ロベルト・イル・グイスカルド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ロベルトと弟ルッジェーロ

ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラRoberto il Guiscardo d'Altavilla, 1015年 - 1085年7月17日)は、ノルマン人傭兵で、後に中世シチリア王国オートヴィル朝)を建てたオートヴィル家の首領。兄ウンフレードの死後、プッリャ・カラブリア伯(1057年 - 1079年)、後にプッリャ・カラブリア公(1059年 - 1085年)。フランス語名でロベール・ギスカールRobert Guiscard de Hauteville)とも呼ばれる。当時の共通語であるラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(Robertus Guiscardus)。イル・グイスカルドとは「狡猾な人」を意味する呼び名である。

生涯[編集]

南イタリア攻略[編集]

ノルマン人のタンクレード・ド・オートヴィルの6男として生まれる。オートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄達は1042年にイタリアのプッリャ伯になった。ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアロンバルディアに向かった。その時は5人の騎士と30人の従者を連れただけで、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプッリャ伯となり、弟のルッジェーロ達と共にカラブリアシチリア等の諸都市を征服していった。

ローマ教皇ニコラウス2世は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手懐けるため、1059年にロベルトをプッリャ、カラブリア、シチリアに正式に封じた。但し、いまだこの地方はサラセン人や東ローマ皇帝領が点在していた。その後、1076年までに弟と共にシチリアと南イタリアの多くを征服した。たとえば、当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィ1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティウス10世の軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。

ローマ人との戦い[編集]

1081年に東ローマ帝国征服を目指し、東ローマ皇帝アレクシオス1世の軍を破り、コルフアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれにより神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世サンタンジェロ城を包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世の救出に呼び戻された。ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月ローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモンが占領地を失ったため、再び東ローマ遠征を行ったが、1085年7月15日に熱病で亡くなった。

家系[編集]

弟にシチリアルッジェーロ1世、甥に初代シチリア王ルッジェーロ2世、孫にアンティオキア摂政タンクレードがいる。

結婚は2回で、息子は4人、娘は6人いる。初めブルゴーニュ伯ルノー1世の娘アルベラダと結婚、1男1女をもうけた。長男が第1回十字軍の主要人物であるアンティオキアボエモンであり、長女エマは善良侯オドンと結婚し、アンティオキア公国摂政タンクレードの母となった。アルベラダと離別後に、サレルノ侯グアイマーリオ4世の娘シケルガイタと結婚、次男のルッジェーロ・ボルサがプッリア・カラブリア公を継いだ。ほかにアマルフィ公グイドロベルト・スカリオがいる。また、次女のマファルダはバルセロナ伯ラモン・ベレンゲー2世に嫁ぎ、子孫はアラゴン王に即位、ペドロ3世シチリア王にもなった。16世紀スペイン・神聖ローマ帝国・イタリアの大半を支配したカール5世も子孫である。

関連項目[編集]