ホセ・ルイス・ブラウン

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ホセ・ルイス・ブラウン Football pictogram.svg
名前
愛称 El Tata(エル・タタ、パパ)
ラテン文字 Jose Luis Brown
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1956年11月11日(58歳)
出身地 ブエノスアイレス州, ランチョス
身長 183cm
選手情報
ポジション DF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1975-1983
1983-1986
1987-1988
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1989
アルゼンチンの旗 エストゥディアンテス
コロンビアの旗 アトレチコ・ナシオナル
アルゼンチンの旗 デポルティーボ・エスパニョール
アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ
フランスの旗 スタッド・ブレスト
スペインの旗 レアル・ムルシア
アルゼンチンの旗 ラシン・クラブ
290 (27)
87 (14)
5 (0)
? (?)
31 (1)
28 (1)
9 (1)
代表歴
1983-1989 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 36 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ホセ・ルイス・ブラウンJosé Luis Brown1956年11月11日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。ポジションはディフェンダー

経歴[編集]

選手時代[編集]

クラブ[編集]

エストゥディアンテスの下部組織出身。1975年にトップチームデビューし、メトロポリターノ1982とナシオナル1983ではキャプテンとしてプリメーラ・ディビシオン優勝に貢献した。8シーズンをエストゥディアンテスで過ごし、コロンビアのアトレチコ・ナシオナルデポルティーボ・エスパニョールボカ・ジュニアーズでプレーした後にヨーロッパに渡った。フランスのスタッド・ブレストとスペインのレアル・ムルシアに在籍し、1989年にアルゼンチンに戻ってラシン・クラブで現役引退した。

代表[編集]

1983年にアルゼンチン代表デビューし、1989年までに36試合に出場した。1986年にはディエゴ・マラドーナホルヘ・バルダーノらとともに1986 FIFAワールドカップに出場し、決勝の西ドイツ戦(3-2)では代表で唯一となる得点(先制点)を挙げた。試合終盤に右腕を負傷し、残り時間は腕を体に固定した上でのプレーとなったが、カルロス・ビラルド監督の交代命令を拒否してプレーを続けた。アルゼンチンは3-2で西ドイツを破り、2度目の優勝を果たした。

指導者時代[編集]

現役引退後は指導者となり、CAサン・ロレンソではオスカル・ルジェリ監督の下でアシスタントコーチを、ボカ・ジュニアーズではカルロス・ビラルド監督の下でアシスタントコーチを務めた。2000年、プリメーラ・ディビシオン(1部)に昇格したばかりのクラブ・アルマグロ監督にエクトル・エンリケとともに就任。1年後、エンリケとブラウンのコンビはCAヌエバ・チカゴ監督に就任したが、11試合を率いただけで成績不振を理由に辞任した。2002年にはボリビアのクラブ・ブルーミング監督に就任し、良いイメージを残したものの、16試合を率いただけで辞任した。再びビラルド監督の下で働くことを決断し、エストゥディアンテスの下部組織で大きな成功を残すと、ビラルド監督がエストゥディアンテス監督を去るのと同時にプリメーラB・ナシオナル(2部)のアトレティコ・ラファエラ監督に就任し、30試合を指揮した。2005年4月、首脳陣との意見の相違を理由にアトレティコ・ラファエラを離れ、再びプリメーラ・ディビシオンのアルマグロ監督に就任したが、アルマグロはプリメーラB・ナシオナル降格となった。2006年にはアトレティコ・ラファエラと同じくサンタフェ州ラファエラ市に本拠地を置くCSベン・ウルの監督に就任し[1]、2007年5月にはフェロカリル・オエステ監督に就任[2]。同年12月、U-20アルゼンチン代表監督に転任したセルヒオ・バティスタ監督の後任としてU-17アルゼンチン代表監督に就任。2008年の北京オリンピックではバティスタ監督のアシスタントコーチを務め、アルゼンチンは金メダルを獲得した。

タイトル[編集]

選手時代[編集]

  • エストゥディアンテス
プリメーラ・ディビシオン (2) : メトロポリターノ1982, ナシオナル1983
  • アルゼンチン代表
FIFAワールドカップ (1) : 1986

指導者時代[編集]

  • U-23アルゼンチン代表
オリンピック 金メダル : 2008(アシスタントコーチとして)

脚注[編集]