ベルベラ

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ベルベラ
Barbara
بربرة
ベルベラの位置(ソマリア内)
ベルベラ
ベルベラ
ソマリア内での位置
座標: 北緯10度26分0秒 東経45度01分0秒 / 北緯10.43333度 東経45.01667度 / 10.43333; 45.01667
ソマリアの旗 ソマリアソマリランドの旗 ソマリランド
行政区画 北部ガルベード州(ソマリア式)、サヒル(ソマリランド式)
人口
 - 計 200,000人
 - 人口密度 12.9人/mi² (5人/km²)
等時帯 東アフリカ時間 (UTC+3)

ベルベラソマリ語: Barbara, 英語: Berbera, アラビア語: بربرة‎)は、ソマリア北部の港町。人口は約20万人。アデン湾に面しており海上交通の要衝である。海の無いエチオピアの輸出港であり、またソマリランドのメインの貿易港である。

現在はソマリランド共和国実効支配し、2008年5月15日までサークシル州の州都、それ以降はサヒル州の州都である。大型船の港湾施設として1969年に整備され、現在もソマリランドの商用港湾として重要。

地形[編集]

ベルベラは、アデン湾南岸では唯一の暴風避け設備がある港湾である。2000年の人口は約10万人である。気候は非常に乾燥しており暑い。雨季もある。町の郊外は砂漠か半砂漠であり、夏の気温は50℃にも上る。そのため、多くの住民は夏季にはもっと内陸の都市に住む。

輸送施設[編集]

ベルベラはハルゲイサブラオと主要道路で直結している。空港もある。ベルベラから輸出されるのはヒツジ、アラビアガム乳香没薬である。取引先は240キロメートル先の対岸にあるイエメンアデンである。ベルベラにはソマリア内戦前にソビエト連邦が作った軍港があり、後にアメリカ軍が使用した。現在は商業港となっている。

1993年のエリトリア分離独立以降、ベルベラはエリトリアに代わるエチオピアの貿易港として発展し、ソマリランドの主な外貨収入源となった。1970年代中頃にソビエト連邦が作った空港は滑走路が長く、1980年代にはアメリカのNASAがスペースシャトル用の緊急着陸空港に指定している。

観光[編集]

ベルベラにはオスマン帝国時代に作られたオスマン建築の建造物が数多く残っている。ただしこれらは遺跡であり、人が入ることも少ない。ベルベラはバーレ大統領の時代にソマリア軍に爆撃されたが、これらの遺跡は残った。

歴史[編集]

ベルベラは1世紀にギリシャの商人が書いたエリュトゥラー海案内記にマラオ(Malao)として登場する。そこには「アヴァリテスの次に位置する商業都市であり、800スタディアの距離にある。停泊地は開放されているが、東は風除けで保護されている。住民は友好的である。ここが輸入している品は他と大差なく、アルシノエ産のさまざまなチュニック、外套、染料、食器、銅箔、鉄、金、銀の硬貨などである。輸出している品は没薬乳香シナモン、インドの樹脂、メースなどで、それらの産地はアラビアである。奴隷も輸出されるが量は少ない」と解説されている[1]

9世紀のの学者段成式863年の著作『酉陽雑俎』の中でベルベラを「撥拔力國」(Bobali)として紹介し、奴隷象牙龍涎香の貿易が行われていると解説されている[2]。ベルベラは13世紀のアラブの地理学者も記述している。

16世紀の始め、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは「アデン湾を支配するならベルベラやゼイラよりも断然アデンが良い」と述べている。しかしアルブケルケのアデンへの攻撃は1513年に失敗に終わっている[3]

1518年にはポルトガルの提督アントニオ・デ・サルダーニャ英語版がこの地を支配している。なお、昔のベルベラについて「アントニオ・デ・サルダーニャのエピソードを除き、18世紀以前のベルベラについてほとんど何も分かっていない」という研究家もいる[4]

1546年オスマン帝国はベルベラを含めた今日のソマリアの北西部に当たる部分を占拠した。その際にはゼイラがこの地区の行政中心地とされた。

それから17世紀まで、ベルベラは10月から4月までの交易所として有名になり、アフリカ東部海岸で最も重要な商業都市のひとつとなった[5]。ソマリ族の大氏族の一つイサックが、ハラールハウド英語版などから集まり、またインドのヴァイシャポルバンダル英語版マンガロールムンバイから集まった。この取引はヨーロッパの干渉を防ぐため、ヨーロッパ人に秘密裏に行われたとも言われる[6]

イギリスの探検家リチャード・フランシス・バートンはベルベラに2度寄航した。2度目の訪問時の最中である1855年4月19日、バートンらの宿営地を数百のソマリ兵が襲い、バートン自身はアデンに逃れたものの、仲間が1名死亡している[7]。それでもバートンはこの都市の重要性を認識しており、「ベルベラは紅海沿岸で東アフリカ交易に最も重要な場所であり、スエズからグアルダフィ岬の間で唯一安全な場所である。郊外には農業可能な土地もあり、丘は松などの木で覆われている。気候は比較的過ごしやすく、気候はモンスーンの気配がある。そのため、この港は多くの外国勢力が狙ってきた。今はイギリスが活動するチャンスであり、この機会を逃せば別の国もこの地を見逃しはしないだろう」と語っている[8]

この意見に先見の明があったことは遠からず証明された。1875年、エジプトにより、オスマン帝国側勢力による統治が再確立した。しかし、エジプトはスーダンで起こったマフディー戦争に注力するため、1884年に駐留軍を引き上げている。代わりにイギリス軍が駐留し、1940年にイタリアに一時占領されるまで、イギリス領ソマリランドの主要港、冬季の行政中心地となった。

1980年8月、ベルベラの軍事施設利用を条件に、アメリカからソマリアに5300万ドルの経済援助、4000万ドルの軍事援助をする合意がなされている[9]

1991年のソマリア内戦では、ベルベラで有力氏族のイサックとその他の氏族との間で対立が起こり、その解決の動きがソマリランド建国のきっかけの一つとなっている[10]

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

  1. ^ The Periplus of the Erythraean Sea, ch. 8 [1]
  2. ^ 酉陽雜俎の「撥拔力國」の節
  3. ^ 中東協力センター 悠久な東西交易の中継港ジェッタ
  4. ^ I.M. Lewis, A Modern History of the Somali, fourth edition (Oxford: James Currey, 2002),p. 21
  5. ^ Abir, Mordechai (1968). Ethiopia: The Era of the Princes; The Challenge of Islam and the Re-unification of the Christian Empire (1769-1855). London: Longmans.
  6. ^ Abir, Era of the Princes, p. 17
  7. ^ Lewis, A Modern History, p. 36
  8. ^ Richard Burton, First Footsteps in East Africa, Preface
  9. ^ 遠藤貢 冷戦下・冷戦後の「アフリカの角」問題とイスラーム主義勢力(PDF)、2009年6月付、2010年2月閲覧
  10. ^ 遠藤貢 崩壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」(PDF)

外部リンク[編集]