パルマ公国

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パルマ・エ・ピアチェンツァ公国
Ducato di Parma e Piacenza
ミラノ公国 1545年 - 1860年 サルデーニャ王国
パルマの国旗 パルマの国章
(国旗) (国章)
パルマの位置
パルマ公国領土
公用語 イタリア語
首都 パルマ
1545年 - 1547年 ピエール・ルイージ・ファルネーゼ(初代)
1854年 - 1860年 ロベルト1世(最後)
変遷
建国 1545年
ナポレオン・ボナパルトに降伏 1802年
サルデーニャ王国へ併合 1860年
1639年のパルマ・ピアチェンツァ公国の地図
18世紀後半のイタリア。パルマ公国は濃いピンクの部分

パルマ公国Ducato di Parma)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年イタリア統一まで存続した。パルマ・ピアチェンツァ公国パルマ・エ・ピアチェンツァ公国とも。

ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージ教皇領の一部であったパルマピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。

1731年アントーニオが跡継ぎのないまま死ぬと、アントーニオの姪エリザベッタを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリアハプスブルク家領だったナポリ王国シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポへと公位が渡った。

ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の死んだ1847年に再び公位がブルボン家に戻された。

1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。

関連項目[編集]