王岐山

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王岐山
Wang Qishan.jpg
生年月日 1948年7月1日(65歳)
出生地 中華民国の旗 中華民国山東省青島市
出身校 西北大学歴史学部
所属政党 Flag of the Chinese Communist Party.svg 中国共産党
親族 姚依林(元副総理、妻の父)
配偶者 姚明珊

中華人民共和国の旗 国務院副総理
内閣 第2次温家宝内閣
任期 2008年3月17日 - 2013年3月16日
国家主席 胡錦濤
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王岐山
各種表記
繁体字 王岐山
簡体字 王岐山
拼音 Wáng Qíshān
和名表記: おう きざん
発音転記: ワン・チーシャン
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王 岐山(おう きざん、ワン・チーシャン、1948年7月1日 - )は中華人民共和国政治家経済学者。第2次温家宝内閣で国務院副総理を務め、現在は第18期中国共産党中央政治局常務委員中国共産党中央規律検査委員会書記を務める。姚依林元国務院常務副総理(第一副首相)の娘である姚明珊を妻に持ち、太子党に属する。

経歴[編集]

山東省青島市で生まれる[1]。原籍は山西省天鎮県。文化大革命期の1969年1月より陝西省延安県馮荘公社で知識青年として労働に従事。1971年から1973年にかけて陝西省博物館に勤務。陝西省に下放中、姚依林の娘の姚明珊と出会う[2]。1973年、西北大学歴史学部歴史学専攻に入学。1976年に卒業し、再び陝西省博物館に勤務。1979年より中国社会科学院近代歴史研究所実習研究員として史学研究に従事する。折しも時代は改革開放の幕開けを迎えており、王は経済問題の研究に着手し、関係の論文を執筆発表した[3]1982年北京に異動となり、中国共産党中央書記処農村政策研究室に配属、国務院農村発展研究センター処長・副局級研究員・連絡室副主任となる。翌年2月、中国共産党に正式に入党。党中央と国務院の研究機関に職を得た王は、農村問題の専門家として知られるようになる[3]1986年、党中央書記処農村政策研究室正局長級研究員・国務院農村発展研究センター連絡室主任兼全国農村改革試験区弁公室主任に昇格。その後、国務院農村発展研究センター発展研究所所長代理や同所長を歴任する。

1988年中国農村信託投資公司総経理・党委員会書記に就任。翌年、中国人民建設銀行副行長(副頭取)・党組成員に移り、以後、金融畑を歩む。人民建設銀行副行長在職中の1992年9月から11月にかけて党中央党校省部級幹部研修班で学ぶ。1993年中央銀行である中国人民銀行の副行長(副総裁)・党組成員となる。翌年、中国人民建設銀行行長・党組書記に就任。1995年8月、王は中国で初めての国際的な投資銀行である中国国際金融有限公司(中金公司)の設立を主導した。これは中国で初めての国際的な投資銀行であった。中金公司の会長を兼任した王は、彼が主導した多くの投資プロジェクトにより国際金融市場の注目を受けた[3]1996年中国建設銀行行長・党組書記に就任。

1997年アジア金融危機が爆発すると、香港経済は大打撃を受け、その後背にある中国最大の対外貿易省の広東省にも危機が蔓延した。建設銀行改革の手腕を朱鎔基1998年国務院総理に就任)から認められた王は、同年9月の第15回党大会で党中央候補委員に選出され、広東省党委員会常務委員として同省に赴任、翌年には広東省常務副省長に就任し、金融を主管して全省に蔓延していた支払危機の処理を指導した[3]。とりわけ、広東国際信託投資公司(GITIC)と粤海の債務の金融処理問題では、王は中央の助けを得ず、香港経済を混乱させずに問題を処理した。1999年1月10日、王は債務超過の深刻なGITICを破産・閉鎖させたが、この王の案は、中央上層部の金融改革の原則を体現したものであった。すなわち、政府と企業を分離し、政府が国有金融機関の債務償還を肩代わりする過去のやり方を改め、政府の信用と企業の信用が未分離なモラル・ハザードの時代を終結させるものだった[4]。一方、粤海については再建に着手したが、これについて王は「(粤海は)国外の集団公司であり、5つの上場会社が関連しており、我々は香港市場の安定を考慮しなければならない。香港の株式市場を混乱させたくはない」と説明している[4]。王はゴールドマンサックスの協力を得て外国の債権者と粘り強く交渉し、2002年12月、広東省政府は外国債権者と粤海再建について合意を得た[5]。なお、同時に広東省政府は中央人民銀行から380億元の融資を受け、広東省内の800余りのローカルな中小ノンバンクを再建・閉鎖し、広東金融は危機を乗り越え安定化した[6]

このような経済手腕を買われた王は、2000年に国務院経済体制改革弁公室主任・党組書記に抜擢され、2002年11月の第16回党大会で党中央委員に昇進。11月23日海南省党委書記に任命され[7]、同省人民代表大会常務委員会主任を兼任した。

2003年、新型肺炎SARSが蔓延し、北京では患者の隠蔽問題によって当時の市長の孟学農が更迭された。王は北京市に移り、同年4月20日に市党委副書記に就任、4月22日には市長代理を兼任[8]して事態の沈静化に成功した。広東金融危機とSARS問題を鎮めた王は、「消火隊長[6]」「火消し役[2]」と呼ばれるようになる。2004年2月、第12期北京市人民代表大会第2回会議において正式に北京市長に選出された。北京市長在職中は、北京市オリンピック組織委員会執行主席として、2008年に開催される北京オリンピックの準備に当たった。

2007年10月の第17回党大会で党中央委員に再選された王は、10月22日に開催された第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)で党中央政治局委員に選出される。同年11月29日、北京市長兼市党委副書記を退任。そして、翌年3月の第11期全国人民代表大会第1回会議に山東省代表(議員)として選出[6]された王は、3月17日、同会議において国務院副総理に選出され、商務、金融、市場管理、観光などを担当することとなった。折しも世界金融危機が中国にも打撃を与えていたが、王は4兆元の景気刺激策を断行して金融危機を乗り切った[2][9]。この手腕は国務院内で高く評価され、温家宝国務院総理の後継者と目された常務副総理の李克強が危機管理に弱いとされた一方、大規模財政出動を主導して危機を乗り越えた王の方が総理にふさわしいと言い切る国務院幹部もいたという[9]

2012年11月15日、第18期1中全会で習近平指導部が発足すると、王は党中央政治局常務委員、党中央規律検査委員会書記に選出された。王は党中央規律検査委員会書記に就任して直ちに腐敗官僚の摘発を指揮しているが、汚職の嫌疑により摘発された官僚の大半は習近平と争う胡錦濤派の人物であった。これについて王が同じ太子党の習と手を結び、「2017年の第19回党大会で、最高指導部入りする可能性のある胡派の次世代指導者の周辺にターゲットを絞り、調査したのではないか」と指摘する説がある[10]。翌年3月16日李克強内閣の発足に伴い、国務院副総理を退任。

脚注[編集]

  1. ^ 高橋・21世紀中国総研(2009年)、417ページ。
  2. ^ a b c 『火消し役』の金融専門家=王岐山副首相―中国新指導部」時事通信(時事ドットコム)、2012年11月15日付配信記事(2012年12月9日閲覧)。
  3. ^ a b c d 田中(2008年)、1ページ。
  4. ^ a b 田中(2008年)、2ページ。
  5. ^ 田中(2008年)、2 - 3ページ
  6. ^ a b c 田中(2008年)、3ページ。
  7. ^ 2002年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2002年度版(2012年12月9日閲覧)。
  8. ^ 2003年中国重要日誌」アジア動向データベース(アジア経済研究所)、2003年度版(2012年12月12日閲覧)。
  9. ^ a b 城山英巳「中国共産党大会 権力闘争の全内幕 江沢民に巻き返された胡錦濤と薄熙来・毛沢東という『亡霊』」『WEDGE Infinity』2012年11月22日付配信記事(2012年12月13日閲覧)。
  10. ^ 矢板明夫「習近平派が胡錦濤派追い落としか 中国、反腐敗名目で権力闘争」『産経新聞』2012年12月8日付記事(2012年12月9日閲覧)。

参考文献[編集]

  • 高橋博・21世紀中国総研編『中国重要人物事典』(蒼蒼社、2009年)
  • 田中修「王岐山のプロフィール」、特定非営利活動法人日中産学官交流機構、2008年(2012年12月9日閲覧)

関連事項[編集]

外部サイト[編集]

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代:
孟学農
北京市長
2003年 - 2007年
次代:
郭金龍
Flag of the Chinese Communist Party.svg中国共産党
先代:
賀国強
中央規律検査委員会書記
2012年 -
次代:
現職
先代:
白克明
海南省党委書記
2002年 - 2003年
次代:
汪嘯風