ホルヘ・バルディビア
|
||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| 本名 | ホルヘ・ルイス・バルディビア・トーロ | |||||
| ラテン文字 | Jorge Luis Valdivia Toro | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | ||||||
| 生年月日 | 1983年10月19日(29歳) | |||||
| 出身地 | ||||||
| 身長 | 173cm[2] | |||||
| 選手情報 | ||||||
| 在籍チーム | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| 背番号 | 10 | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
| 2002-2006 2003 2004 2004-2005 2006-2008 2008-2010 2010- |
→ → → |
40 (14) 30 (7) 5 (1) 9 (2) 68 (13) 36 (20) 41 (6) |
||||
| 代表歴2 | ||||||
| 2004- | 51 (4) | |||||
| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年10月23日現在。 2. 2011年1月23日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||||||
ホルヘ・ルイス・バルディビア・トーロ(Jorge Luis Valdivia Toro, 1983年10月19日 - )は、ベネズエラ・マラカイ出身のサッカー選手。SEパルメイラス所属。チリ代表である。ポジションはミッドフィールダー。
2002年にCSDコロコロとプロ契約を結んだが、素行の問題からCDウニベルシダ・コンセプシオンにレンタル移籍し、20歳だった2003年にトップチームデビューした。2004年から2005年にかけてスペインのラーヨ・バジェカーノやスイスのセルヴェッテFCに短期間在籍し、2005年にCSDコロコロに復帰した。2006年にはブラジルのSEパルメイラスと契約し、2シーズンを過ごしてカンピオナート・パウリスタ(サンパウロ州選手権)優勝も経験した。2008年8月、アラブ首長国連邦(UAE)のアル・アインFCに移籍したが、2010年夏にパルメイラスに復帰した。
2004年、21歳でチリ代表デビューし、2007年にはコパ・アメリカ2007に出場したが、その直後の合宿中に醜聞を晒し、チリサッカー連盟から20試合の出場禁止処分を受けた。復帰後、マルセロ・ビエルサ監督の下で絶対的なレギュラーとなり、2010年には南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップ本大会に出場した。2011年11月には合宿中に門限を破り、クラウディオ・ボルギ監督によって謹慎処分を科せられた。
モデルのダニエラ・アランギスと結婚し、彼女との間に2人の子どもを設けている。兄弟のクラウディオ・バルディビアはAño 0というリアリティ番組に出演していた。
目次 |
経歴 [編集]
クラブ [編集]
初期の経歴 [編集]
両親はチリ人であるが、ベネズエラのマラカイに生まれ、年少時代にチリの首都サンティアゴに移住した。1990年、7歳でCSDコロコロの下部組織に加わり、2002年6月にトップチームに昇格したが、経験を積むため、また素行の問題などによりCDウニベルシダ・コンセプシオンにレンタル移籍した。レンタル元のコロコロとの試合でプロデビューを果たし、その試合に1-1で引き分けた。技術の高さですぐに好印象を与え、アペルトゥーラ2003を通じてレギュラーポジションを維持すると、クラブ史上初のコパ・スダメリカーナ出場権獲得に貢献した。クラウスーラでも満足のいくシーズンを過ごし、コロコロ復帰話も浮上したが、スペインのラーヨ・バジェカーノやスイスのセルヴェッテFCにレンタル移籍した。
CSDコロコロ [編集]
2シーズンをヨーロッパでプレーし、2005年にコロコロに復帰した。同年1月にはアルゼンチンのボカ・ジュニアーズが移籍金150万ドルで予備登録したが、少ししてコロコロがバルディビアの保有を決めた。3月13日、エスタディオ・モヌメンタル・ダビド・アレジャーノで行われたコブレロア戦(2-0)で公式戦デビューした。ウニオン・サン・フェリペ戦(3-2)では89分に移籍後初得点となる決勝点を挙げた。アペルトゥーラでは出場機会を欠いたが、クラウスーラでは注目を集める選手となり、16試合の出場でチームトップの9得点を挙げた。翌シーズンにクラウディオ・ボルギ監督が就任すると、バルディビアはプレーメーカーのポジションに定着し、いっそうの出場機会を得た。チームにとって鍵となる選手であり、マティアス・フェルナンデスやゴンサロ・フィエーロなどとともに中盤で強力なトリオを構成した。2006年4月16日、CDウニベルシダ・カトリカとのダービー(2-3)では、ルベン・マルコス・セルマン主審の疑惑の判定の渦中の人となった。
SEパルメイラス [編集]
2006年8月5日、カンピオナート・ブラジレイロのSEパルメイラスと年俸40万ドルで3年契約を結んで完全移籍した。移籍金は350万ドルであり、パルメイラスが外国人選手に支払った金額としてはクラブ史上最高額であった。プレシーズンのECサント・アンドレ戦(2-0)でデビューを飾り、ティテ監督は「バルディビアのブラジルでの成功は疑いの余地がない」と断言した。エスタジオ・ド・マラカナンで行われたボタフォゴFR戦(3-1)で公式戦初出場を果たしたが、初年度は公式戦15試合・非公式戦1試合に出場したのみであり、得点を挙げられなかった。カイオ・ジュニオール監督が就任すると背番号10を与えられて先発メンバーに固定され、2007年1月16日、リオ・ブランコEC戦(2-1)で移籍後初得点を挙げた。SCコリンチャンス戦(3-0)ではエジムンドのハットトリックをすべてアシストする活躍を見せ、試合後にはカイオ・ジュニオール監督に「バルディビアはカルロス・テベス後のブラジルサッカー界のニュースターだ」と称された。5月20日のフィゲイレンセFC戦(2-1)では2得点を挙げた。12月3日、カンピオナート・ブラジレイロの最優秀選手賞を受賞した。同月にはウルグアイのエル・パイス紙によって南米ベストイレブンに選出され、南米最高のミッドフィールダーとみなされた。2008年1月21日、TV GazetaによるMesa Redonda賞を受賞し、カンピオナート・ブラジレイロの最優秀ミッドフィールダーに選出された。
カイオ・ジュニオール監督が去り、ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ監督が就任すると、ルシェンブルゴ監督はエンリケやディエゴ・ソウザを獲得して2008年のカンピオナート・パウリスタに臨んだ。バルディビアは相変わらず素行面で問題があり、新監督に精神面でのいっそうの成熟を期待された。2月16日、CAジュベントス戦(4-0)で新シーズンの初得点を挙げた。カンピオナート・パウリスタでは素晴らしい活躍を見せ、アレックス・ミネイロに次ぐチーム2位の9得点を挙げると、クラブは州選手権王者となった。2008年のセリエAでは、バレンタインデーのクルゼイロEC戦(5-2)で得点し、その得点を妻に捧げた。8月3日、イパチンガFC戦(2-1)で2得点を挙げ、ボタフォゴFR戦がセリエAでの自身最終戦となった。ドイツのヴェルダー・ブレーメン、ヘルタ・ベルリン、スペインのRCDエスパニョールなどがバルディビア獲得に興味を示したが、アラブ首長国連邦のアル・アインFCと移籍交渉を行った。
アル・アインFC [編集]
2008年8月15日、UAEリーグのアル・アインFCと年俸170万ユーロでの4年契約を結んだ。移籍金は800万ドル。8月下旬にチームに合流し、アイントラハト・フランクフルトとのプレシーズンマッチを戦った。アル・ジャジーラSC戦(4-2)で公式戦デビューし、直接フリーキックによって初得点を挙げた。12月1日には国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によって世界で14番目に人気のある選手に選出された[3]。2009年7月3日、エティサラート・エミレーツ・カップでライバルのアル・ワンダSCCを1-0で破って優勝した。まだ足首の負傷が完治していなかったが、バルディビアは試合に出場して28分に決勝点をアシストしている。プレジデント・カップ決勝ではアル・シャバーブと対戦し、アンドレ・ディアスのPKによる得点を守り切って優勝した。加入して1年も絶たずにチームのトップアイドルとなり、ユニフォームなどの関連商品の売り上げでもチームトップであった。クラブの公式ウェブサイトではクラブ史上最高の選手と紹介された。モハメド・ビン・サイェド・アル・ナーヤン会長は生涯契約をオファーしたが、バルディビアはこれを断った。9月15日、UAEサッカーリーグの最優秀選手賞を受賞した。9月23日、UAEスーパーカップでアル・アハリ・ドバイをPK戦の末に破って優勝した。2010年シーズンはキャプテンに就任した。
SEパルメイラス復帰 [編集]
2010 FIFAワールドカップ期間中にはパルメイラス復帰の可能性が常に取りざたされ、7月26日、パルメイラスと5年契約を結んで完全移籍した。移籍金は1600万ドル[4]。8月14日、エスタジオ・ド・パカエンブーでのアトレチコ・パラナエンセ戦後、15,000人のファンに迎えられた。2010年8月22日、グアラニFC戦(0-0)で後半から出場して復帰後初出場を果たし、不安定なプレーぶりは強く批判されたが、それでもファンからは復帰を歓迎された。9月5日のクルゼイロEC戦では65分にベンチに下がり、ルイス・フェリペ・スコラーリ監督の采配に不満をあらわにするために水の入ったペットボトルをグラウンドに投げた。9月12日、CRヴァスコ・ダ・ガマ戦(0-0)がパルメイラスでの100試合目となった。ECヴィトーリア戦後には「クルゼイロ戦での態度は繰り返さない」と述べ、スコラーリ監督に謝罪した。10月7日、アヴァイFC戦(4-1)では2得点を挙げた。10月24日、コリンチャンス戦で負傷し、チームよりひと足早くシーズンを終えた。12月には全ての選手に対してクラブから「(休暇の過ごし方に)注意するように」という手紙が届いたが、その手紙にサインすることを拒否した。後にバルディビアは、「休暇に際してこのような手紙を押しつけることは、クラブから選手に対しての信頼の欠如である」と述べ、パルメイラスの首脳陣は「彼らの批判は不当なものであり、クラブにふさわしくない選手はいらない」と反論した[5]。
2011年初頭にはコパ・リベルタドーレスに出場するフルミネンセFCからオファーが届いたが、オファーを拒否してパルメイラスに残った。3月9日、カンピオナート・パウリスタのECノロエステ戦では直接フリーキックから得点し、さらに85分に若いヴィニシウスの決勝点をアシストした。シーズン終了後に他クラブに移籍する可能性が浮上したが、3月24日にアルナウド・ティローネ会長によって移籍話は否定された[6]。4月14日、コパ・ド・ブラジル準々決勝ECサント・アンドレ戦ファーストレグではピッチに放尿した[7]。セカンドレグでは卓越した働きを見せて1-0で勝利し、スコラーリ監督によってネイマールと比較された。10月、妻以外の女性とキスしている写真がブラジルの雑誌に掲載された[8]。2012年6月、妻やふたりの子どもと一緒に強盗に誘拐され、2時間ほど拘束された後に無事解放された[9]。
代表 [編集]
アコスタ政権初期 [編集]
2007年にSEパルメイラスで好プレーを披露し、コパ・アメリカ2007のメンバーに選出された。グループリーグ初戦のエクアドル戦(3-2)に出場し、バルディビアが受けたファールがカルロス・ビジャヌエバの直接フリーキックによる決勝点につながった。2戦目のブラジル戦では試合中にロビーニョと激しい口論になり、エラーノとの接触によって負傷した。この負傷により、最終戦のメキシコ戦を欠場することとなったが、チリ代表は2戦目までに準々決勝進出を決めた。バルディビア、レイナルド・ナビア、アルバロ・オルメーニョ、ホルヘ・バルガス、ロドリゴ・テージョ、パブロ・コントレラスの6人は準々決勝進出を祝おうとしたが、彼らはプエルト・オルダスのホテルで2人のウェイトレスをレイプしたとカナル13に報じられた。この出来事の後、醜聞に関与した6人の選手たちはチリサッカー連盟によって20試合の出場停止処分を受けた(後に処分は10試合に軽減)。準々決勝では再びブラジルと対戦したが、1-6で敗れて敗退した。
ビエルサ政権での栄光 [編集]
2008年8月5日、マルセロ・ビエルサ監督はトルコとの親善試合でバルディビアを公式に代表に復帰させる決断を下した。トルコ戦では後半途中にベンチに退き、ハリル・アルティントップに得点を許して0-1で敗れた。9月7日、2010 FIFAワールドカップ・南米予選のブラジル戦に出場し、同予選初出場を果たしたが、63分にレッドカードを貰って退場処分となった。ブラジル代表のファンは「(ブラジルリーグで活躍した)バルディビアはブラジル人だ」との皮肉とともに拍手喝采した。2009年10月10日、同予選のコロンビア戦(4-2)ではチームの3点目を決め、またファビアン・オレジャーナのチーム4点目をアシストした。この勝利によってチリ代表は12年ぶりのFIFAワールドカップ本大会出場を決めた。本大会前の準備試合でも頻繁に先発出場機会を得て、2010年5月26日のザンビア戦(3-0)ではアレクシス・サンチェスのチーム3点目をアシストしたほか、自身の代表通算3点目を挙げた。本大会の出場メンバーにも順調に選出され、グループリーグ初戦のホンジュラス戦(1-0)では、エースのウンベルト・スアソが負傷欠場した関係でストライカーのポジションでプレーした。後半には激しいタックルを受け、次戦への出場に不安を残したが、2戦目のスイス戦では後半開始から本来のポジションであるプレーメーカーとして出場し、エステバン・パレデスに絶妙なパスを通してマルク・ゴンサレスの決勝点の起点となった[10]。3戦目のスペイン戦はハーフタイムまで、決勝トーナメント1回戦のブラジル戦は後半開始から出場したが、どちらの試合にも敗れて敗退となった[11]。
ボルギ政権での論争 [編集]
2011年2月にはビエルサ監督が退任し、クラウディオ・ボルギ監督が就任した[12]。同年11月、バルディビア、アルトゥーロ・ビダル、ジャン・ボーセジュール、ゴンサロ・ハラ、カルロス・カルモナの5人は代表合宿中にバルディビアの子どもの洗礼式に参加したが、アルコールを摂取した状態で合宿所の門限を破り、ボルギ監督によって謹慎処分を科せられた[13]。
個人成績 [編集]
代表での得点 [編集]
| # | 日付 | 場所 | 対戦相手 | スコア | 最終結果 | 大会 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1. | 2006年11月16日 | 3–2 | ○ | 親善試合 | ||
| 2. | 2009年2月11日 | 2–0 | ○ | 親善試合 | ||
| 3. | 2009年10月10日 | 4–2 | ○ | 2010 FIFAワールドカップ・南米予選 | ||
| 4. | 2010年5月26日 | 3–0 | ○ | 親善試合 |
タイトル [編集]
クラブ [編集]
- CSDコロコロ
- プリメーラ・ディビシオン (1) : アペルトゥーラ2006
- SEパルメイラス
- カンピオナート・パウリスタ (1) : 2008
- アル・アインFC
- エティサラート・エミレーツ・カップ (1) : 2008
- UAEプレジデント・カップ (1) : 2008-2009
- UAEスーパーカップ (1) : 2009
個人 [編集]
- Prêmio Craque do Brasileirão : 2007
- ボーラ・ジ・オーロ : 2007
- Troféu Mesa Redonda: 2007
- カンピオナート・パウリスタ 最優秀選手賞 : 2007, 2008
- UAEリーグ 最優秀選手賞 : 2009
- UAEリーグ最優秀外国人選手賞 : 2009
- コパ・アメリカ2011 スターチーム : 2011[14]
脚注 [編集]
- ^ El desconocido origen venezolano de Jorge Valdivia
- ^ Jorge Luís Valdivia Toro SEパルメイラス公式サイト
- ^ The World‘s Most Popular Footballer Amongst Currently Active Players in 2008 IFFHS
- ^ “Al Ain's Valdivia returns to Brazil”. The National. (2010年7月27日)
- ^ “Jorge Valdivia threatens Palmeiras exit over lack of respect”. Goal.com. (2010年12月21日)
- ^ “Palmeiras deny plans to sell Jorge Valdivia”. Goal.com. (2010年3月24日)
- ^ “Jorge Valdivia urinates on the pitch”. Footballstreams.org. (2011年4月14日)
- ^ “キス写真を公表され泣いて謝罪したチリ代表MF”. Qoly.jp (2011年10月29日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ “バルディビア、銃を持った強盗に監禁される”. Qoly.jp (2012年6月9日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ “スイス、ゴンサレスの1点に屈す”. UEFA.com (2010年6月21日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ “ブラジル完勝、ベスト8でオランダと対戦”. Goal.com (2010年6月29日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ “チリ代表監督にボルギ氏が就任”. Goal.com (2011年2月19日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ “ビダルがチリ代表から追放 監督は「酔っていた」”. livedoorスポーツ (2011年11月10日). 2012年7月8日閲覧。
- ^ La oncena ideal de la Copa América 2011Emol.com
外部リンク [編集]
|
|||||