メンギスツ・ハイレ・マリアム
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メンギスツ・ハイレ・マリアム
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臨時軍事行政評議会議長
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| 任期 1977年2月3日 – 1987年9月10日 |
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| 前任者 | テフェリ・バンテ |
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| 後任者 | Position abolished |
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| 任期 1987年9月10日 – 1991年5月21日 |
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| 後任者 | タスファレ・ゲブレ・キダン |
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| 出生 | 1937年5月27日(75歳) [1] アジスアベバ |
| 政党 | エチオピア労働者党 |
| 配偶者 | Wubanchi Bishaw [2] |
| 信仰 | Atheist (Formerly Ethiopian Orthodox) [3] |
メンギスツ・ハイレ・マリアム(アムハラ語:መንግስቱ ኃይለ ማርያም,Mengistu Haile Mariam, 1937年 - )は、エチオピアの政治家、軍人。エチオピア人民民主共和国の初代大統領、エチオピア労働者党書記長を歴任。1974年から1991年にかけて数十万の反対派を粛清し、戦争や飢餓の拡大などにより国内から100万人の難民を出した独裁者である。
目次 |
略歴 [編集]
エチオピア南部のカッファ州(当時。ケファ州、ケッファ州とも転写される)の貧しい家庭の出身。出身部族は明らかではないが、同州南東部のクロ語(ダウロ語)あるいはその近縁のコンタ語を話す少数部族の出身とする説が有力である。ホレタ陸軍士官学校を中尉で卒業後、アディスアベバの第4師団、アスマラの第2師団で大尉に昇進。その後ハラールの第3師団に配属され米英にも留学した。
1974年9月のエチオピア革命によって臨時軍事行政評議会 (PMAC) 第1副議長となる。その後に起こった穏健派と急進派の対立抗争では当時スイスで病気療養中だった皇太子の迎え入れを主張した穏健派のアマン・アンドムPMAC議長などと対立。穏健派はインテリ層の大部分や国民の圧倒的な支持を得ていたが、急進派は共和制を主張し、学生や大学教授、労働組合などが支持していた。
11月22日、急進派は突如としてエリトリア解放戦線討伐問題の意見不一致を理由としてアマン議長を解任・軟禁(翌日殺害)して穏健派の一部と銃撃戦を行い、アジスアベバ各所でアマン議長、エンダルカチュー・マコンネン元首相、アクリル・ハプテ・ウォルド元首相、皇帝ハイレ・セラシエ1世の孫であるエスキンデル・デスタ海軍司令官ら61人の穏健派指導者、政府高官、皇族らを殺害した。この虐殺実行の黒幕はメンギスツ少佐であり、この後メンギスツ少佐はエチオピア国内の実権を掌握した。
1975年には前年から廃位・軟禁していたハイレ・セラシエ1世を殺害。1977年にクーデターを成功させ、自らPMAC議長に就任したメンギスツは、社会主義軍事独裁政権を発足させた。さらに、ソ連・キューバなどの社会主義国の支援を得て、エチオピアの急激な社会主義化を進めたが、エリトリア独立戦争や東部オデガン地方を巡るソマリアとの戦争や飢餓の拡大などで100万人の難民を出した。
1987年9月には臨時軍事行政評議会による軍事政権から国民議会を最高機関とする新政権に移行され初代大統領に軍最高司令官を兼任するメンギスツが選出された。
1988年にはティグレ人民解放戦線 (TPLF) を中心とするエチオピア人民革命民主戦線 (EPRDF) が発足し国内では反政府勢力による内戦が激化していた。 1991年2月以降のEPRDFの軍事攻勢により5月にはメンギスツ大統領はジンバブエ(一説に北朝鮮)に亡命。EPRDFが首都アディスアベバを制圧・陥落させてメンギスツ政権は崩壊した。
2006年12月12日のエチオピア高等裁判所はメンギスツにジェノサイドと人道に対する罪などで終身刑の有罪判決を宣告した。それに対しジンバブエ政府は、メンギスツがジンバブエ当局の庇護にあることを認め、さらにメンギスツがジンバブエ独立運動に対して武器およびゲリラの訓練を援助し、独立後も空軍兵士の訓練を援助したこと、そしてこの行為は当時の周辺諸国から認められていたことを理由としてメンギスツの引渡しを拒否した。
その後、2008年5月26日、エチオピア最高裁判所は終身刑の判決を覆して本人不在のままメンギスツと彼の高官17人に死刑判決を宣告した。メンギスツは現在もジンバブエのハラレで庇護されており、ジンバブエ政府が彼の引き渡しに応じる様子は今のところない。
脚注 [編集]
- ^ “Profile: Mengistu Haile Mariam”. BBC News Online. (2006年12月12日) 2006年12月13日閲覧。. Other accounts state 21 May 1941 [1], 27 May 1941
- ^ “Mengistu Haile Mariam's Biography”. Durame News Online. (2012年5月1日) 2012年5月6日閲覧。.
- ^ Kjell Goldmann, Ulf Hannerz, Charles Westin (2000). Nationalism and internationalism in the Post-Cold War era. Taylor & Francis. pp. 44. ISBN 0-415-23891-9. "But sometimes in the course of Eritrea's war for independence, the Islamic card was used to win support from the Arabs in Eritrea's struggle first against the Christian theocracy of Haile Selassie and later against the Marxist-Leninist atheism of Mengistu Haile Mariam in Addis Ababa."
参考資料 [編集]
- 『独裁者たちの言い分 トーク・オブ・ザ・デビル』 リッカルド・オリツィオ(著)、松田和也(訳)、桂書房 ISBN 4760124039
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
- "Mengistu defends Red Terror", BBC News, 1999年12月28日.
- "Timeline of "Red Terror", U.S. Citizenship and Immigration Services, 1989年.
- "A U.S. Strategy to Foster Human Rights in Ethiopia", by Michael Johns, Heritage Foundation Backgrounder # 692, 1989年2月23日.
- "Ethiopian Dictator Mengistu Haile Mariam", Human Rights Watch, 1999年11月29日.
- エチオピア最高裁、メンギスツ元大統領に死刑判決、AFPBB News、2008年05月27日
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| 先代: ダニエル・アラップ・モイ |
アフリカ統一機構議長 第21代:1983 - 1984 |
次代: ジュリウス・ニエレレ |
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