クレメンス7世 (ローマ教皇)

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クレメンス7世
Clemens VII
第219代ローマ教皇
クレメンス7世
教皇就任 1523年11月19日
教皇離任 1534年9月25日
先代 ハドリアヌス6世
次代 パウルス3世
個人情報
本名 ジュリオ・デ・メディチ
(Giulio de' Medici)
出生 1478年5月26日
Flag of Florence.svg フィレンツェ共和国フィレンツェ
死去 1534年9月25日
Flag of the Papal States.gif 教皇領ローマ
アレッサンドロ・デ・メディチ
その他のクレメンス

クレメンス7世(Clemens VII 1478年[1]5月26日 - 1534年9月25日)は、ローマ教皇(在位:1523年 - 1534年)。メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ(Giulio de' Medici)。2代前のレオ10世の従弟に当たる(パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノの遺児)。

略歴[編集]

教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。

芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャヴェッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。後には天文学者コペルニクスの研究も支援した。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後の1536年から1541年である)。

在世中はイタリアを巡ってフランス神聖ローマ帝国との戦闘が続き(イタリア戦争)、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあって、不安定な状況であった。1527年、フランス王・フランソワ1世と同盟を結んだ教皇への報復として、神聖ローマ皇帝カール5世の軍がローマに侵攻する。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪、強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)。他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心であったローマは見る影もなく荒廃した。クレメンス7世が優柔不断だった面もあるが、むしろイタリア戦争、宗教改革、イスラム教国・オスマン帝国ヨーロッパへの圧力と、カトリック教会史上最悪の状況であった事から、教皇個人の資質のみを責めるのは酷かもしれない。イタリアとヨーロッパが分裂し、混乱を重ねる時代だったのである。

クレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世に神聖ローマ皇帝の戴冠を行う。これ以後もイタリアを巡ってフランスと神聖ローマ帝国の戦闘は続くものの、後者の優位がほぼ確定する。

なお、この間にメディチ家のアレッサンドロ(クレメンス7世の庶子)は教皇の支援の下にフィレンツェを統治していた。1527年、ローマ略奪の報が伝わると一時追放されるが、1530年にカール5世の支援により復帰、1532年フィレンツェ公国を建国している。

晩年の1533年には、遠縁のカテリーナ・デ・メディチとフランス王子・アンリ(後のアンリ2世)の結婚式に出席。離婚問題で紛糾していたイングランド王・ヘンリー8世とは対立を深めたが、その1年後の1534年9月25日に死去。時代の激しい荒波に呑まれた「悲劇の教皇」であった。

関連項目[編集]

先代:
ロレンツォ2世・デ・メディチ
フィレンツェのシニョーレ
1519年 - 1523年
次代:
アレッサンドロ・デ・メディチイッポーリト・デ・メディチ

出典[編集]

  1. ^ [1]