ACFフィオレンティーナ
| ACFフィオレンティーナ | ||||
|---|---|---|---|---|
| 原語表記 | ACF Fiorentina SpA | |||
| 愛称 | Viola、Gigliati | |||
| クラブカラー | 紫 |
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| 創設年 | 2002年 | |||
| 所属リーグ | セリエA | |||
| ホームタウン | フィレンツェ | |||
| ホームスタジアム | スタディオ・アルテミオ・フランキ |
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| 収容人数 | 47,495 | |||
| 代表者 | ||||
| 監督 | ||||
| 公式サイト | 公式サイト | |||
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| ■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ | ||||
ACFフィオレンティーナ(ACF Fiorentina SpA 以前の名称としてAssociazione Calcio Fiorentina及びFlorentia Viola)は、イタリアのトスカーナ州フィレンツェを本拠地とするサッカークラブである[1]。
目次 |
解説 [編集]
クラブカラーからヴィオラ(イタリア語で「紫・菫色」)の愛称で呼ばれる。また、フィレンツェ市のシンボルである百合の紋章からジリアーティ(イタリア語で「百合の人」)とも呼ばれる。
クラブの全盛期にはリーグ戦、コッパ・イタリア、カップウィナーズカップなどで優勝を経験するなど、インテル、ミラン、ユヴェントス、ローマなどのトップグループに次ぐ強豪クラブとして確固たる地位を築いた。
1990年代中期以降もガブリエル・バティストゥータ、マヌエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込んだ。
なお、日本にもフィオレンティーナのサポーターは多く、クラブ公認サポーターズクラブ「ヴィオラクラブ・ジャパン」も存在している。クラブとしても1997年から任天堂と2年間、1999年からTOYOTAと8年間(クラブ消滅により2002年からセリエAに復帰する2004年までは一時撤退)、2011年からMAZDAとメインスポンサー契約を結んでおり、延べ10年以上に渡って日本企業をユニフォームの胸ロゴとしている他、2004年には中田英寿を獲得するなど日本とは浅からぬ縁があるといえる。ちなみに、任天堂は京都サンガF.C.、MAZDAはサンフレッチェ広島のスポンサーでいずれも紫がチームカラーである(TOYOTAがスポンサーの名古屋グランパスのチームカラーは赤)。
沿革 [編集]
創設から最初の全盛期まで [編集]
旅先のイングランドで観たサッカーに魅了された創設者のルイジ・リドルフィ伯爵は、パレストラ・ジンナスティカ・リベルタス (Palestra Ginnastica Libertas) とクラブ・スポルティーヴォ・フィレンツェ (Club Sportivo Firenze) というフィレンツェの2つのサッカークラブを合併させて、1926年8月26日にACフィオレンティーナ (Associazione Calcistica Fiorentina)を創設した。初期のクラブカラーは紫ではなく、フィレンツェの市章と同じ赤と白のシャツを着ていた。[2][3]
1930-31シーズンのセリエBで優勝して、[4]1931-32シーズンよりセリエAに参加。1930年W杯優勝メンバーだったウルグアイ人FWペドロ・ペトローネがリーグ得点王となる活躍を見せ、セリエA初年度は18チーム中4位に食い込んだ。[5]1931年9月13日にはホームスタジアムのスタディオ・アルテミオ・フランキ(当時はスタディオ・ジョヴァンニ・ベルタと呼称)が開場した。1938-39シーズンにセリエBへと降格したが、1シーズンでセリエAに復帰。1939-40シーズンのコッパ・イタリアではジェノアを決勝で破り、クラブ初タイトルを獲得した。
1950年代から1960年代にかけてクラブは全盛期を迎えた。初めてスクデットを獲得した1955-56シーズンは2位のACミランに勝ち点12差をつけての独走優勝だった。[6]1956-57シーズンにはUEFAチャンピオンズカップで準優勝(優勝はレアル・マドリード)。1960-61シーズンにはUEFAカップウィナーズカップで優勝したが、これはイタリアのクラブにとって最初の欧州タイトルでもあった。
チェッキ・ゴーリ時代 [編集]
1980年にクラブを買収した宅建業者のフラヴィオ・ポンテッロは、1990年に人気選手のロベルト・バッジョをライバルユヴェントスに売却したことでティフォージから大きな批判を浴びつつオーナーの座を追われた。[3][2]クラブ経営は映画王のマリオ・チェッキ・ゴーリが引き継いだが、補強に失敗して1993-94シーズンに54年ぶりにセリエBへ降格した。[7]マリオの没後は息子のヴィットーリオ・チェッキ・ゴーリが会長に就任した。
セリエB降格でもクラブを離れなかったアルゼンチン人FWガブリエル・バティストゥータの活躍もあり、1年でセリエAに復帰。1990年代中盤以降はバティストゥータとポルトガル人ゲームメーカーのマニュエル・ルイ・コスタらを擁して上位に食い込んだ。1998-99シーズンはシーズン前半を首位で折り返すも、最終的には首位から勝ち点差14の3位に終わった。[8]
経営破綻と4部降格 [編集]
1990年代後半における放漫経営の結果、2000年代に入ると主力選手を次々に放出し成績は下降する。2000-01シーズンは9位、2001-02シーズンは17位となり、2002年夏には親会社が破綻。クラブは2002年に4部リーグ(セリエC2)に強制降格された。この結果、クラブは消滅し、「フィオレンティーナ」の名称の使用権も旧クラブの債権者に渡ってしまう。しかし、フィレンツェ財界とティフォージたちは新会社「フィオレンティーナ1926」を設立して新チーム「フロレンティア・ヴィオラ」を結成(フロレンティアはフィレンツェの古称である)。フィオレンティーナ再建に取り組んだ。クラブの新オーナーには革靴ブランド企業家のディエゴ・デッラ・ヴァッレが就任した。
名門復活 [編集]
フロレンティア・ヴィオラは2002-03シーズン、主将のアンジェロ・ディ・リービオとエースストライカーのクリスティアン・リガノを中心に戦い、セリエC2を優勝。2003年には「フィオレンティーナ」の商標権を入札により250万ユーロで獲得し、2003-04シーズンからは再びフィオレンティーナとして戦うことになった。また特例によりこのシーズンは3部ではなく2部のセリエBに編入された。[9]
いきなり2つ上のリーグで戦うことになったフィオレンティーナは苦戦するも、リガノの得点力はセリエBでも群を抜いており、なんとかセリエA下位クラブとのプレーオフ権が与えられる6位を確保。プレーオフではリガノとディ=リーヴィオが故障で出場出来ないという危機的状況であったが、ACペルージャを下して3季ぶりにセリエAへ復帰することとなった。
セリエA復帰とカルチョ・スキャンダル [編集]
2004-05シーズンには中田英寿やマルティン・ヨルゲンセン、トマーシュ・ウイファルシ、ジョルジョ・キエッリーニ、ファブリッツィオ・ミッコリ、エンツォ・マレスカなどの有力選手を一気に獲得してセリエAを戦ったが、急造チーム故なかなか勝ち点を獲得出来ず、シーズンを通して残留争いをすることとなる。実はこの苦戦の裏には、ユヴェントスのオーナーが仕掛けた審判による八百長、いわゆるカルチョ・スキャンダルが存在していた(八百長に加わらないクラブに対しては不利な判定を下すというもの)。また、大型補強により加わった新加入の外国人選手達と、それにより出場機会を奪われたセリエB時代からクラブを支えていたと自負する一部のイタリア人選手達との間に軋轢が生じ、ロッカールームの空気もまとまりにかけるものであった。結果、フィオレンティーナは最終節で勝たなければ再び降格という所まで追い詰められたが、アルテミオ・フランキで開催されたシーズン最終節ではディ=リーヴィオの獅子奮迅の活躍などもあり、劇的な残留を決めることとなった。このシーズンは16位でセリエAを終える。
2005-06シーズンには、前年度の低迷を受けクラブは幹部の大刷新を行う。オーナー兼会長であったディエゴ・デッラ・ヴァッレは名誉会長に退き、実際的なクラブの舵取りは、副会長であった弟のアンドレア・デッラ・ヴァッレに譲りアンドレアが会長に就任。また当時レッチェの躍進を支えていたパンタレオ・コルヴィーノを新たにスポーツディレクターに迎え、夫人の看病のために監督業を休業していたチェーザレ・プランデッリを新体制の監督として招聘。クラブのプロジェクトも中長期的なものに変更し、2010年以降にスクデットを狙える「有望な若手選手と共に成長するクラブ」をスローガンとした。新体制の幹部は前年度に造反したとされる選手達を格安で放出し、新たにルカ・トーニ、ステファノ・フィオーレ、クリスティアン・ブロッキ、セバスティアン・フレイなどのベテラン選手やプランデッリ監督の元教え子を集め、また無名の有望選手を発掘することに長けたコルヴィーノはアレッサンドロ・ガンベリーニ、リッカルド・モントリーヴォ、マヌエル・パスクアルらの若手選手に投資した。このシーズンは前年に獲得した選手たちが漸くまとまってきたことに加え、新加入のルカ・トーニの大活躍もあってクラブは躍進し、チャンピオンズリーグ出場権が与えられる4位となる。
ユヴェントス、ミラン、ラツィオと同様に、セリエAの八百長問題に関わったとして、2006年7月14日に「セリエB降格および勝ち点-12点からのリーグ戦開始」との判決が下される。同年7月25日の控訴審判決において、セリエA残留で2006-2007シーズンは-19点からのスタート、2005-2006シーズンの勝ち点-30点の判決が下った(カルチョ・スキャンダルの項を参照)。この判決を不服とした一部サポーターがフーリガン化し、フィレンツェ周辺の鉄道を一時不法占拠する事態ににまで発展した。
カルチョ・スキャンダルを越えて [編集]
勝ち点の大幅剥奪から始まった2006-07シーズンであったが、トーニの破壊力は健在であり、クラブは連戦連勝、勝ち点剥奪がなければチャンピオンズリーグ圏内のリーグ3位(最終順位は5位)というシーズンとなった。またシーズン中にレギュラーポジションを獲得し成長したアレッサンドロ・ガンベリーニやゴールキーパーのセバスティアン・フレイを中心とした守備陣も奮闘し、チームはリーグ最少失点でシーズンを終えた。トーニはこのシーズン限りでバイエルン・ミュンヘンに去ったが、長い放浪の末フィオレンティーナでかつての輝きを取り戻したアドリアン・ムトゥ、チェーザレ・プランデッリ監督就任以降じっくりと育ててきた若手のジャンパオロ・パッツィーニやモントリーヴォがクラブの屋台骨を支える存在へと成長し[10]、2007-08シーズンはリーグ戦4位、UEFAカップ準決勝進出というセリエA復帰後最高の成績で終わった。
2008-09シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場するにあたり、大型補強を敢行する。アルベルト・ジラルディーノ、ステヴァン・ヨヴェティッチ、フアン・マヌエル・バルガス、フェリペ・メロなどの高額移籍金選手に投資した。かつての恩師の下で復活を果たしたジラルディーノや、ブラジル代表に初選出される程の存在感を示したフェリペ・メロら新戦力の活躍もあり、チャンピオンズリーグとの二足の草鞋にも耐え2年連続でリーグ戦を4位で終える。一方で大型補強の煽りを受け出場機会を減らした若手選手が不満を訴え、クラブはパッツィーニやパブロ・ダニエル・オスヴァルドらの有望若手選手数人を手放すことになる。9シーズンぶりに参加したチャンピオンズリーグでは予備予選を勝ち抜き本大会に出場するが、バイエルン・ミュンヘン、オリンピック・リヨンらに退けられ、グループリーグで敗退した。
2009-10シーズンには昨年活躍したメロの他、ズドラヴコ・クズマノヴィッチ、フランコ・セミオーリらを放出するも、思うように補強が進まず不安を抱えたままシーズンをスタートする。しかしながらチャンピオンズリーグではスポルティング・リスボンとのプレーオフをアウェーゴールの差で辛くも突破し、続くグループリーグではヨヴェティッチらの活躍もあり名門リヴァプールに連勝。昨年苦杯を呈したオリンピック・リヨンらを抑え見事を首位で通過する。迎えた決勝トーナメント1回戦ではバイエルン・ミュンヘンと対戦。ファーストレグでは試合終了間際オフサイドポジションに居たミロスラフ・クローゼのゴールが認められる誤審もあり、トータルスコア4-4ながらもアウェーゴールの差で大会を去ることとなった。一方リーグ戦ではカップ戦での疲労もあってか不安定な戦いが続き、中位から下位を彷徨う事になる。冬には主将を務めていたダリオ・ダイネッリがジェノアに移籍、更にムトゥのドーピング陽性反応が発覚。これによりで同選手は9ヶ月の出場停止を言い渡されることになる。これらがチームのさらなるモチベーション低下に大きく影響したと見られ、その後もチームの調子は上がらず最終的にリーグを11位で終え、3年ぶりに欧州カップ戦の舞台から姿を消すこととなった。
2010-11シーズンは開幕前にヨヴェティッチが負傷で長期離脱が決定。出場停止のムトゥと併せ2大エースを欠いたままリーグ開幕を迎えたチームはその後も負傷者が相次ぎ、一時はリーグ最下位まで低迷する。しかしながら先述の両エースの戦線復帰に伴いチームは徐々に復調。最終的には降格圏の18位に勝ち点15差を付けリーグ9位でシーズンを終えた。
2011-12シーズンは開幕10試合で3勝4敗3分の成績不振からシニシャ・ミハイロヴィチが2011年11月6日のキエーヴォ戦に敗れた翌日、解任された[11]。後任にはデリオ・ロッシが就任し、3バックに切り替えるなどしたものの、成績は上昇せず、終盤戦には残留争いに巻き込まれた。冬にはアマウリをユヴェントスから獲得したものの、1ゴールと完全な期待外れだった。2012年5月2日のノヴァーラ戦では、前半32分に途中交代を命じられたことに腹を立て、皮肉を込めた拍手をしたアデム・リャイッチにロッシが殴りかかり、試合後ロッシは解任された。後任にはチームマネジャーを務めていたヴィンチェンツォ・グエリーニが就任[12]。残り2試合を指揮した。昨シーズン公式戦出場ゼロだったヨヴェティッチが14ゴールを決めてひとり気を吐くも、最終的には13位でシーズンを終えた。
タイトル [編集]
国内タイトル [編集]
国際タイトル [編集]
所属選手 [編集]
フォーメーション [編集]
- 2012-13シーズン開幕戦スターティングメンバー
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括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
2012-13シーズン移籍 [編集]
詳細は「:en:List of Italian football transfers summer 2012」を参照
- in(夏)
- FW
ハリス・セフェロヴィッチ Fromパルチザン・ベオグラード ※レンタルバック - DF
マッティア・カッサーニ FromUSチッタ・ディ・パレルモ ※300万ユーロの移籍金 - MF
アンドレア・ラッツァーリ Fromカリアリ・カルチョ ※150万ユーロで共同保有権完全買い取り - DF
アハメド・ヘガジー Fromアル・イスマイリー ※150万ユーロの移籍金 - FW
ムニル・エル・ハムダウィ Fromアヤックス・アムステルダム ※85万ユーロの移籍金 - DF
ファクンド・ロンカリア Fromボカ・ジュニアーズ ※移籍金フリー - GK
クリスティアーノ・ルパテッリ FromジェノアCFC ※移籍金フリー - FW
ファン・クアドラード Fromウディネーゼ・カルチョ ※共同保有権の買い取りオプション付きのレンタル - MF
マティアス・フェルナンデス Fromスポルティング・リスボン ※350万ユーロの移籍金 - GK
エミリアーノ・ヴィヴィアーノ FromUSチッタ・ディ・パレルモ ※買い取りオプション付レンタル - MF
フランチェスコ・デッラ・ロッカ FromUSチッタ・ディ・パレルモ ※レンタル - MF
ボルハ・バレロ FromビジャレアルCF ※700万ユーロの移籍金 - DF
ゴンサロ・ロドリゲス FromビジャレアルCF ※100万+ボーナス50万ユーロの移籍金 - MF
アルベルト・アクィラーニ FromリヴァプールFC - MF
ダビド・ピサーロ FromASローマ
- out(夏)
- DF
フェリペ ToACシエナ - DF
アレッサンドロ・ガンベリーニ ToSSCナポリ - MF
リッカルド・モントリーヴォ ToACミラン ※契約切れ - MF
ヴァロン・ベーラミ ToSSCナポリ - MF
アレッシオ・チェルチ ToトリノFC
歴代所属選手 [編集]
詳細は「:Category:ACFフィオレンティーナの選手」を参照
GK [編集]
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DF [編集]
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MF [編集]
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FW [編集]
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歴代会長 [編集]
歴代監督 [編集]
| 氏名 | 国籍 | 期間 |
|---|---|---|
| スヴェン・ゴラン・エリクソン | 1987-1989 | |
| セバスティアン・バロッソ・ラザローニ | 1990-1992 | |
| ルイジ・ラディーチェ | 1992 | |
| アルド・アグロッピ | 1992-1993 | |
| クラウディオ・ラニエリ | 1993-1997 | |
| アルベルト・マレザーニ | 1997 | |
| ジョバンニ・トラパットーニ | 1998-2000 | |
| ファティ・テリム | 2000-2001 | |
| ロベルト・マンチーニ | 2001-2002 | |
| ピエトロ・ヴィエルコウッド | 2002.8.10-2002.10.29 | |
| アルベルト・カヴァジン | 2002.10.29-2004.2.10 | |
| エミリアーノ・モンドニコ | 2004.2.12-2004.10.25 | |
| セルジョ・ブーゾ | 2004.10.25-2005.1.24 | |
| ディノ・ゾフ | 2005.1.24-2005.6.7 | |
| チェーザレ・プランデッリ | 2005.6.7-2010.6.3 | |
| シニシャ・ミハイロヴィチ | 2010.6.3-2011.11.7 | |
| デリオ・ロッシ | 2011.11.7-2012.5.2 | |
| ヴィンチェンツォ・グエリーニ | 2012.5.3-2012.6.10 | |
| ヴィンチェンツォ・モンテッラ | 2012.6.11- |
近年の歴代キャプテン [編集]
マヌエル・パスクアル 2012.7-
アレッサンドロ・ガンベリーニ 2011.7-2012.7
リッカルド・モントリーヴォ 2010.2-2011.7
ダリオ・ダイネッリ 2005-2010.1
ルカ・アリアッティ 2004-2005
アンジェロ・ディ・リービオ 2001-2004
マヌエル・ルイ・コスタ 2000-2001
ガブリエル・バティストゥータ 1995-2000
フランチェスコ・バイアーノ 1994-1995
シュテファン・エッフェンベルク 1993-1994
注 [編集]
- ^ クラブは2002年に倒産を経験しており、厳密に言えば1926年に創設されたクラブと現在のクラブは別組織であるが、現在のクラブが前身となったクラブの商標権を継承していること、2002年に倒産したクラブの最後の主将だった人物が2002年に創設されたクラブの最初の主将でもあったことなどから、本項ではこの二つのクラブをまとめて解説する。
- ^ a b “La Storia della Fiorentina”. ACF Fiorentina - Official Site (2006年1月23日). 2008年5月25日閲覧。
- ^ a b ラフガイド社『欧州サッカー60都市現地観戦ハンドブック2000 ヨーロピアンフットボール』(ダイナゲイト、2000年)
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital31.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital32.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital56.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital93.html
- ^ http://www.rsssf.com/tablesi/ital99.html
- ^ “中田英寿とヴィオラの再出発 - 悲劇、そして王国復興へ - 思わぬセリエB昇格 巨額の投資でチーム強化”. CALCIO 2002. 2008年5月25日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ 二人はいずれもアタランタ育ちで同じ年にフィオレンティーナに移籍したこと、背丈や顔立ちも似ていることから、ティフォージの間ではまとめて「パッツォリーヴォPazzolivo」との愛称で呼ばれる存在である。[1]
- ^ フィオレンティーナがミハイロビッチを解任 - Goal.com[2]
- ^ フィオレンティーナ、残り2戦はグエリーニ氏が指揮 殴られた選手は謝罪[3]
外部リンク [編集]
- 公式
- フィオレンティーナ公式サイト (イタリア語)
- ヴィオラクラブ(日本のオフィシャルファンクラブ) (日本語)
- レガ・カルチョ - フィオレンティーナ (イタリア語)
- UEFA.com - フィオレンティーナ (日本語)
- ユニフォーム
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