ハラール (エチオピア)

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世界遺産 歴史的城塞都市
ハラール・ジュゴル
エチオピア
Town of Harar with Citywall.jpg
英名 Harar Jugol, the Fortified Historic Town
仏名 Harar Jugol, la ville historique fortifiée
面積 48ha
登録区分 文化遺産
登録基準 (2), (3), (4), (5)
登録年 2006年
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
ハラール (エチオピア)の位置
使用方法表示

ハラールアムハラ語:ሐረር、英語:Harar)はエチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都。首都アディスアベバからは約523km離れており、エチオピア高原の東の丘の上にある(海抜1900m)[1]ジュゴルと呼ばれる城壁に囲まれたハラールの町には87のモスクが存在し、16世紀から19世紀前半にかけてはイスラームにおける「第4の聖地」とも考えられていた[1]。この歴史的町並みは、「歴史的城塞都市ハラール・ジュゴル」の名で、2006年にユネスコ世界遺産に登録された。

また、何世紀もの間、ハラールは、エチオピア各地、アフリカの角アラビア半島などを結ぶ交易の中心地であり、港を通じて、それ以外の世界に開かれていた。さらに、ハラールの名は独特のコーヒーの名前(ハラール・コーヒー)にもなっている。

日本語においては「ハラル」「ハラレ」「ハーラル」とも表記されるが、「ハラール」の表記が現地の発音に近い[2]

人口[編集]

1994年の国勢調査での人口は76378人、エチオピア中央統計局による2005年の調査では122000人(男性60000人、女性62000人)である[3]

住民[編集]

ハラールの住民はキリスト教徒やムスリムだが、その民族構成は多様で、アムハラ人オロモ人ソマリ人グラゲ人ティグレイ人などからなる。

しかし、市内で優勢なのはこの町の先住民であるハラリ人である。彼らは自らをゲイ・ウス(Gey 'Usu,「都市の民」)と称するセム系民族で、かつてはアクスム王国の軍事的前哨拠点を出自とする人々と考えられていた。ハラリ人は民族集団を固持するよりも他の集団と混じる傾向があり、また異邦人にも好意的であったことから、今日の彼らの区分は厳格な民族集団の区分というよりも、文化的・社会的な区分にすぎない。

彼らの言語であるハラリ語は、クシュ語が支配的な地域にあって、セム系言語の点在する地域を構成するものである。筆写には、本来アラビア文字が使われたが、近年ゲエズ文字も使われるようになっている。

歴史[編集]

住民たちからゲイ(Gey,「都市」の意)と呼ばれていたこの町は、史料によって異なるが7世紀から11世紀の間に建造されたようであり、アフリカの角におけるイスラームの宗教的・文化的中心地として立ち現れた。こうした背景から、ハラールは他のエチオピアの都市と異なるアラブ風の街並みを持っている[4]14世紀のエチオピア皇帝アムダ・セヨン1世英語版年代記には、1332年に遠征を行った記録の中にハラールの名前が現れる[5]

かつてはエチオピア帝国に臣従していたアダル・スルタン国の一部であり、アブー・バクル・イブン・ムハンマド英語版、[[:Abu Bakr ibn Muhammad:{{{5}}}|abu bakr ibn muhammad版]])治下の1520年にアダルの首都となった[5]。その後16世紀中に、「左利きのグラン」(Gragn the Left-handed) の異名を持つアフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガージー英語版、[[:Ahmad ibn Ibrihim al-Ghazi:{{{5}}}|ahmad ibn ibrihim al-ghazi版]])(アフマド・グランニュ)が、ハラールを拠点に侵略戦争を仕掛け領土を拡大し、エチオピア帝国の存立をも脅かした。その後継である首長ヌル・イブン・ムジャヒド (Nur ibn Mujahid) は、町の周りを5つの門を持つ4mの城壁で囲んだ[5]。「ジュゴル」と呼ばれたこの壁は今も残り、住民にとってはハラールのシンボルとなっているのである。

ハラールは16世紀に最盛期を迎えた。地域の文化が繁栄し、多くの詩人たちが逗留し謳い上げた。同時に、コーヒー、織物業、籠細工、製本術などでも有名になった[5]

ハラールは独立した都市国家としての形態を維持し、支配者たちは独自の貨幣も鋳造した[5]。最古のものはイスラム暦615年(西暦1218年 - 1219年)とも読める日付が刻印されているものだが、確実に最古といえるものは西暦1789年のことになる。その後、19世紀を通じて、さらに貨幣が発行された[6]

ハラール滞在中のランボー

ハラールの町は1875年までは何とか独立を保っていたが、その年にエジプトに征服された。東アフリカにおける拠点の確立を図るエジプトはハラールに3,400人の兵士を派遣し、エジプトからハラールにサトウキビカボチャアーモンドレモンブドウなどの作物がもたらされた[1]。1875年から1885年にかけてのエジプト占領期に、ハラールは顕著な発展を遂げる[1]。なお、この時期、詩人アルチュール・ランボーがハラールに滞在しており、彼が住んでいた家は今では記念館となっている。エジプト軍が撤退した1885年には、東洋学者・探検家のリチャード・フランシス・バートンがハラールを訪れた。

エジプト軍はハラール周辺で遊牧生活を営んでいたオロモ人の攻撃に悩まされ、1880年代にエジプト国内の政情が不安定になると町から撤退した[1]。1885年にハラールは束の間の独立を取り戻したが、わずか2年後の1887年1月6日、シェワを拠点とするメネリク2世治下のエチオピア帝国に併合された。1897年、後のエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の父メコネン・ワルダ・ミハエル英語版がハラールの知事に就任する。エチオピアへの併合後も都市国家時代の行政システムは機能しており、メコネンらアムハラ人の知事たちはそれを利用して統治を行っていた[5]。メコネンはオロモ人と対立しながらも町の開発を進め、公共施設、道路の建設に力を注いだ[1]。1902年に建設されたラス・メコネン病院は、フランス人設計家の手によるものである。メコネンの知事時代から1920年代半ばまでの間、アフリカ・アラビア半島の交易路が交差するハラールは商業の中心地として繁栄した[1]。1906年にハラールを訪れたイタリア人エンリコ・アルベルトは土着のイスラム教徒と新住民であるキリスト教徒が共存する街の様子を記録している[1]

その後、ハラールの商業的重要性は後退する。当初都市間を直接結ぶことが計画されていたアディスアベバジブチ間の鉄道が、資金の節約のためにハラールとアワッシュ川の間で山の北側を迂回することになったためである。この結果、「新しいハラール」として、新都市ディレ・ダワ (Dire Dawa) が1902年に建造された。 かつてハラールの知事を務めたハイレ・セラシエ1世が皇帝に即位した後、1930年代から町の再開発が行われる。学校、郵便局、ホテルが建設され、ハラールは商都から行政の拠点に役割を変えていく[1]第二次エチオピア戦争前は35,000人以上がハラールに居住していた[1]

第二次エチオピア戦争後、ハラールはイタリアに占領されるが、町でのアムハラ人の影響力が拡大しつつあることに不安を覚えていた先住民たちはイタリアの進出を歓迎した[5]。イタリア占領時には重要な軍事拠点とされ、軍用の建物や発電所が建設される[1]

1977年から1978年にかけてエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起きると、ハラールの住民は国外に亡命した[5]。1991年に民族自治の精神に基づく行政区画の再編が実施され、ハラールは州と同等の権限を有する特別行政都市に指定される。1995年には、ハラール市とその周辺だけでひとつの地方行政体 (kilil) 「ハラリ州」となった。また、ディレ・ダワからハラールへの給水パイプラインが、現在建設中である。

気候[編集]

ハラールの気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
平均最高気温 °C (°F) 18.9
(66)
20.0
(68)
20.5
(68.9)
21.1
(70)
21.1
(70)
20.0
(68)
18.9
(66)
18.0
(64.4)
18.9
(66)
20.0
(68)
19.4
(66.9)
19.4
(66.9)
19.68
(67.43)
平均最低気温 °C (°F) 8.9
(48)
9.9
(49.8)
10.9
(51.6)
13.9
(57)
15.1
(59.2)
14.3
(57.7)
14.6
(58.3)
14.4
(57.9)
13.5
(56.3)
11.4
(52.5)
10.0
(50)
9.5
(49.1)
12.2
(53.95)
雨量 mm (inch) 12
(0.47)
30
(1.18)
55
(2.17)
97
(3.82)
126
(4.96)
99
(3.9)
145
(5.71)
121
(4.76)
94
(3.7)
42
(1.65)
28
(1.1)
9
(0.35)
858
(33.77)
出典: Levoyageur Weather[7]

観光[編集]

16世紀半ばにキリスト教勢力の攻撃を防ぐために町の周囲に円型の城壁が建設された[4]。城壁の中の旧市街は複雑な発展を遂げ[4]、362もの袋小路を持つに至った[1]。旧市街にはフェレス・マガラ広場を中心に、110のモスクとさらに多くの寺院が立ち並んでいる。特に、メドハネ・アレム大聖堂と16世紀のジャミ・モスクなどが有名である。ハラリ人(アダル人)が19世紀に建てた家はアダル・ハウスと呼ばれ、観光名所になっている[1]。ハラリ国立文化センターの建物は、典型的なアダル・ハウスを再現して建てられたものである。

長い伝統としてハイエナへの餌付けも行われている。もともとは一年に一晩だったのだが、1960年代に観光客向けの見世物として、夜ごとに行われるようになった。

土産物用の手工芸品は人気が高く、あまりの人気の高さに外部への輸出販売が禁止された[5]

世界遺産[編集]

登録基準[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 岡倉『エチオピアを知るための50章』、140-145頁
  2. ^ 岡倉『エチオピアを知るための50章』、6頁
  3. ^ CSA 2005 National Statistics, Table B.4
  4. ^ a b c 鈴木「ハラル」『世界地名大事典』7巻、1004頁
  5. ^ a b c d e f g h i 藤本「ハラール」『世界地名大事典』3、779-780頁
  6. ^ Richard R.K. Pankhurst, An Introduction to the Economic History of Ethiopia (London: Lalibela House, 1961), p. 267.
  7. ^ Levoyageur Weather : Djibouti”. 2012年7月11日閲覧。

参考文献[編集]

  • 岡倉登志編著『エチオピアを知るための50章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2007年12月)
  • 鈴木秀夫「ハラル」『世界地名大事典』7巻(朝倉書店, 1973年3月)
  • 藤本武「ハラール」『世界地名大事典』3収録(朝倉書店, 2012年11月)
  • この記事の初版は英語版ウィキペディアから翻訳されたもので、以下はそこに掲げられた参考文献である。
    • Fritz Stuber, "Harar in Äthiopien - Hoffnungslosigkeit und Chancen der Stadterhaltung" (Harar in Ethiopia - The Hopelessness and Challenge of Urban Preservation), in: Die alte Stadt. Vierteljahreszeitschrift für Stadtgeschichte, Stadtsoziologie, Denkmalpflege und Stadtentwicklung (W. Kohlhammer Stuttgart Berlin Köln), Vol. 28, No. 4, 2001, ISSN 0170-9364, pp. 324-343, 14 ill.

外部リンク[編集]

Icon of Sekaiisan.svg Icon of Sekaiisan.svg エチオピアの世界遺産
World Heritage Sites in Ethiopia

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座標: 北緯9度18分40秒 東経42度07分40秒 / 北緯9.31111度 東経42.12778度 / 9.31111; 42.12778