イタリア領東アフリカ

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イタリア領東アフリカ
Africa Orientale Italiana
エチオピア帝国
イタリア領ソマリランド
イタリア領エリトリア
1936年 - 1941年 エチオピア帝国
イタリア信託統治領ソマリア
イタリア領東アフリカの国旗
(国旗)
国の標語: なし
イタリア領東アフリカの位置
公用語 イタリア語
首都 アディスアベバ
皇帝
1936年 - 1943年 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
最初の副王
1936年 - 1939年 ピエトロ・バドリオ
変遷
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がイタリア領東アフリカ皇帝に即位 1936年5月9日
エチオピアイタリア軍が降伏 1941年11月28日
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がイタリア領東アフリカ皇帝を退位 1943年
通貨 イタリア・リラ

イタリア領東アフリカ(イタリアりょうひがしアフリカ、Africa Orientale Italiana)は、1936年5月9日に成立したエチオピアイタリア領ソマリランドエリトリアの3地域を合わせたイタリアの植民地。形式上では、イタリア王国と同君連合を組む東アフリカ帝国とされていたが、実質上ではイタリアの植民地であった。約5年後に解体された。

第一次エチオピア戦争まで[編集]

エチオピア地方はヨーロッパとアジアを結ぶ最短航路である紅海の南部に面しているため、インド、アジア貿易に関する重要拠点となる土地であった。1880年代に始まったアフリカ分割においてイギリスが植民地化を進めた。フランスアフリカ大陸を南北に伸びるイギリス植民地の分断と内陸部の石炭に興味を示していた。イタリアは植民地獲得に出遅れており、北アフリカの空白地帯への進出・獲得に乗り出していた。

イタリアは1870年代に紅海南部に面したエリトリアを民間会社を通じて買収し、事実上の植民地化を行った。後にヨハンネス4世と対立したイタリアはヨハンネス4世が後継に指名したヨハンネスの義妹の子マンガッシャと対立したショアの王メネリク2世を支援し、内戦に勝利したメネリクの即位後、1889年ウッチャリ条約英語版を結び、翌年正式に植民地化した。エリトリアはエチオピアの北に接する地域である。1889年にはエチオピアの南東に接するイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)を獲得した。

エチオピアの北と南東を獲得後、南(ケニア)、西(スーダン)、東(イギリス領ソマリランド、現ソマリア北部)を植民地化していたイギリスの支援を受け、1896年に、エチオピアの保護領化を開始する。ところが、紅海の出口であるジブチを獲得し、エチオピアの首都アディスアベバとの鉄道も敷設していたフランスがエチオピアを支援したこともあり、1896年3月1日エリトリア国境にほど近いアドワの戦いで大敗を喫する。これを第一次エチオピア戦争という。このとき軍事的に勝利したため、エチオピアはリベリアと並んでアフリカ大陸の数少ない独立国として残った。

第二次エチオピア戦争[編集]

しかし、イタリアはアフリカにおいてイタリア領ソマリア、エリトリア、リビアの3ヶ所しか植民地を保有していなかったため、再度エチオピア獲得を目指した。1934年にエリトリア、エチオピア国境で発生した銃撃戦は、いったん和平交渉の形をとったものの、1935年10月2日ベニート・ムッソリーニがエチオピア侵略を開始。これを第二次エチオピア戦争という。エリトリアとソマリランドから進入し、1936年5月5日にはエチオピアの首都アディスアベバが陥落。5月9日にはイタリア領ソマリアとエリトリアを併せた東アフリカ帝国(エチオピア帝国)が建国され、イタリア国王であったヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がその皇帝(ネグサ・ナガスト Nəgusä nägäst, 王の中の王を意味する)となった。また、エチオピア侵攻の際総司令官だったピエトロ・バドリオが副王(イタリア語で「Viceré」イタリア領東アフリカの6州連合で最高位の植民地高官を意味し、エチオピアを占領した1936年5月5日から、最後のイタリア人行政官が連合国に降伏した1941年11月27日まで「高等弁務官」ではなく「副王及び総督」と呼ばれた)、次いでアディスアベバ公爵に任じられた。

エチオピアは1923年国際連盟に加入していたため、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は連盟に援助を要請した。しかし、連盟の加盟国間での意見は一致しなかった。ソビエト連邦はイタリアの行為を侵略と認めたが、当時共産主義国であったソ連と対立していたイギリスとフランスはイタリアとの戦争を恐れ、イタリアの行為を承認。結局、連盟の採決はイタリアを処罰しないというものになった。

その後、イタリア人の入植が始まる。イタリアはアディスアベバをイタリア領東アフリカの首都とし、道路と農業プランテーション、軽工業を中心とした工場の建設を進めた。銀行制度や独自通貨発行、郵便制度なども整備した。しかしながら、特にエチオピア地域で反発が強く、植民地経営は中々上手くいかなかった。

第二次世界大戦以後[編集]

約4年後の1940年6月10日にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると、周囲のイギリス植民地との戦いが始まる。一時はケニアやスーダンへイタリア軍の攻勢が行われ、1940年8月にはイギリス領ソマリランドを占領した。1941年初頭よりイギリス軍の反撃が開始され、イタリア軍は劣勢となり、1941年5月5日にはハイレ・セラシエ1世が首都に再入城。1941年11月28日にはエチオピア内の全イタリア軍が降伏した。1943年には、連合国へのイタリアの降伏に伴い、既に名目上の皇帝となっていたヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が退位した。

敗北したイタリア軍のうち7000人は、北アフリカの枢軸軍が進撃してくることを当てにして1943年9月までゲリラ戦を展開した。

エチオピアは再度エチオピア帝国として独立、いったんイギリスの影響下で自治体制にあったエリトリアを1952年に連邦国家として組み込み、1962年から1993年までエチオピアの一州とした。イタリア領ソマリランドは連合国の占領を経て、1950年から1960年までイタリア信託統治領ソマリアとして信託統治下にあったが、1960年イギリス領ソマリランドとほぼ同時に独立、統一国家となった。