン 2001 - 2006
ダーク・A・ケンプスロン 2006 -
農務長官 アン・ヴェネマン 2001 - 2005
マイク・ジョハンズ 2005 - 2007
チャールズ・F・コナー 2007 - 2008(代理)
エドワード・T・シェイファー 2008 -
商務長官 ドナルド・L・エヴァンズ 2001 - 2005
カルロス・M・グティエレス 2005 -
労働長官 イレーン・チャオ 2001 -
保健社会福祉(厚生)長官 トミー・G・トンプソン 2001 - 2005
マイケル・O・リーヴィット 2005 -
都市住宅開発長官 メル・R・マルチネス 2001 - 2003
アルフォンソ・R・ジャクソン 2004 -
運輸長官 ノーマン・Y・ミネタ 2001 - 2006
マリア・シノ 2006 (代理)
メアリー・ピーターズ 2006 -
エネルギー長官 E・スペンサー・エイブラハム 2001 - 2005
サミュエル・W・ボドマン 2005 -
教育長官 ロッド・R・ペイジ 2001 - 2005
マーガレット・スペリングス 2005 -
退役軍人長官 アンソニー・J・プリンシピ 2001 - 2005
R・ジェームズ・ニコルソン 2005 - 2007
ゴードン・H・マンズフィールド 2007 (代理)
ジェームズ・B・ピーク 2007 -
国土安全保障長官 トム・J・リッジ 2003 - 2005
マイケル・チャートフ 2005 -

ブッシュ政権は、ネオコンと称される閣僚が占める要職も多く、武力による他国の民主化、中東の石油をめぐる利権追求、アメリカの覇権の追求(一国主義覇権主義)などが外交政策に見え隠れしているとされている。

[編集] 政策

経済政策上は減税、企業活動重視、自由貿易グローバル資本主義)推進、福祉削減など新保守主義に始まる新自由主義的政策、「小さな政府」の方針と重なるところも多い。しかしながら、クリントン政権が大きな財政黒字だったのに対し、ブッシュ政権は2つの大きな戦争に参加するなどして膨大な軍事支出を生じさせたため、実際の財政支出はかなり大きくなり、2004年には史上最大の4130億ドルもの財政赤字に苦しんでいる。[45]ブッシュ自身は、かかる自らの政策を「思いやりのある保守主義」(Compassionate Conservatism)と称している。

外交面では政権内のネオコンと呼ばれる人々によって特徴付けられ、武力によって他国に介入し、民主化するというタカ派戦略を採り、イラク戦争アフガン戦争を引き起こした。

ブッシュを支持する共和党支持者の中には、キリスト教福音派の原理主義者が多く含まれ、ブッシュは彼らの道徳や倫理観に配慮した政策を打ち出す傾向があるという意見もある。旧知のハリエット・マイヤーズアメリカ最高裁判所の判事に指名した際、マイヤーズが弁護士時代に中絶に関する質問に対して曖昧な答えを残していたことなどから反発を受け、断念せざるを得なくなるという事例もあった。

他に話題を呼んだ政策として、次のようなものが挙げられる。

なお、ブッシュの下で副大統領を務めているディック・チェイニーは、父の大ブッシュの下で副大統領を務めたダン・クエールより年長である。

[編集] 地球温暖化

ブッシュ政権は地球温暖化問題への取り組み(温室効果ガスの排出削減対策)に消極的だと言われる。科学誌ネイチャーによると、ハリケーン被害が増大している一因は温暖化であるとする内容の報告書を米国海洋大気局が発表しようとした際、ブッシュ政権からの圧力によって阻止されてしまったという[46]

[編集] 外交政策

[編集] 日本

[編集] 小泉元首相との関係

小泉純一郎首相在任中には個人的な繋がりをアピールしており、2006年6月に小泉首相が訪米した際には、ワシントンD.C.から、小泉首相がファンであるエルヴィス・プレスリーの自宅兼博物館のあるメンフィスまでエアフォースワンで同乗し、プレスリーの自宅を自分の妻とプレスリーの元妻とその娘との4人で案内するなどしている。

[編集] その他

その一方で、在日米軍基地再編米国産牛肉の輸入問題などで日米両政府の見解が一致しない政策もある。また、政権末期には北朝鮮に対して宥和政策に転じるなど、拉致問題で対北朝鮮強硬姿勢を取る日本との歩調のズレが目立ち始めている。

2007年8月、アメリカ中西部ミズーリ州カンザスシティで行なった演説で第二次世界大戦前の日本について 「民主主義は日本では決して機能せず、日本人もそう思っているといわれてきたし、実際に多くの日本人も同じことを信じていました。民主主義は機能しないと」「日本の国教である『神道』があまりに狂信的で、天皇に根ざしていることから、民主主義は日本では成功し得ないという批判もあった」と述べている。[47]

[編集] 中華人共和国

政権初期は、「中華人共和国の経済成長はアメリカの国益に対する脅威」とみなし、2001年4月に東シナ海でおきたアメリカ海軍偵察機と中国人民解放軍機との接触事故では、「アメリカ側に責任は無い」とするなど強硬な態度であったが、後に経済的な理由から接近し始めている。

[編集] 北朝鮮

政権初期は「悪の枢軸」として批判を行うなど強硬姿勢を取っていたが、政権末期に対話を軸として核兵器問題の解決を目指す宥和政策に転じ、「核施設の無能力化を進めれば、日本人拉致問題の進展とは関係なく、テロ支援国家指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている。[48]

[編集] 人物

大統領候補時代に、記者から「パキスタンの大統領の名前は?」と質問され答えられない[49]など、就任前から大統領としてふさわしい知性の持ち主か否か、危ぶむ意見も一部で存在した(ブッシュが同じ質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候補だ」と返された)。大統領就任後も、ブラジル大統領に「あなたの国にも黒人はいるのか?」と質問する[50]など、知性を疑われるような発言を何度も繰り返したため、その迷言癖を「ブッシズム」と呼ばれるようになった。

また、耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、アブグレイブ刑務所の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を一度もまともに言えなかった。

第1回目の大統領選挙の公開討論の席で、ゴア候補がブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。

ブッシュ自身は側近の意見に耳を傾けていると言われ、特に外交に関しては穏健派のパウエル国務長官と強硬派のライス補佐官に議論をさせ、ライスの意見を支持しイラク戦争に向かったとされる。ライス補佐官は第2期政権において国務長官に起用された。ブッシュの意を受けたライスは国防総省を牽制しつつ、外交に重きを置きながらイラクの武力支配を正当化しようという戦略をとっている。

また戦争中に、ラムズフェルド国防長官が戦死した兵士の家族への手紙の署名にオート・ライターを使用したのとは対照的に、ブッシュは直筆の手紙を出し続けている。また、人権問題に関心が深いこともあり、北朝鮮による日本人拉致問題に深い興味と理解を示し、拉致被害者の横田めぐみの家族が訪米した際には、ホワイトハウスに招いて面会している。

2002年1月テレビでフットボール観戦中、また2003年3月テレビ演説でイラクのフセイン大統領に最後通告を行った後に、菓子のプレッツェルをのどに詰まらせて気絶し、マスコミに大きく報じられたことがある。

自身が大統領職から退く2008年アメリカ合衆国大統領選挙については長く触れることを避けてきたが、2007年9月に ヒラリー・クリントン候補について「彼女は全米レベルで存在感がある」と指摘。「我々(共和党)の候補は彼女を打ち破ると思うが、厳しい選挙戦になるだろう」と指摘した。 なお、ジョン・マケイン候補の支持を公式に打ち出している。

AP通信社がアメリカ国民を対象に行った世論調査では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、オサマ・ビンラディンサダム・フセインマフムード・アフマディーネジャード金正日。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。人柄は、悪人ではないが、頑固で無能な点で、歴代最悪の大統領とも評されている。

[編集] 宗教

愛犬のバーニー
愛犬のバーニー

このように無軌道な時代もあったものの、1985年ビリー・グラハム牧師と出会って以降、その当時患っていたアルコール依存症ローラ夫人の支えもあって克服し、現在では敬虔なクリスチャンとして知られている。ブッシュは、キリスト教右派の勢力を積極的に支援しており、彼自身もキリスト教右派であると考えられている。[要出典]

[編集] 愛読書

意外な読書家としての側面も知られており、専用機での時間や週末の多くを読書に費やすという[51]。ジャーナリストのエリザベス・ビュミラーの取材によると、愛読書として聖書のほか、建国者ワシントンハミルトンの評伝があげられた。この他トム・ウルフの小説の熱烈なファンで、イスラエルの作家ナタン・シャランスキーの本を盛んに周囲に勧めていたことが伝えられている。[52][53]

[編集] ペット

動物愛好家として知られており、愛のバーニーをはじめ、トカゲなど複数のペットを飼育している。また、昆虫収集に熱心である。特にホワイトハウス内で同居している愛のバーニーは、テレビで一緒の姿を映されることも多いためアメリカ国内ではつとに有名である。

[編集] イスラーム原理主義者による評価

イスラーム原理主義者からは、ダール・アル=イスラーム(イスラームの家)に二度(アフガニスタン、イラク)も『十字軍』を派遣し、イスラームの聖戦士たちを打ち破り、ムスリムを大量に殺害した『不信心者(カーフィル)の酋長』、『悪魔の手先』としてすさまじい憎悪を浴びせられている。[要出典]

また実際にブッシュは反イスラーム主義者であるという意見もある。ブッシュがアフガニスタン侵攻を当初『十字軍』と呼ぶなど、キリスト教信仰を前面に押し出している事からイスラーム世界ではこのような意見が広まっている[要出典]

[編集] 出典

  1. ^ "$1.35 trillion tax cut becomes law" 2007-10-21閲覧.
  2. ^ "March 18, 2003 Presidential Letter" Whitehouse.gov. 2006-05-25閲覧.
  3. ^ Powell, Colin (February 5, 2003). "U.S. Secretary of State Colin Powell Addresses the U.N. Security Council" Whitehouse.gov. 2006-05-25閲覧.
  4. ^ "Transcript for Feb. 8th" MSNBC: 2004-02-08. 2006-09-09閲覧.
  5. ^ 2004 Presidential Election Results
  6. ^ 13 October 2004 "The Third Bush-Kerry Presidential Debate" transcript
  7. ^ CNN's exit poll showed Terrorism (19%) and Iraq (15%) as the third and fourth most important issues behind Moral Values (22%) and the Economy (20%) "CNN — U.S. President / National / Exit Poll / Election 2004"
  8. ^ "Voters Unhappy with Bush and Congress" Reuters: October 17, 2007. 2007-10-17閲覧.
  9. ^USAT/Gallup Poll: Bush approval at new low; Republican support eroding”, USA Today, 10 July 2007. 2007-11-28閲覧.
  10. ^Disfavor for Bush Hits Rare Heights; In Modern Era, Only Nixon and Truman Scored Worse, Just Barely”,