ブライアン・クラフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ブライアン・クラフ Football pictogram.svg
Brian Clough.jpg
名前
本名 Brian Howard Clough
カタカナ ブライアン・ハワード・クラフ 
基本情報
国籍 イングランドの旗 イングランド
生年月日 1935年3月21日
出身地 ミドルズブラ
没年月日 2004年9月20日(満69歳没)
身長 178cm
ユース
1951-1953
1953-1955
イングランドの旗 ミドルズブラ
イングランドの旗 ビリンガム・シントニア
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1955-1961
1961-1964
イングランドの旗 ミドルズブラ
イングランドの旗 サンダーランド
213 (197)
61 (54)
通算 274 (251)
代表歴
1957-1958
1957
1959
イングランドの旗 イングランド U-23
イングランドの旗 イングランド B
イングランドの旗 イングランド
3 (1)
1 (1)
2 (0)
監督歴
1965-1967
1967-1973
1973-1974
1974
1975-1993
イングランドの旗 ハートリプール・ユナイテッド
イングランドの旗 ダービー・カウンティ
イングランドの旗 ブライトン & ホーヴ・アルビオン
イングランドの旗 リーズ・ユナイテッド
イングランドの旗 ノッティンガム・フォレスト
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ブライアン・ハワード・クラフ OBE(Brian Howard Clough OBE、1935年3月21日 - 2004年9月20日)は、イングランド出身の元サッカー選手監督。イングランドのサッカー史にその名を刻む名将ノッティンガム・フォレストを率いての、UEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)2連覇を始め、輝かしい実績を残した。

幼少期[編集]

グローブ・ヒル、バレーロード11番地

ブライアン・クラフは、地方の菓子製造販売店に勤める親の元に9人兄弟の6番目の子どもとして、ミドルズブラのグローブ・ヒル、バレーロード11番地にある両世界大戦間に建てられた公営住宅で生まれた[1]。 長女のエリザベスは敗血症のため、1927年に4歳で亡くなっている。クラフは幼少期のことを「しつけの面などを含め、両親のすべてを尊敬している。とても幸せだった。」と語っている。また、ミドルズブラの街自体は子どもが成長するには世界で最も良くない場所だったと話しているが、「私にとっては良かった。私の人生で考え得る私がしたこと、成し遂げたことの全て(飲酒を除いて)は、幼少期の経験が生きている。私の目には8人の子どものために朝早くから夜遅くまで、誰よりも一生懸命に働く母の姿が映っている。」と、語っている[2]

明るい子供だったが、1946年に中等教育選定試験に落ち、マートン・グローブにあるセカンダリー・モダン・スクールに通った[3]。彼は自叙伝の中で、スポーツに熱中するあまり、勉強を疎かにしたと話しているが、その学校では首席の生徒になった。クラフはICIで働くために、1950年に何の資格も取得することなく学校を卒業し[4]、1953年から1955年までイギリス空軍で兵役に従事した[5]

選手経歴[編集]

地元のクラブであるミドルズブラでプロとしてのキャリアをスタート。213試合に出場し、197得点と素晴らしい成績を残し、その後、サンダーランドと契約を結んだ。しかし、1962年12月26日バリー戦で相手GKと接触し、を負傷してしまった。靱帯の損傷であることが判明し、結果としてサッカー選手としてのキャリアの終焉を迎えることになってしまった。サンダーランドでは怪我を負うまで、61試合に出場、54得点の成績を残している[6]

イングランド代表としては、1959年10月17日ウェールズ代表戦、10月28日スウェーデン代表戦の2試合に出場しているが、無得点に終わっている。

監督経歴[編集]

ダービー・カウンティ[編集]

プライド・パークに立つクラフとピーター・テイラーの銅像

監督としてのキャリアは、ハートリプール・ユナイテッドでアシスタントコーチにピーター・テイラーを迎え、1965年10月にスタート。その当時30歳で監督となったクラフはリーグで最も若い監督であった。初めてフルシーズン指揮を執った1966-67シーズンは8位でシーズンを終了し、1967年5月には、テイラーを連れてダービー・カウンティの監督に就任した。

クラフが監督に就任する前まで、ダービーは主に残留争いを演じるチームであった。1967-68シーズンは18位でシーズンを終え、フットボールリーグ2部へと降格をしてしまうが、翌シーズンには2部で優勝し、1年でチームを1部昇格へと導いた。クラフは一般的には、厳しいがフェアな監督であると見なされていた。選手には汚いプレイをしないことを求め、また、試合を自分たちに有利な形に持ち込むことのできるその能力で、多くの者たちから尊敬を集めていた。1969-70シーズンにはチームをトップリーグで4位に押し上げた。

1971-72シーズンは、リヴァプールリーズ・ユナイテッドと優勝争いを展開し、チームはシーズン最後の試合でリヴァプールを1-0で下し、勝点1差で首位に立った。リーズとリヴァプールがそれぞれ最終節で勝利を逃したため、ダービーがそのまま首位でシーズンを終え、クラブ史上初となるリーグ優勝のタイトルを獲得した。

翌シーズン、クラブはチャンピオンズカップで準決勝まで進出するも、ユヴェントスにトータル1-3で敗れてしまうが、この試合の前にイタリア側が試合前に主審に何らかの贈り物をしていたことが後に発覚し、クラフはユヴェントスを「イカサマ野郎」であると痛烈に非難した[7]。このようなクラフの歯に衣着せぬ発言は、しばしばFAやクラブの役員に対しても行われており、遂にダービーの会長とも対立してしまった。ファンの反感も買い、レスター・シティとの試合から5日後の1973年10月15日にアシスタントのテイラーとともに監督を辞任した。

ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオン[編集]

クラフは自身に忠誠を誓うテイラーとスタッフを連れて3部に所属する、ブライトン & ホーヴ・アルビオンの監督に就任したが[8]、指揮を執った32試合で12勝しか上げられず、19位でシーズンを終了した。

リーズ・ユナイテッド[編集]

イングランド代表監督へ就任したドン・レヴィーの後任としてリーズ・ユナイテッドの監督に就任した。ここでは、これまで連れ添ってきたテイラーは加わらなかった。

クラフはノーマン・ハンタービリー・ブレムナーといった多くの主力選手らと対立してしまった[9]。試合でも6試合で1勝しか挙げられず、44日という短期間で解雇という憂き目にあい、クラフはリーズで最も成功しなかった監督として記憶されることになってしまった[10]。開幕から6試合で勝点4、19位の成績は、リーズにとってはここ15シーズンで最低のスタートであった。

ノッティンガム・フォレスト[編集]

1975年1月6日、当時2部に所属していたノッティンガム・フォレストの監督に就任した。最初に指揮を執ったのは、1-0で勝利したFAカップトッテナム・ホットスパーとの再試合であった。1976年7月、アシスタントコーチとしてテイラーが加入した。

クラブを1部昇格へと導き、トップリーグ昇格直後の1976-77シーズンは3位でシーズンを終了し、翌シーズンにはオールド・トラフォードでリヴァプールを1-0で下し、リーグカップのタイトルを獲得した。また、リーグ戦においても2位のリヴァプールに勝点7差を付け優勝を飾った。

クラフはハーバート・チャップマン以来となる異なる2つのクラブでトップリーグのタイトルを獲得した監督となった。1979年2月9日バーミンガムに所属していたトレヴァー・フランシスを獲得し、1978-79シーズンはリーグカップのタイトルを獲得したものの、リーグ戦ではリヴァプールに次いで2位でシーズンを終えたが、UEFAチャンピオンズカップでは決勝に進出し、1-0でマルメFFを下し優勝、翌シーズンも決勝に進出し、ケビン・キーガン擁するハンブルガーSVを1-0で下し、2連覇を達成した。リーグカップでは3年連続で決勝進出を果たすもウルヴァーハンプトン・ワンダラーズに0-1で敗れた。

また、クラフがノッティンガムで成し遂げた偉大な記録に1977年12月26日から1978年12月9日にかけてのリーグ戦での42戦無敗記録がある[11]。この記録は2004年にアーセナルに破られるまでの最長記録であった(アーセナルはマンチェスター・ユナイテッドに敗れるまで49戦無敗であった)。

その後1988-89までノッティンガムは主要なタイトルを獲得することはなかったが、ルートン・タウンを下し、3度目となるリーグカップのタイトルを獲得した。このシーズンはトレブルを達成できる可能性があったものの、最終的にリーグ戦では3位、FAカップでは準決勝で敗退した。

1989-90シーズンには4度目のリーグカップのタイトルを獲得し、1990-91シーズンはFAカップで決勝に進出するも1-2でトッテナムに敗れ、1991-92シーズンはリーグカップで決勝に進出するもマンチェスター・ユナイテッドに敗れた。

1992-93シーズンはクラフのノッティンガムでの18年目のシーズンであり、最後の年となった。ノッティンガムは新しく構成されたプレミアリーグの22チームの内の1チームであったが、主力であったテディ・シェリンガムデズ・ウォーカーを売却し、加えてクラフ自身の重度のアルコール依存症やクラブの財政難もあり、クラブは下位を低迷し降格した。その後クラフは監督業からの引退を発表した。

引退後[編集]

ノッティンガムはクラフの下でプレイしていたフランク・クラークの下で1シーズンでプレミアリーグ昇格を果たすも1996-97シーズンに再び降格し、1998-99シーズンには3度目の降格をした。

クラフの引退の主な理由はアルコール依存症の治療に専念することであり、アルコール依存症からは立ち直ったものの、30年間の過度な飲酒は肝臓に多大な損傷を与え、がんにも冒されていたため、2003年1月に肝臓移植の手術を受けた。

イギリスのサッカー雑誌「Four Four Two」にコラムを連載していた。日本でも提携誌である「プレミアシップマガジン」(休刊中)で、そのコラムを読むことができた。2002-03シーズンのチャンピオンズリーグ決勝ユヴェントス対ACミランの試合を、「途中で眠ってしまいそうになるほど、退屈な試合」であったと評するなど、相変わらずの物言いで紙面においても変わらない印象を与えた。

その後[編集]

ミドルズブラに立つブライアン・クラフの銅像

クラフは2004年9月20日、胃がんにより69歳で逝去した[12]。彼の死を悼み、多くのものが悲嘆に暮れた。その多くは普段は激しいライバル関係にあるダービーとノッティンガムのファンであったが、ともに悲しみを分かち合った。2004年10月21日に行われた葬儀には14,000人以上の人々が集まった。そのため当初はダービーの大聖堂で行われる予定であったが、ダービーの本拠地であるプライド・パークに場所が変更された[13]

2004年から始まった募金活動の成果が実り、2007年5月16日に建立された銅像が披露された[14]

監督成績[編集]

クラブ 就任 退任 記録
試合 勝ち 負け 分け 勝率 %
ハートリプール・ユナイテッド イングランドの旗 1965年10月1日 1967年5月1日 84 35 13 36 41.67
ダービー・カウンティ イングランドの旗 1967年6月1日 1973年10月15日 289 135 70 84 46.71
ブライトン & ホーヴ・アルビオン イングランドの旗 1973年11月1日 1974年7月20日 32 12 8 12 37.5
リーズ・ユナイテッド イングランドの旗 1974年7月20日 1974年9月13日 7 1 3 3 14.29
ノッティンガム・フォレスト イングランドの旗 1975年1月6日 1993年5月8日 907 411 246 250 45.31

獲得タイトル[編集]

ダービー・カウンティ
リーズ・ユナイテッド
ノッティンガム・フォレスト

脚注[編集]

  1. ^ Brian Clough
  2. ^ Theres only one Brian Clough Why we - and some Leeds fans - love Old Big Ead and his green jumper
  3. ^ MIDDLESBROUGH'S STATUE UNVEILED
  4. ^ lost that loving feeling - Brian Clough, 1935 - 2004
  5. ^ British Armed Forces & National Service
  6. ^ Brian Clough's career information from brianclough.com
  7. ^ Clough's passport to nights of glory
  8. ^ Obituary: Brian Clough
  9. ^ Brian Clough in pictures: Re-live his 44 days at Leeds United
  10. ^ Leeds United's John McGovern talks about Brian Clough era
  11. ^ Wenger repeats Clough feat
  12. ^ Football legend Clough dies
  13. ^ Clough memorial service switched
  14. ^ Brian Clough statue & trails

外部リンク[編集]