オレンジ革命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オレンジ・リボン(革命のシンボルデザイン)

オレンジ革命(オレンジかくめい、ウクライナ語: Помаранчева революція)とは、2004年ウクライナ大統領選挙の結果に対しての抗議運動と、それに関する政治運動などの一連の事件のこと。選挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン(右イメージ参照)、"Так! Ющенко!" (「ユシチェンコにイエス!」) と書かれた旗、マフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれる。同時にこの事件はヨーロッパロシアに挟まれたウクライナが将来的な選択として、ヨーロッパ連合の枠組みの中に加わるのか、それともエネルギーで依存しているロシアとの関係を重要視するのかと言う二者択一を迫られた事件でもある。

なお、この運動を支援した「ORANGE REVOLUTION」は、“民主化促進”を口実に、体制の親米化工作を行なっているアメリカのNGOであることが確認されている(ジョン・マケインは元代表で、現在も中枢にいる大物である)。

目次

[編集] 背景

ウクライナは1991年ソビエト連邦から独立したが、ソ連解体後も黒海に面するウクライナはロシアにとって地政学的に重要な地域として捉えられ、カスピ海で産出される石油天然ガスの欧米に対しての積み出し港として重要な位置を占めていた。又ウクライナは国内においてエネルギー資源を産出できなかったため、この分野に関してはかなりの割合をロシアに依存していた。

ユシチェンコを支持する野党支持者(キエフ)

一方西に目を転じると東欧革命以来、ヨーロッパの広域経済圏を目指すEU(ヨーロッパ連合)とヨーロッパ全域における安全保障体制の確立を目指すNATO(北大西洋条約機構)が東への拡大を続けており、特に2004年5月1日ポーランドスロバキア等旧東欧8各国がEUに加盟すると、ウクライナはEUと直接国境を接することになった。続いて2007年にはルーマニアブルガリアもEU入りを果たし、更にトルコも一貫して加盟を希望している。EUは域内での経済の自由化を推し進める一方で、域外からの経済活動には障壁を設けている。ウクライナではEUと協定を結んで、EU加盟国と国境を接している西部にEUやアメリカ合衆国日本の資本を受け入れる一方で、主に中央アジア諸国からのEUへの不法侵入者の取り締まりなどを行っている。その一方でEU外にあっては陸上、そして黒海からの海上ルート全てをEUと接することで、将来的にはEUからの締め出しを食らう可能性がない訳でもない。そこでウクライナもEUに加盟するべきであるという議論が生じてくる。この意見に対してはウクライナ西部での支持が強い。

ウクライナ東部はもともと地元の工業がウクライナ全体の経済を牽引してきたという自負があり、さらに最近のロシア経済の好調もあり、地元のロシアと取り引きの多い工業地帯では景気が回復していた。また東部はロシア系住民が多く、ロシア語が使われていた。そのためEU寄りの政権誕生には不安を抱く人が多く、ロシアは当時の東部系ウクライナ大統領および東部住民との思惑の一致を口実に東部へ肩入れした。

[編集] 事件の経緯

支持者に応えるヴィクトル・ユシチェンコ(2004年11月28日)
2004年大統領選挙の選挙結果。オレンジがユシチェンコ支持、青がヤヌコーヴィチ支持。北西部ほどユシチェンコ支持が鮮明であり、南東部ではヤヌコーヴィチ支持が鮮明になる

こうした状況の中で2004年の大統領選挙では、ロシアとの関係を重要視する与党代表で首相のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと、ヨーロッパへの帰属を唱える野党代表で前首相(当時)のヴィクトル・ユシチェンコの激しい一騎打ちとなった。

2004年11月21日の開票の結果、大統領選挙におけるヤヌコーヴィチの当選が発表されると、その直後から野党ユシチェンコ大統領候補支持層の基盤であった西部勢力が、ヤヌコーヴィチ陣営において大統領選挙で不正があったと主張し始め、不正の解明と再選挙を求めて、首都キエフを中心に、ゼネラル・ストライキ、座り込み、デモンストレーション、大規模な政治集会を行い選挙結果に抗議した。(右上写真はユシチェンコ支持者がキエフで行った集会)。

この抗議運動はマスメディアを通じて世界各国に報道され、大きな関心を呼んだ。特にヨーロッパやアメリカでは野党ユシチェンコに対して、ロシアでは与党ヤヌコーヴィチに対して肩入れする報道がなされた。この報道合戦ではナショナリズム的な報道に終始したロシア側に対して、一連の大統領選挙が民主的ではないというスタンスを取った欧米側の報道に世界世論がなびいたため、徐々にロシア側の行動が規制される結果となった。このことは後のキルギスでの政変事にロシア側として積極的な動きができないなどの足かせともなった。

ロシアの支持を受けたヤヌコーヴィチを中心とする与党勢力は選挙結果を既成事実化しようと試みたが、野党勢力を支持するヨーロッパ連合及びアメリカ合衆国などの後押しもあり結局野党の提案を受け入れて再度投票が投票が行われることとなった。再投票の結果、2004年12月28日ヴィクトル・ユシチェンコ大統領が誕生した。

この運動は同じく現職政権へ抗議であるユーゴスラビアミロシェヴィッチ大統領に対する抗議、その後グルジアで起こったバラ革命(ローズ・レボリューション)に誘発された運動である。一般的にロシアが東部よりの当時の政権側にあからさまに肩入れしたというのが原因と言われる。しかしこれはあくまで西欧メディアの見解にすぎず、石油パイプラインなどをめぐるアメリカの力が働いたとする見方もある。特に今回の革命では米投資家ジョージ・ソロス氏が自身の著書で資金援助を行ったことを公式に認めており、水面下で何らかの工作が行われたのは確実だとも言われている。敗れた東部側は決選投票の選挙戦で東西部分離をちらつかせていたが、今のところ冷静に事態の推移を見守っている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ