ウィリアム・J・ペリー

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ウィリアム・J・ペリー
William J. Perry
William Perry 1993.jpg
生年月日 1927年10月11日(87歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州

任期 1994年 - 1997年
大統領 ビル・クリントン

任期 1993年 - 1994年
大統領 ビル・クリントン
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ウィリアム・J・ペリー(William J. Perry、1927年10月11日 -)はアメリカ合衆国政治家。ビル・クリントン政権においてアメリカ合衆国国防長官を務めた(1994年2月3日から1997年1月23日)。現在はスタンフォード大学教授。黒船を率いて日本に来航したペリー提督は5世代前の伯父にあたる。

生い立ち[編集]

高校卒業後、学資稼ぎのために1947年軍隊へ志願。入隊直後に占領地日本へ派遣され、東京滞在約2ヶ月、沖縄滞在約1年半。沖縄では沖縄地図作成任務に配属され、旧日本軍が三角測量にて作成した地図を航空写真によって正確・詳細化に従事した。除隊後、カーネギー工科大学スタンフォード大学に学ぶ。スタンフォード大学にてPh.D(数学)を取得。

実業家時代[編集]

スタンフォード大で博士号を取得後、防衛産業のシルベニア社系列のエレクトロニック・ディフェンス・ラホラトリーズ社(EDL、現在のGTE)に入社し、上級数学研究員。弾道ミサイルのテレメトリ事業に従事。4年後にEDLのトップ、6年後にスピンアウトしてエレクトロマグネティック・システムズ・ラボラトリーズ社(ESL)を創立。

ジョン・F・ケネディ大統領時代、キューバ危機のもととなったソビエト連邦(ソ連)とアメリカのミサイル戦力差、すなわちミサイルギャップを解明する委員会に参加。米国の一般的な見解に相反して、米国のミサイル力がソ連に勝ることを明らかにした。あわや核による第三次世界大戦の一歩手前までいったキューバ危機を関係者の一人として間近に経験したことが「核なき世界」を目指す契機となった。

国防次官時代(カーター政権)[編集]

1977年ジミー・カーター大統領によってアメリカ合衆国国防長官に指名されたハロルド・ブラウンに請われて国防次官(研究・工学担当)に就任。ブラウン長官提案のオフセット戦略――ソ連に数において劣る米軍の力を増強するためにハイテク技術を駆使する――を推進した。推進した技術には、精密誘導爆弾、GPS(全地球測位システム)、DARPAネット(今日のインターネットの前身)がある。

後に湾岸戦争で威力を発揮することになるステルス爆撃機F117もペリー国防次官の下で開発された。ロッキードに開発を急がせ通常であれば12年〜15年かかる開発を短縮、4年で実戦配備した。

民間外交時代[編集]

1981年、カーター政権の終りとともにスタンフォード大学に復帰。ソ連との民間外交に関与。のちにロシアの政権の高官となるアンドレイ・ココーシン・コズイレフの知遇を得る。

1991年のソ連崩壊当時、旧ソ連からの核拡散への対策が緊急の課題となった。民主党のサム・ナン、共和党のリチャード・ルーガーとともに旧ソ連の核関連施設を視察した。この視察をもとに協調的脅威削減計画(CTR)、通称「ナン・ルーガー法」が定められ、米国主導の下に旧ソ連の核兵器の処分が進められることになる。

国防副長官・国防長官時代(クリントン政権)[編集]

1993年、国防副長官に就任。ナン・ルーガー法に従って、ロシアに対して旧ソ連の核兵器廃棄事業を支援した。

1994年1月、レス・アスピン長官の辞任時、ビル・クリントン大統領よりアメリカ合衆国国防長官への就任を要請された。一度は辞退したが、アル・ゴア副大統領より説得されて翻意、長官に就任した。

旧ソ連圏の崩壊に伴い、東ヨーロッパの安定が課題となった。NATOは東欧へ拡大しようとしていたが、NATO拡大に対して警戒感をもっていた新生ロシアの懸念を払拭することが必要だった。そのとき、ペリー国防長官は、NATO加盟の前段階としての「平和のためのパートナーシップ(PFP)」を推進した。その結果、ロシアのPFPへの参加を引き出し、ソ連崩壊後の東欧の安定化に成功した。

1994年、北朝鮮が実験用黒鉛減速炉からプルトニウムを抽出するぞと得意の瀬戸際外交を演じた際には、ペリー国防長官は徹底して外交的解決をめざしたが、軍事的な後ろ盾の必要も感じ、密かに北朝鮮の核疑惑施設への空爆、いわゆるサージカル・ストライクも検討させていた。このとき空爆の対象として検討された施設は、寧辺にある核燃料再処理施設、5メガワットの実験炉、使用済み燃料保管プールなどである。カーター元大統領を特使として派遣し、北朝鮮が核開発を中止するかわりに米日韓が中心になって2基の軽水炉を建設するという「米朝枠組み合意」が最終的な交渉結果となった。

1996年3月、台湾の民主化がすすめられ初めての総統直接選挙が行われた。民主化を推進している李登輝が優勢との情報が伝えられるや中華人民共和国の人民解放軍は台湾沖に向けてミサイル演習を実施した。米国はインド洋から原子力空母ニミッツ、横須賀を母港とする空母インディペンデンスを急遽台湾周辺に派遣した。二隻の空母派遣表明が奏功し、空母が到着したときには大陸側のミサイル演習は終わっていた。この台湾海峡ミサイル危機への米国の対応にあたって、ペリー長官は国家安全保障会議に対して代案なしで選択肢を一つしか提案しなかったと回想している。

1996年4月、クリントン大統領が来日して橋本龍太郎首相と会談し、冷戦終結後の日米安保体制の重要性を再確認する「日米安保共同宣言」に署名した。普天間基地の返還もこのとき決定した。そこに至る2年以上の歳月を、ペリー国防長官は、ジョセフ・ナイ国防次官補と共に歩んだ日米双方の関係者の困難解決の過程を感慨をもって「私の履歴書」で振り返っている。

1994年10月、1989年の天安門事件以後はじめて米国防相として訪中。その答礼として、1996年にこれまた天安門事件以後はじめての訪米となる中国国防相 遅浩田国防相を米国に迎え、米中の軍事交流をすすめた。

北朝鮮核問題への取り組み[編集]

1998年、代替軽水炉建設に北朝鮮側がいろいろな注文をつけ建設が大幅に遅れ、1994年の「米朝枠組み合意」が崩壊一歩前の状態にいたっていた。また、1998年8月、北朝鮮は警告なしにテポドン1号の実験を実施した。このミサイルは日本列島を越えて太平洋に落下し、一気に緊張が高まった。これらの問題に対処するためクリントン米大統領は、すでに国防長官を譲っていたウィリアム・J・ペリーを同年11月北朝鮮政策調整官に任命してこの任に当たらせた。ペリー調整官は、韓国(金大中政権)、日本(小渕政権)と意見を調整して、翌1999年5月特使として北朝鮮を訪問した。北朝鮮側の反応は芳しくなく金正日総書記にも面会できなかったため交渉は失敗したとも思われたが、その後ゆっくりと交渉が進展し、2000年10月金総書記が特使を米国へ派遣するに至った。「このあと、クリントン大統領が訪朝すれば、「休戦状態」にある朝鮮戦争を終わらせることができたかもしれない」とペリーは回想しているが、クリントン大統領は任期末にあり中東問題もかかえていたため、クリントン訪朝は実現しなかった。

核廃絶へ向けて[編集]

あわや核による第三次世界大戦の一歩手前までいったキューバ危機を、30代の若い頃 関係者の一人として間近に経験したことがペリー元国防相が「核なき世界」を目指すこととなった契機である。2007年1月、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙に「核なき世界を」と題した意見論文を発表した。共同執筆者は、レーガン政権(共和党)で国務長官を務めたジョージ・シュルツ、ニクソン政権(共和党)で国務長官などを務めたヘンリー・キッシンジャー、安全保障の専門家で ソ連崩壊後の核問題を処理するために「ナン・ルーガー法」を立案して貢献したサム・ナン元上院議員(民主党)。この論文がオバマ大統領の「核のない世界」へとつながった。また、この4人は、その意見を「核の転換点」という題のドキュメンタリーフィルムとして核廃絶を訴えた。

ペリー元国防長官提案の核廃絶への道筋[編集]

  • 第一段階
    • 米ロ核軍縮条約合意(12年まで)
    • 米国が包括的核実験禁止条約(CTBT)を批准
    • 核兵器用核分裂物質生産禁止条約(カットオフ条約)
  • 第二段階
    • 米ロの保有核弾頭を500発に圧縮(現状比約95%)
    • 英、仏、中、印、パの核戦力現状維持
  • 第三段階
    • 新たな政治環境・システムに応じた核削減努力(北朝鮮・イランなど)

叙勲[編集]

参考文献[編集]