アレッサンドロ・デ・メディチ
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ポントルモによるアレッサンドロ・デ・メディチの肖像
アレッサンドロ・デ・メディチ(Alessandro de' Medici, 1510年7月22日、フィレンツェ - 1537年1月6日、フィレンツェ)、通称イル・モーロ(il Moro)は、1523年フィレンツェのシニョーレ、ペンネ公。庶子ながらもフィレンツェを支配していたメディチ家の頭首の最後の子孫、そして世襲となった最初のフィレンツェ公(1532年から)である。
公式にはロレンツォ1世・デ・メディチの孫ロレンツォ2世・デ・メディチの庶子とされているが、本当の父親は枢機卿ジュリオ・デ・メディチ(後に教皇クレメンス7世となった)である。彼が黒人との混血なのかははっきりしていない。ジュリオとメディチ家の黒人奴隷シモネッタ・ダ・コッレヴェッキオ(サビーナにあるコッレヴェッキオ)との関係で生まれたという記述がある(別の資料からの引用では、彼の母親はローマの田舎の農民とも)。いずれにしろ、その肌の色から渾名の「イル・モーロ」(ムーア人)がつけられた。
父が外交政策の転換からローマ略奪を招き、アレッサンドロもそれに乗じたフィレンツェ市民の反乱により追放された。しかし1530年、神聖ローマ皇帝カール5世がフィレンツェを制圧したことによりフィレンツェに復帰した。
1536年1月18日、カール5世の庶出の娘であるマルゲリータ・ダズブルゴと結婚したが、子供はなかった。
1537年1月5日夜、アレッサンドロはメディチ家の同族ロレンツィーノ・デ・メディチ(ロレンザッチョ)によって暗殺された。死後、フィレンツェ公には黒隊長ことジョヴァンニ・デ・メディチの子コジモが後継者として選ばれた。マルゲリータはパルマ公オッターヴィオ・ファルネーゼと再婚した。
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