ニコラウス2世 (ローマ教皇)
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| ニコラウス2世 | |
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| 第156代 ローマ教皇 | |
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| 教皇就任 | 1058年12月6日 |
| 教皇離任 | 1061年7月26日 |
| 先代 | ステファヌス10世 |
| 次代 | アレクサンデル2世 |
| 司教叙階 | フィレンツェ |
| 個人情報 | |
| 本名 | ゲラルドゥス |
| 出生 | 1010年 ロレーヌ |
| 死去 | 1061年7月26日 |
| 原国籍 | ドイツ |
ニコラウス2世(1010年? - 1061年7月26日)は、第156代ローマ教皇(在位:1058年12月6日 - 1061年7月26日)。
生涯 [編集]
ロレーヌの出身。フィレンツェで司教を務めた。前教皇のステファヌス10世が1058年3月に死去すると、対立教皇のベネディクトゥス10世が実権を握った。しかし12月、教会法に基づいてニコラウス2世が新教皇に選出された。ベネディクトゥス10世は翌年に裁判にかけられ、降格された。
ニコラウス2世は前教皇と同じく改革を推進した。彼は教皇選挙における聖職売買などを防止するため、1059年4月13日に以後の教皇選挙は枢機卿が行い、他の聖職者と民衆はその決定に同意することという教令を発した。この教令で重要なのは、神聖ローマ皇帝の追認を得る必要性を認めていないところにある。[独自研究?]また前教皇時代からのペトルス・ダミアニやフンベルトゥス、ヒルデブランド(後のグレゴリウス7世)らを引き続き重用した。
一方で南イタリアのノルマン人対策ではシチリア王国のロベルト・イル・グイスカルドと同盟を結ぶという平和政策に転換した。しかしこれはノルマンと敵対する神聖ローマ帝国やドイツ人司教の怒りを招き(同盟の際、イタリア領に最高権限を持つのを教皇としたのがまずかった)[独自研究?]、領土の統治権をめぐって対立する。神聖ローマ帝国では1060年夏に教会会議を開催して前年の教皇の教令無効と廃位を宣言した。
ニコラウス2世はこの決定を無視して両勢力は対立に至る。この最中の1161年6月、教皇は病に倒れ、7月26日(19日とも)に52歳で死去した。在位は2年7ヶ月と20日(13日)であった。
人物・逸話 [編集]
- ニコラウス2世は在位中、毎日12人の貧者の足を洗ったと伝わる。昼間にその時間がないときは、夜に行ったという。
- 「ニコラウス2世はローマへ行き、ラテラーノで教会会議を開いて、ローマ教会に有益な法を定めるよう促した。「教令集」に加えられることになるその法は以下の目的を持って定められた。「聖職売買や権力者の後押しによって、あるいは民衆や軍人の騒乱に乗じて、聖ペトロの座についた者は「ローマ教皇」ではなく、ごくあたりまえの道理に照らしても宗規を犯している人間として「背教者」と見なすべきである。そこで、枢機卿、聖職者、敬虔な平信徒が、神罰と人情に助けられ、物心両面の武器を携えて、そのような者を追い出し、退位させることは法にかなった行いとなる。カトリック教徒はこの目的を遂げるために結集するだろう。ローマに結集できなければ、どのような場所においても」(教皇伝)。
参考文献 [編集]
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