ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア
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ヘンリー・カボット・ロッジ
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| 任期 1937年1月3日 – 1944年1月3日 |
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| 前任者 | マーカス・クーリッジ |
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| 後任者 | シンクレア・ウィークス |
| 任期 J 1947年1月3日 – 1953年1月3日 |
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| 前任者 | デヴィッド・I・ウォルシュ |
| 後任者 | ジョン・F・ケネディ |
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第3代 アメリカ合衆国駐国連大使
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| 任期 1953年 – 1960年 |
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| 大統領 | ドワイト・D・アイゼンハワー |
| 前任者 | ウォレン・オースティン |
| 後任者 | ジェームズ・ワーズワース |
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| 任期 1963年 – 1964年 |
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| 大統領 | ジョン・F・ケネディ リンドン・B・ジョンソン |
| 前任者 | フレデリック・ノルティング |
| 後任者 | マクスウェル・D・テイラー |
| 任期 1965年 – 1967年 |
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| 大統領 | リンドン・B・ジョンソン |
| 前任者 | マクスウェル・D・テイラー |
| 後任者 | エルズワース・バンカー |
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| 任期 1968年 – 1969年 |
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| 大統領 | リンドン・B・ジョンソン, リチャード・ニクソン |
| 前任者 | ジョージ・C・マッギー |
| 後任者 | ケネス・ラッシュ |
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| 出生 | 1902年7月5日 マサチューセッツ州ナハント |
| 死亡 | 1985年2月27日(82歳) マサチューセッツ州ベヴァリー |
| 国籍 | |
| 政党 | 共和党 |
| 配偶者 | エミリー・シアーズ |
| 子女 | ジョージ・カボット・ロッジ2世 ヘンリー・シアーズ・ロッジ |
| 母校 | ハーバード大学 |
| 信仰 | 米国聖公会 |
| 兵役経験 | |
| 部門 | |
| 最終階級 | 中佐 |
| 戦闘 | 第二次世界大戦 |
ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア(英: Henry Cabot Lodge Jr., 1902年7月5日 - 1985年2月27日)はアメリカ合衆国の政治家、外交官。連邦上院議員(マサチューセッツ州選出、1937年 - 1944年、1947年 - 1953年)、国連大使(1953年 - 1960年)、駐南ベトナム大使(1963年 - 1964年)、無所任大使(1967年 - 1968年)、駐西ドイツ大使(1968年 - 1969年)、パリ和平交渉のアメリカ代表団代表、駐バチカン大使(1970年 - 1977年)を歴任。1960年の共和党副大統領候補。祖父は上院議員、上院外交委員長を務めたヘンリー・カボット・ロッジ。
目次 |
生い立ちと経歴 [編集]
ロッジはマサチューセッツ州ナハントで生まれる。ロッジ家はマサチューセッツにおいて政治及び芸術で著名な一族であった。父親は詩人のジョージ・カボット・ロッジであり、母親はマチルダ・エリザベス・フリーリングハイゼン(デイヴィス)ロッジであった。彼は上院議員のヘンリー・カボット・ロッジの孫であり、父親が1909年に死去すると、祖父がその成長に大きな影響を与えることとなった。彼はまた上院議員のジョージ・カボットの子孫でもあり、下院議員のオーガスタス・ピーボディ・ガードナーの甥でもあった[1]。
ロッジはミドルセックス・スクールに通い、1920年に卒業、その後1924年にハーバード大学を優等で卒業した。「ヘラルド・トリビューン」紙などの新聞記者を経て、1931年にマサチューセッツ州下院議員に選出、1936年まで同職を務める。同年の上院議員選挙で共和党から出馬、前知事のジェームズ・マイケル・カーリーを破って当選する。
ロッジは陸軍に入隊し、功績を挙げ中佐まで昇進した。第二次世界大戦では2度の勤務を経験した。最初は1942年、この時は上院議員を兼務していたが、2度目の1944年から45年は議員を辞職して軍務に専念した。
最初の期間は陸軍予備役士官としてであった。彼は第1装甲師団に少佐として着任した。同師団は北アフリカを拠点とし、英軍戦車部隊と共にエジプト、リビアで活動した[2]。部隊は地上でドイツ軍と最初に接触したアメリカ軍装甲部隊であった[3]。フランクリン・D・ルーズベルト大統領は軍務を兼任する国会議員に対して兼務を禁止する命令を出し、ロッジは議員に留まることを選択したため任務は1942年7月に終了した。ヘンリー・スティムソン陸軍長官がワシントンへの帰還命令を出し、彼は帰国した[3]。
ワシントンに戻り1942年11月に再選を果たすと、ロッジは上院議員としての任期の初年度を勤務した。しかしながら1944年2月3日に議員を辞職、軍務に復帰した[4]。彼は南北戦争以来初めての、軍務に就くため辞職した議員であった[5]。イタリアおよびフランスで実戦を経験し、中佐に昇進する。1944年の秋には自力でドイツ軍斥候4名を捕虜として捕らえている[6]。1945年3月までに彼はフランスのレジオンドヌール勲章と、クロア・ド・ゲールを受章した[7]。1945年の終戦時に彼は第6軍司令官ジェイコブ・デヴァース将軍の連絡及び通訳担当将校として西オーストリアにおいてドイツ軍の降伏交渉に臨席した。
戦後ロッジはマサチューセッツに戻り、再び上院議員に選出、政治経歴を再開した。
1952年、ロッジは上院議員選で対立候補のジョン・F・ケネディに敗北するが、1953年にはドワイト・D・アイゼンハワー大統領より国連大使に任命される。1960年の大統領選でロッジはリチャード・ニクソンによって副大統領候補に指名され、国連大使を辞任した。ニクソンは大統領選でケネディに敗れ、ケネディはロッジを南ベトナム大使に任命した。ロッジは同職を1963年から64年まで勤めた。
1964年の共和党大統領候補者争いでは、ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事とバリー・ゴールドウォーター上院議員が激しく競っていた。ロッジは当初から立候補するつもりはなかったが、ニューハンプシャー州予備選で有力な2人を破り、書き込み投票(Write-in)で1位になった。ロッジは改めて指名を求める意志がなく、ロックフェラーを支持することを表明したが、その後も地元マサチューセッツ州、ニュージャージー州の予備選で勝利した。
ロッジは1985年に死去し、マサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。
関連項目 [編集]
参照 [編集]
- ^ The Political Graveyard accessed 2007-07-06
- ^ "Into the Funnel," Time Magazine, 1942-07-42.
- ^ a b "For Services Rendered," Time Magazine, 1942-07-20.
- ^ "Lodge in the Field," Time Magazine, 1944-02-14.
- ^ http://bioguide.congress.gov/scripts/biodisplay.pl?index=l000394
- ^ "People," Time Magazine, 1944-10-09.
- ^ "Reservations," Time Magazine, 1945-03-19.
外部リンク [編集]
- ヘンリー・カボット・ロッジ・ジュニア - Biographical Directory of the United States Congress
- The Papers of Henry Cabot Lodge Jr., Dwight D. Eisenhower Presidential Library
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代: マーカス・クーリッジ |
マサチューセッツ州選出上院議員(第2部) 1937年 - 1944年 同職:デヴィッド・I・ウォルシュ |
次代: シンクレア・ウィークス |
| 先代: デヴィッド・I・ウォルシュ |
マサチューセッツ州選出上院議員(第1部) 1947年 - 1953年 同職:レヴァレット・サルトンストール |
次代: ジョン・F・ケネディ |
| 党職 | ||
| 先代: リチャード・ニクソン |
共和党副大統領候補 1960年 |
次代: ウィリアム・ミラー |
| 外交職 | ||
| 先代: ウォレン・オースティン |
アメリカ合衆国国連大使 1953年 - 1960年 |
次代: ジェームズ・ワーズワース |
| 先代: フレデリック・ノルティング |
在南ベトナムアメリカ合衆国大使 1963年 - 1964年 |
次代: マクスウェル・D・テイラー |
| 先代: マクスウェル・D・テイラー |
在南ベトナムアメリカ合衆国大使 1965年 - 1967年 |
次代: エルズワース・バンカー |
| 先代: ジョージ・C・マッギー |
在西ドイツアメリカ合衆国大使 1968年 - 1969年 |
次代: ケネス・ラッシュ |
| 受賞や功績 | ||
| 先代: ジョン・フォスター・ダレス |
シルヴァヌス・サイアー賞 1960年 |
次代: ドワイト・D・アイゼンハワー |