ニコラウス2世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ニコラウス2世
第155代 ローマ教皇
Papa Nicolau II.jpg
教皇就任 1058年12月6日
教皇離任 1061年7月26日
先代 ステファヌス10世
次代 アレクサンデル2世
司教叙階 フィレンツェ
個人情報
本名 ゲラルドゥス
出生 1010年
ロレーヌ
死去 1061年7月26日
原国籍 ドイツ

ニコラウス2世1010年? - 1061年7月26日)は、第155代ローマ教皇(在位:1058年12月6日 - 1061年7月26日)。

生涯[編集]

ロレーヌの出身。フィレンツェ司教を務めた。前教皇のステファヌス10世が1058年3月に死去すると、対立教皇ベネディクトゥス10世が実権を握った。しかし12月、教会法に基づいてニコラウス2世が新教皇に選出された。ベネディクトゥス10世は翌年に裁判にかけられ、降格された。

ニコラウス2世は前教皇と同じく改革を推進した。彼は教皇選挙における聖職売買などを防止するため、1059年4月13日に以後の教皇選挙は枢機卿が行い、他の聖職者と民衆はその決定に同意することという教令を発した。この教令で重要なのは、神聖ローマ皇帝の追認を得る必要性を認めていないところにある。[独自研究?]また前教皇時代からのペトルス・ダミアニフンベルトゥス、ヒルデブランド(後のグレゴリウス7世)らを引き続き重用した。

一方で南イタリアノルマン人対策ではシチリア王国ロベルト・イル・グイスカルド同盟を結ぶという平和政策に転換した。しかしこれはノルマンと敵対する神聖ローマ帝国やドイツ人司教の怒りを招き(同盟の際、イタリア領に最高権限を持つのを教皇としたのがまずかった)[独自研究?]、領土の統治権をめぐって対立する。神聖ローマ帝国では1060年夏に教会会議を開催して前年の教皇の教令無効と廃位を宣言した。

ニコラウス2世はこの決定を無視して両勢力は対立に至る。この最中の1061年6月、教皇は病に倒れ、7月26日(19日とも)に52歳で死去した。在位は2年7ヶ月と20日(13日)であった。ニコラウス2世は在位中、毎日12人の貧者の足を洗ったと伝わる。昼間にその時間がないときは、夜に行ったという。

参考文献[編集]