メッシーナ

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メッシーナ
Messina
メッシーナの風景
行政
イタリア国旗 イタリア
シチリア州旗 シチリア
Blank.png メッシーナ
CAP(郵便番号) 98100
市外局番 090
ISTATコード 083048
識別コード F158
分離集落 #分離集落参照
隣接コムーネ #隣接コムーネ参照
公式サイト リンク
人口
人口 242,914 [1](2012-01-01)
人口密度 1150.0 人/km2
文化
住民の呼称 Messinesi, Peloritani, Mamertini
守護聖人 Madonna della Lettera
祝祭日 6月3日
地理
座標 北緯38度11分0秒 東経15度33分0秒 / 北緯38.18333度 東経15.55000度 / 38.18333; 15.55000座標: 北緯38度11分0秒 東経15度33分0秒 / 北緯38.18333度 東経15.55000度 / 38.18333; 15.55000
標高 3 (0 - 1128) [2] m
面積 211.23 [3] km2
メッシーナの位置
メッシーナの位置
メッシーナ県におけるコムーネの領域
メッシーナ県におけるコムーネの領域
Flag of Italy.svg ポータル イタリア
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メッシーナ: Messina[4])は、イタリア共和国シチリア島北東部にある都市で、その周辺地域を含む人口約24万人の基礎自治体コムーネ)。メッシーナ県県都である。

メッシーナ海峡を挟んで、イタリア本土カラブリア半島ヴィッラ・サン・ジョヴァンニレッジョ・ディ・カラブリア北方の都市)と向かい合っている。都市圏にはおよそ50万人が暮らす。

名称[編集]

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理[編集]

位置・広がり[編集]

メッシーナはシチリア島北東端、メッシーナ県東端にあるコムーネである。

メッシーナの市街は、メッシーナ海峡に面した市域中部にあり、レッジョ・ディ・カラブリアから北西へ約12km、カターニアから北東へ約87km、シラクサから北北東へ約127km、州都パレルモから東へ約192km、ナポリから南南東へ約316kmの距離にある。

隣接コムーネ[編集]

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史[編集]

古代[編集]

ギリシャの植民都市時代[編集]

セクストゥス・ポンペイウスの硬貨。メッシーナ灯台とスキュラを描いている

紀元前8世紀、ギリシャ人植民者(エウボイア島カルキス出身者とされる)によってメッシーナはつくられた。ギリシャのペロポネソス半島にあるメッセネ(Messene)の平地と、シチリア東岸・イタリア本土の間に島の一連があった。さらに、ギリシャ都市メッセネの起源はミケーネ人にまで辿れる。メッシーナは、古い名をザンクレ(Zancle)といった(現地語ではscythe、しかし伝説の王ザンクルスにちなんでいる)。ザンクレとは、天然港のかたちがに由来する。メッシーナ海峡の南の入り口に、今日もスカレッタ・ザンクレーア(Scaletta Zanclea)と呼ばれて残っている。

紀元前5世紀初頭、レギウム(現レッジョ・ディ・カラブリア)の僭主アナクシラスがギリシャ都市メッセネ(ギリシア語: Μεσσήνη)にちなんで市名をメッセネに変えた。市は紀元前397年、メッセネの戦いカルタゴによって略奪され、シラクーザ僭主ディオニシウス1世によって再征服された。

紀元前288年、マメルティニ傭兵として市を攻撃し、男性市民全員を殺害し、女性市民を自分たちの妻とするため連れ去った。マメルティニが田園地帯を荒らし、拡大を進めるシラクーザと対立を引き起こしたことから、市は基地となった。シラクーザ僭主ヒエロン2世は、ロンガヌス川岸のミラエ(現ミラッツォ)近郊でマメルティニを退け、メッシーナを包囲した。シチリアの支配権をめぐりシラクーザと長く対立してきたカルタゴは、マメルティニを支援した。ヒエロン2世が紀元前264年に2度目の攻撃を仕掛けると、マメルティニはさらなる信頼できる保護を求めてローマへ同盟を嘆願した。事実上、その他の傭兵集団が反乱を起こさないよう務めるべく渋々支援したものの、ローマはカルタゴの力がさらにシチリアに伸びイタリア本土へ迫るのを見るのは気が進まなかった。ローマはそしてマメルティニと同盟した。紀元前264年、ローマ軍はシチリアへ配備された。これはイタリア半島外でローマ軍が活動した最初だった。

ローマ時代[編集]

第一次ポエニ戦争の終結後、メッシーナはローマと同盟した自由都市となった。ローマ時代のメッシーナは、メッサナ(Messana)として知られ、重要な灯台をもっていた。メッサナは、アウグストゥスに対抗したセクストゥス・ポンペイウスの基盤となった。

中世[編集]

ローマ帝国滅亡後、市は535年に東ローマ帝国、842年にアラブ人、そして1061年にはノルマン貴族の兄弟ロベール・ギスカールロジェ・ギスカールによって征服された。1189年、イングランドリチャード獅子心王が聖地へ向かう途上メッシーナに滞在し、妹であるシチリア王グリエルモ2世未亡人ジョヴァンナの持参金返還を巡る争いの後、事実上征服した。

メッシーナ海峡。18世紀

メッシーナは、黒死病がヨーロッパへ上陸した港だと見なされてきた。ペストパレスチナヤッファから到着したジェノヴァ船がもたらした。1548年、イグナチオ・デ・ロヨラはメッシーナにはじめてのイエズス会学校を設立した。後にストゥディウム・ジェネラーレ: Studium Generale)と呼ばれたこの学校が、現在のメッシーナ大学となった。

1783年の地震

レパントの海戦で勝利したキリスト教国家連合軍船隊は、メッシーナから出航した。スペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスはこの戦いに参加し、大病院で療養した。市は、スペイン支配下にあった17世紀初頭にその繁栄の頂点に達した。当時、ヨーロッパ有数の大都市に数えられていた。1674年、市は外国人駐屯地に対して反乱を起こした。フランス王ルイ14世の支援のために幾度か独立を維持したが、1678年、ナイメーヘン条約でスペインに再度征服され、略奪された。大学、ローマ時代から維持し続けてきた議会、全ての自治特権、が廃止された。どっしりとした要塞が支配者によってつくられ、その後メッシーナは徐々に衰えていった。1783年2月5日の夕刻、メッシーナとレッジョ・ディ・カラブリアに地震が発生した。

近現代[編集]

1847年、メッシーナはリソルジメント暴動が発生したイタリア最初の都市の一つとなった。1848年、ブルボン家支配に公然と反乱を起こしたが、再び厳しく制圧された。ミラッツォの戦い後の1860年に、ガリバルディ義勇軍が市を解放した。イタリア統一運動の主要人物であったジュゼッペ・マッツィーニ が、1866年の普通選挙でメッシーナから議員に選ばれた。

ルイージ・ボルツィによる港湾再建のためのボーザール建築平面図。まだ完成されていない。1909年

1908年12月8日、メッシーナは地震でほぼ市全てが破壊され、朝に発生した津波によっておよそ60,000人が亡くなり、古くからある建物の多くが破壊された。さらにモダンで合理的な都市計画によって、市はその後の年月で広範囲に再建された(しかし生存者の中には、生活のためにイタリア各地やアメリカ合衆国へ移民した者も少なくなかった)。第二次世界大戦中の1943年、さらなる打撃が連合国側の執拗な空爆で加えられ、数千人の死者を出した。のち市は、この出来事の追憶と再建の努力を讃え、ヴァロール・ミリターレ金勲章と、ヴァロール・チヴィーレ勲章が共和国政府から与えられた。

1955年6月、のちの欧州経済共同体設立につながった、西欧の外務大臣らが集まったメッシーナ会議が行われた[5]

行政[編集]

行政区画[編集]

分離集落[編集]

Acqualadroni, Altolia, Annunziata, Bordonaro, Briga Marina, Briga Superiore, Camaro Inferiore, Camaro Superiore, Castanea Delle Furie, CEP, Contesse, Cumia Inferiore, Cumia Superiore, Curcuraci, Faro Superiore, Galati Marina, Galati S. Anna, Ganzirri, Gazzi, Gesso, Giampilieri Marina, Giampilieri Superiore, Granatari, Gravitelli, Larderia Inferiore, Larderia Superiore, Massa S. Giorgio, Massa S. Giovanni, Massa S. Lucia, Massa S. Nicola, Mili Marina, Mili S. Marco, Mili S. Pietro, Minissale, Molino, Ortoliuzzo, Pace, Paradiso, Pezzolo, Piano Torre, Pistunina, Ritiro, Rodia, S. Agata, S. Filippo Inferiore, S. Filippo Superiore, S. Lucia sopra Contesse, S. Margherita, S. Michele, S. Saba, S. Stefano Briga, S. Stefano Medio, Salice, Scala Ritiro, Spartà, Sperone, Tipoldo, Torre Faro, Tremestieri, UNRRA, Villaggio Aldisio, Villaggio Santo, Zafferia

社会[編集]

経済・産業[編集]

市の第一の経済資源は、商業・軍事で利用される港湾で、数カ所の造船所を持つ。レモン、オレンジ、マンダリン・オレンジなどの果実、野菜の栽培、ワイン生産が行われる農業も重要である。

宗教[編集]

1548年からメッシーナにはカトリック教会のメッシーナ=リーパリサンタ・ルチーア・デル・メーラ大司教座が置かれ、地元の重要な祭りが行われている。

みどころ[編集]

数多くの教会や宮殿があったが、1908年の大地震で倒壊・再建されたものが多い。

  • メッシーナ大聖堂(Duomo di Messina) - 正式名称はBasilica Cattedrale Protometropolitana。神聖ローマ皇帝コンラート4世 (神聖ローマ皇帝)の埋葬地。1908年の地震で全体的に壊れ、1919年から1920年にかけ再建された。1943年の空爆で再度被災し、再建された。原型であるノルマン建築は、アプス周辺で見られる。ファサードには3つの後期ゴシック様式の出入り口があり、その中央出入口は15世紀初頭のものとされ貴重な装飾が残っている。
  • サン・フィリッポ・ネリ教会(Chiesa di San Filippo Neri) - 12世紀から13世紀。元はシナゴーグであった。
  • アンヌンツィアータ・デイ・カタラーニ教会(Chiesa di Annunziata dei Catalani) - 12世紀後期から13世紀。ノルマン時代後期からあり、本堂が短くされファサードが加えられた13世紀に外見を一変した。交差廊の外部装飾とドーム周辺が特色あり、小さな円柱によって切り離された隠れたアーチがある。明らかにイスラム建築の影響を反映している。
  • サンタ・マリア・デッリ・アレマンニ教会(Chiesa di Santa Maria Alemamma) - 13世紀初頭とされる。かつてはドイツ騎士団の礼拝堂であった。アーチ状窓と均斉のとれた支え壁が見られるように、シチリアではまれな純粋なゴシック教会である。
  • サンタントーニオ・ディ・パードヴァ教会(Basilica - Santuario di S. Antonio di Padova) - 聖アンニバーレ・マリア・ディ・フランチアが埋葬されている。
  • モンテヴェルジーネ修道院(Monastero di Montevergine) - 聖エウストキア・カラファートが埋葬されている。
メッシーナ大聖堂 
サンタ・マリア・アレマンニ教会 
クリスト・レイ礼拝堂 
カルミーネ教会 
Chiesa di San Nicolò 

スポーツ[編集]

サッカー[編集]

スタディオ・サン・フィリッポにおけるメッシーナ×ボローニャ戦(2005年)

サッカーのクラブチームとして、FCメッシーナが本拠を置く。ホームスタジアムはスタディオ・サン・フィリッポ (Stadio San Filippo。1900年創設のこのクラブは、2000年代前半にはセリエAに属し、柳沢敦小笠原満男もプレーしていた。しかし財政難のために2008-09シーズン以後プロリーグへの登録が認められず、セリエD(5部リーグ、アマチュア最上位リーグ)所属となっている。FCメッシーナと対岸レッジョ・ディ・カラブリアのレッジーナ・カルチョとの対戦は、海峡ダービーと呼ばれる。

人物[編集]

著名な出身者[編集]

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]