アヴラム・グラント

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アヴラム・グラント Football pictogram.svg
Avram Grant Chelsea close.jpg
名前
ラテン文字 Avraham "Avram" Grant
基本情報
国籍 イスラエルの旗 イスラエル
生年月日 1955年5月6日(58歳)
出身地 ペタハ・ティクバ
テンプレート(ノート 解説)サッカー選手pj

アヴラハム・”アヴラム”・グラントAvraham "Avram" Grant, 1955年5月6日 - ヘブライ語表記:אברהם "אברם" גרנט)は、イスラエルペタハ・ティクバ出身のサッカー指導者。

経歴[編集]

1972年、18歳の時に地元クラブのハポエル・ペタハ・ティクバFC(en)のユースチームコーチとして指導歴を始め、1986年にトップチームの監督に昇格し、カップ戦優勝などをもたらした。1991年には同じイスラエルのマッカビ・テル・アビブFC監督となり、1995年までの4シーズンでイスラエル・プレミアリーグで2度優勝した。その後もイスラエルのクラブで指揮を執り、2000年から監督となったマッカビ・ハイファFCでは同リーグ2連覇を達成した。

国内での実績を買われ、2002年イスラエル代表の監督に就任し、UEFA欧州選手権2004予選2006 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選(W杯ドイツ大会予選)で指揮を執ったが、いずれもグループ内で3位となり、双方で本大会出場を逃した。ただし、W杯予選ではヨーロッパ予選のグループ4を10試合で4勝6分と無敗で終え、1位で本大会出場(本大会で準優勝)を決めたフランスとは勝ち点2差、2位でプレーオフに回った後に本大会に出場したスイスとは同勝ち点で並び[1]1970 FIFAワールドカップ(W杯メキシコ大会)[2]以来のW杯本大会出場に近づいた。

グラントはロシア語に堪能で、イングランドプレミアリーグチェルシーFCのオーナーであり、自らもユダヤ系であるロマン・アブラモヴィッチと親しかったことから、2007年にチェルシーのフットボールディレクターに就任。同年の9月20日ジョゼ・モウリーニョ監督が辞任したことによりチェルシーの監督に就任(厳密にはUEFAのコーチングライセンス不所持のため暫定監督の扱い)。イングランドでの知名度は低かった上、就任当初はマンチェスター・ユナイテッドに0-2で敗戦するなど波に乗れなかったが、その後のUEFAチャンピオンズリーグ同2007-08年シーズン)でのバレンシアCF戦で逆転勝利するなど徐々に復調。マンチェスター・ユナイテッドとの優勝争いにも最後まで絡み、UEFAチャンピオンズリーグにおいてもクラブ史上初となる決勝進出を成し遂げたが、プレミアリーグでは最終節でマンチェスター・ユナイテッドに及ばず、同チームとの直接対決となったチャンピオンズリーグ決勝でも延長・PK戦の末に敗れ、どちらもタイトル獲得はならなかった。2つの国内カップ戦も連覇を果たせず、4季ぶりに無冠となり、プレースタイルもクラブ首脳の評価を得られなかったため、契約を3年以上残し解任された。

2009年10月はじめ、ポーツマスFCのテクニカル・ディレクターに就いた。クラブが最下位に低迷してポール・ハート監督が解任されたことから、11月26日にポーツマスFCの新監督に就任した。だが経営難による勝ち点剥奪もあり降格、グラントもシーズン終了後に辞任した。リーグ残留は果たせなかったが、FAカップでは準優勝を達成、これがポーツマスへの置き土産となった。

2010年7月、ウェストハム・ユナイテッドFCの監督に4年契約で就任。ジャンフランコ・ゾラの指揮で辛うじて残留圏内の17位に終わった前シーズンからのチーム強化が期待されたが、カップ戦での健闘はあったもののプレミアリーグでは苦戦し、2011年5月15日のウィガン・アスレティックFC戦に敗れてリーグ戦を1試合残してのフットボール・チャンピオンシップ降格が決定した日にグラントは監督を解任された[3]

2012年1月、セルビア・スーペルリーガパルチザン・ベオグラード監督に就任。リーグ優勝を達成したものの、シーズン終了後に辞任した。

人物[編集]

アヴラム・グラント
  • チェルシーのライバルにあたるアーセナルのアーセン・ベンゲルとはイスラエル代表監督時代にグラントがアーセナルの練習を見学に訪れたこともあり、知人でもある。ベンゲルによれば「試合に関して豊富な知識を持っているとても知的な人物」。イングランドに来た当初はポーツマスのテクニカルディレクターを務めていた為、フランク・ランパードの叔父であるハリー・レドナップ監督は元上司にあたる。
  • チェルシー監督としては前任のモウリーニョとは反対に審判批判を嫌い、悪評高かった判定への文句の際の審判囲い込みも無くなった。モウリーニョがいた時に恒例だったベンゲルなどへの試合前の舌戦も当然無くなった。ランパードによれば、モウリーニョの時より対話を重視しミーティングも増え、フットボール以外にも豊富な知識がありよく有名スポーツ選手の例え話をしてくれるという。
  • イスラエルの女優兼テレビパーソナリティーで、同郷であるペタハ・ティクバ出身のTzofit Grant夫人との間に息子と娘がいる。ポーツマス時代は単身赴任だったが、チェルシーの監督に就任後は家族もイングランドに移り住んだ。
  • 父親メイアはポーランドマゾフシェ県ムワヴァ出身で、第二次世界大戦の間はソビエト連邦に抑留されてシベリアに追放された。また、父親の家族の大半(アヴラムから見たら祖父母や叔父叔母など)はナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺であるホロコーストにより亡くなった。アヴラム自身も敬虔なユダヤ教徒で、チェルシー監督としてUEFAチャンピオンズリーグ決勝進出を決めた2008年4月30日はヨム・ハショア(ホロコースト記念日)だった事について触れて勝利に感謝し[4]、ウェストハム監督だった2010年9月18日のストーク・シティFC戦にはユダヤ教の贖罪の日であるヨム・キプールと重複した事を理由にベンチ入りせず[5]、コーチのゼリコ・ペトロビッチが指揮を執った試合は1-1で引き分けになった。

指導者経歴[編集]

監督成績[編集]

クラブ 就任 退任 記録
試合 勝率 %
ハポエル・ペタハ・ティクバFC イスラエルの旗 1986 1991 &0000000000000158000000158 &000000000000007200000072 &000000000000005200000052 &000000000000003400000034 &000000000000004557000045.57
マッカビ・テル・アビブFC イスラエルの旗 1991 1995
ハポエル・ハイファFC イスラエルの旗 1995 1996 &000000000000003000000030 &000000000000001900000019 &00000000000000070000007 &00000000000000040000004 &000000000000006332999963.33
マッカビ・テル・アビブFC イスラエルの旗 1996 2000
マッカビ・ハイファFC イスラエルの旗 2000 2002 &000000000000007100000071 &000000000000004600000046 &000000000000001900000019 &00000000000000060000006 &000000000000006479000064.79
イスラエル代表 イスラエルの旗 2002 2005 &000000000000003300000033 &000000000000001400000014 &000000000000001300000013 &00000000000000060000006 &000000000000004242000042.42
チェルシーFC イングランドの旗 2007 2008 &000000000000005400000054 &000000000000003600000036 &000000000000001200000012 &00000000000000060000006 &000000000000006667000066.67
ポーツマスFC イングランドの旗 2009 2010 &000000000000003300000033 &000000000000001000000010 &00000000000000070000007 &000000000000001600000016 &000000000000003030000030.30
ウェストハム・ユナイテッドFC イングランドの旗 2010 2011 &000000000000004700000047 &000000000000001500000015 &000000000000001200000012 &000000000000002000000020 &000000000000003191000031.91
パルチザン・ベオグラード セルビアの旗 2012 2012 &000000000000001500000015 &000000000000001000000010 &00000000000000020000002 &00000000000000030000003 &000000000000006667000066.67

脚注[編集]

  1. ^ 同組は1位のフランスから4位のアイルランドまで勝ち点差3の大接戦だった。
  2. ^ この時はアジア代表として出場。
  3. ^ ウェストハムが実質的な2部リーグであるチャンピオンシップにする降格のは7シーズンぶり。後任にはサム・アラダイスが就任した。
  4. ^ スポーツナビ 2008年5月8日付 セルヒオ・レピンスキー「CL決勝、初のイングランド対決の行方」
  5. ^ ウェストハム所属でイスラエル代表DFのタル・ベン・ハイムも試合出場を回避した。[1] なお、ベン・ハイムはチェルシーでもグラント監督の下でプレーした。