朴智星

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朴 智星 Football pictogram.svg
Park Ji-Sung vs Fulham 2010.jpg
名前
愛称 Oxygen Tank(酸素タンク)[1]、Three Lungs[1]、ジー[2]
カタカナ パク・チソン
ラテン文字 PARK Ji Sung
ハングル表記 박지성
基本情報
国籍 韓国の旗 韓国
生年月日 1981年2月25日(30歳)
出身地 韓国の旗 全羅南道高興郡
身長 177cm
体重 73kg
選手情報
在籍チーム イングランドの旗 マンチェスター・ユナイテッド
ポジション MF/FW
背番号 13
利き足 右足
クラブチーム1
クラブ 出場 (得点)
2000–2002
2002–2005
2005–
京都パープルサンガ
PSVアイントホーフェン
マンチェスター・ユナイテッド
76 (11)
64 (13)
117 (17)
代表歴 2
2000-2011 韓国の旗 韓国 100 (13)
1. 国内リーグ戦に限る。2011-05-22現在。
2. 2011年1月26日現在。
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パク・チソン
各種表記
ハングル 박지성
片仮名
(現地語読み仮名)
パク・チソン
ラテン文字転写 Park Ji Sung
公式表記: Park Ji Sung

朴 智星(パク・チソン、1981年2月25日 - )は、韓国出身のサッカー選手。元同国代表プレミアリーグマンチェスター・ユナイテッド所属。中盤すべてのポジションとセカンドトップウイングをこなせるユーティリティープレーヤー[3] 。Oxygen Tank(酸素タンク)と称される豊富な運動量が持ち味。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入りまで

全羅南道高興郡で生まれ、水原市で育った[4]。小学4年時にサッカーを始めたものの韓国サッカーでは全くの無名選手で、朴自身も「高校時代はKリーグのドラフトにかかりませんでした」と回想している。水原工業高校では全国優勝した[5]。ドラフトにかからなかった理由として、当時の指導者は体の小ささを挙げている[6]

しかし1999年1月、明知大学校金煕泰監督に才能を見い出され、特待生として入学する予定だった明知大のサッカー部の合宿に早期合流し、その時行われた韓国五輪代表との練習試合で目ぼしい活躍を見せたため、以降はU-23韓国代表に選ばれるようになる。2000年4月5日にはAFCアジアカップ予選ラオス戦でA代表デビューも果たした。

大学在学中の2000年6月に、明知大の監督と知り合いであり、当時京都パープルサンガ総監督だった木村文治の誘いを受け大学を休学、19歳で来日し京都に加入、日本でプロデビューすることとなった[5]。中・高・大と続いた体育会系特有の「しごき」に対する拒否感からのプロへの憧れや、当時在籍していた三浦知良の存在が京都へ入団する決め手となった。明知大にはサッカー部発展基金という名目で1億ウォンが京都から支払われた。

[編集] 京都パープルサンガ時代

1シーズン目から中盤の控えとして出場機会があったが、京都がJ2に降格した2シーズン目から、その活躍ぶりは顕著になる。主にボランチのポジションで38試合に出場、3得点を挙げ、メキメキと頭角を現しだし同チームのJ1昇格に貢献。J1昇格後はウィングへコンバートされ松井大輔黒部光昭と脅威的な3トップを形成した。チームがJ2降格してもあえて残留を選択し、韓国代表に招集されてもできる限り断ってチームに残るなど、献身的な姿を見せている。怪我を押して出場した第82回天皇杯の決勝でも同点ゴールを決め逆転優勝に貢献。同時に韓国A代表でも徐々にレギュラーとしての地位を確立する。在籍中には大阪経済法科大学に入学し、日本語も流暢に話せるようになるまで学ぶなど、日本に溶け込む努力も見せた。

[編集] オランダ・PSV時代

2002年、元韓国代表監督であったフース・ヒディンクの推薦を受け、エールディヴィジPSVアイントホーフェンに移籍した。

1年目のシーズンには一時期不調に陥った。交際していた年上の女性と別れたことが原因の心理的スランプだとオランダ紙などで報道され、韓国紙でも「別れた原因はオランダと韓国の遠距離恋愛」などと報じられた。こうした報道に嫌気がさし、ますますふさぎこんだという。

しかしオランダでの3年間で2度のリーグ制覇を経験。特に3年目のシーズンは中心選手としてチームを牽引した。2005年のUEFAチャンピオンズリーグの準決勝でセリエAACミランと対決し、ミランのホーム、サン・シーロで行われた第1試合では、再三にわたりミランのDF陣を切り裂き、賞賛された。PSVのホームに戻った第2試合では、鮮やかな先制ゴールを奪い、ミランに対しリードを奪うが、終了間際にマッシモ・アンブロジーニにゴールを決められ、アウェーゴール数の差により決勝進出はならなかった。

この活躍により、UEFAが発表した2005年のポジション別MVP候補のFW部門に選ばれた[7]

朴の活躍は、イングランド・FAプレミアリーグの名門マンチェスター・ユナイテッドFCで監督を務めるアレックス・ファーガソンの目に留まり、マンチェスター・ユナイテッドに移籍した。

[編集] マンチェスター・ユナイテッド時代

マンチェスター・ダービーでの朴(2008年2月10日)
2008年4月、FCバルセロナ戦後の朴

2002年W杯のベスト4と、2005年UEFAチャンピオンズリーグのベスト4(PSV時代)という実績を持って、2005年にプレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドに入団したが、加入当初の英国メディアの論調は厳しかった。それまでプレミアリーグで成功を収めたアジア人選手がいなかったこと、多くのアジア人選手が、アジアのサッカーマーケット開拓の道具として獲得されていることなどから、朴も広告塔としての加入ではないかと懐疑の目が向けられた。また、彼の実力を評価した専門家も、マンチェスター・ユナイテッドというビッグクラブで出番機会が与えられるのか不安視していた。

しかし、周囲の喧騒をよそに、2005-06年シーズンの開幕戦で初出場・先発を果たし、攻守に献身的なプレースタイルと、質の高いフリーランニングで活躍した。最終的にレギュラーとしてプレミアリーグで38試合中33試合に出場し、2得点7アシストを記録。中でもマンUのライバルであるアーセナル戦ではゴールを奪う活躍を見せた。

中盤から前のポジションであれば、センターフォワード以外はどこでもこなせる高い順応性、試合が終盤にさしかかっても落ちない運動量が大きく評価されている。しかし、2006-07シーズンは膝の怪我が相次ぎ、リーグ戦では5得点を挙げるも、わずかな出場に終わった。また、ひざの怪我は古傷を再び痛めたもので手術が必要となり、リハビリを含めれば1年、もしくはそれ以上の長期間にわたって出場ができないのではないかと危ぶまれていたが、2007年12月26日(現地時間)に行われた対サンダーランド戦で復帰した。

UEFAチャンピオンズリーグ 2008-09では、準決勝のアーセナル戦で先制ゴールを挙げるなど活躍、UEFAチャンピオンズリーグ決勝の舞台にアジア人プレイヤーとして初めてピッチに立った。UEFAチャンピオンズリーグ 2010-11でも、アジア人として初となる決勝スタメンフル出場を果たした。

マンチェスター・ユナイテッドのチームメイトやファーガソン監督からは「Ji(ジー)」というニックネームで呼ばれている[2]。チームメイトの中では特にパトリス・エヴラと仲が良い。

[編集] 韓国代表として

朴はW杯に3度出場し、2002年のポルトガル戦、2006年のフランス戦、2010年のギリシャ戦と、3大会連続ゴールを決めている。2008年10月のUAE戦からキャプテンを務めている。試合前のバス移動で「必要以上に気負いこむことはない」としてBGMにロックを流しチームをリラックスさせようとするなど、リーダーシップを発揮している[8]

2004年に行われたアテネ五輪の時、23歳の朴はU-23韓国代表選手として同大会のサッカー競技において通常の出場資格を持っていた。前年に行われた同五輪最終予選でのインタビューで、U-23日本代表について聞かれると、「日本は最も注意しなければならない相手だ」と、日本へのライバル心を公表している。しかし、2004年に行われたアテネ五輪の本大会では,所属クラブのヒディンク監督が五輪出場を最後まで承諾せず、結局五輪出場はならなかった(ヒディンクは五輪前に開催されたA代表のアジア杯への出場は了承しており、五輪は国際AマッチではなくFIFAから選手招集に応じる義務も課されていないので、五輪よりは当然クラブを優先させるべきと考えた)。

2008年8月の北京五輪(同大会のサッカー競技)では韓国五輪代表監督の朴成華が「(27歳の)朴をオーバーエイジ枠の選手として北京五輪代表チームに招集したい」と発言。これに対し朴は大韓サッカー協会の鄭夢準会長と対談した際に「協会とチームが合意さえすれば、気持ち良く出場したい。(アテネ)五輪で成し遂げられなかった夢をかなえたい」と述べた[9]。しかし、一方でポジション争いの激しさを背景にクラブのキャンプへの早期合流の必要性にも言及し、世論はマンチェスター・ユナイテッドで朴の置かれている立場と体力的負担を理由にクラブ早期合流を望む意見が大勢を占めた。朴がヒザの不調により2008年6月のW杯南アフリカ大会の3次予選に欠場した事で、協会は朴の北京五輪参加を断念した。

代表チームメートの李榮杓と共に、2011年1月開催のアジアカップで代表を引退を表明した。2011年アジアカップ準決勝の日本戦では韓国はPK戦で敗れ(公式上は引き分け扱い)、ウズベキスタンとの3位決定戦にまわった。疲労を考慮されベンチにすら入らず出場しなかった。これにより代表通算100戦目となった日本戦が彼の代表最後の試合になった。試合後に日本選手らに握手を求め健闘をたたえあうなど紳士的な対応をし、日本でも好感を持って報じられた。日本対オーストラリアの決勝戦直後に行われた受賞セレモニーでは韓国代表はフェアプレー賞を受賞し、韓国代表の受賞者として登場した。

[編集] プレースタイル

試合終盤まで走り続けることのできる豊富な運動量とスピードが最大の武器。特に運動量に関しては評価が高く、リオ・ファーディナンドパトリス・エヴラからも評価されている[2]

左右両足を使える柔軟性、抜群のボディバランスと確固たる基礎技術、巧みなポジショニング、飛び出しの技術、スピードある鋭いドリブル突破も持ち合わせている。また、走力を生かした激しいプレスや対人ボール奪取力にも長けていて、スペースを消すのもパスをカットするのも非常に巧い。最近では決定力もついてきており、ダイナモ的存在としてチームを活性化できるチームに必要不可欠なオールマイティプレイヤーである[10]

[編集] 大一番での勝負強さ

キャリアを通しての得点数は決して多くないが、非常に重要なビッグマッチで多くのゴールを挙げてきた。PSV時代には、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍の道を切り開いた、2005年UEFAチャンピオンズリーグ準決勝のACミラン戦のゴールや同年のオランダリーグ優勝決定試合での貴重なゴールがある。

マンチェスター・ユナイテッド移籍後は、初年度にアーセナル戦でゴールを奪い名を挙げた。2007-08シーズンには難攻不落のスタンフォード・ブリッジでの首位チェルシーとの対戦でゴールを奪いマン・オブ・ザ・マッチに選出された[11]

2008-09シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグの準決勝アーセナル戦で先制ゴールを奪いチームを決勝へと導いた。2009-10シーズンはまたもやアーセナル相手にゴールを奪い、エミレーツ・スタジアムでのリーグ戦でマンチェスター・ユナイテッドに初の勝利をもたらすと[11]、この年のUEFAチャンピオンズリーグ決勝トーナメント1回戦ではACミランからゴールを奪いチームをベスト8に導いた。更にこの年にはリヴァプールとのナショナルダービーで決勝点となるダイビングヘッドを決めリオ・ファーディナンドから「怪物のようだ」とも評された[12]

2010-11シーズンはアーセナルとの首位決戦で決勝点を奪い、この試合を機にチームはアーセナルを抜き首位に浮上。UEFAチャンピオンズリーグの準々決勝チェルシーとのセカンドレグでも決勝点を奪い、チームを決勝に導いた。同年、本拠地オールド・トラッフォードに前年の王者で2位のチェルシーを迎えた天王山では、チチャリートへの先制アシストなどの攻守にわたる貢献で最大のライバルを下し、2010-11シーズンのプレミアリーグを制覇。これによりリヴァプールの18度の優勝回数を抜いて、マンチェスター・ユナイテッドにイングランドフットボール史上最も成功したクラブという称号をもたらしたメンバーの1人となった。

監督のアレックス・ファーガソンは「ビッグマッチで本当によくゴールを決める」とその勝負強さを称賛し[13]、チームメイトのマイケル・キャリックは朴智星について「ビッグマッチの専門家」と表現している[14]。またリオ・ファーディナンドは「彼はビッグゲームとなるとゴールを挙げるんだ。監督はここぞという試合で彼を何度も起用しているけど、いつもその期待に応えている」と称賛している[15]。 また最大のライバルであるアーセナルヴェンゲル監督は「パク・チソンはフレドリック・ユングベリのような選手だが、ゴールも決めることができる」と評している[16]

ロンドンでの試合でのゴールの決定率は非常に高く、ロンドンキラーとしても有名である[要出典]

ファーガソンは「朴はビッグマッチを戦う上で必要な規律や賢さ、サッカーの知識を持ちあわせており、冷静さを欠くことがない」とそのプロ意識の高さを評価し、特にビッグマッチにおいては信頼を寄せている[17]

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2000 京都 12 J1 13 1 2 0 1 0 16 1
2001 7 J2 38 3 1 0 1 0 40 3
2002 J1 25 7 0 0 4 1 29 8
オランダ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
2002-03 PSV 7 エールディヴィジ 8 0 - - 0 0 8 0
2003-04 28 6 - - 1 0 29 6
2004-05 28 7 - - 3 2 31 9
イングランド リーグ戦 FLカップ FAカップ 期間通算
2005-2006 マンチェスターU 13 プレミアリーグ 34 1 3 1 2 0 39 2
2006-2007 14 5 0 0 5 0 19 5
2007-2008 12 1 0 0 2 0 14 1
2008-2009 25 2 1 0 3 1 29 3
2009-2010 17 3 2 0 0 0 19 3
2010-2011 15 5 2 2 1 0 18 7
通算 日本 J1 38 8 2 0 5 1 45 9
日本 J2 38 3 1 0 1 0 40 3
オランダ エールディヴィジ 64 13 - - 4 2 68 15
イングランド プレミアリーグ 117 17 8 3 12 1 137 21
総通算 257 41 11 3 22 4 290 48
国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点 出場 得点
UEFA UEFA EL UEFA CL
2003-04 PSV 7 2 0 5 0
2004-05 PSV 7 - 11 1
2005-06 マンチェスターU 13 - 6 0
2006-07 マンチェスターU 13 - 1 0
2007-08 マンチェスターU 13 - 4 0
2008-09 マンチェスターU 13 - 9 1
2009-10 マンチェスターU 13 - 6 1
2010-11 マンチェスターU 13 - 8 1
通算 UEFA 2 0 48 4

[編集] エピソード

[編集] 日本との関係

発音に多少の韓国語訛りがあるが、流暢な日本語を話す。日本のメディアの取材には全て日本語で対応する。京都パープルサンガ時代の同僚・松井大輔によれば、今でも日本語でお互いによく電話をしている。2002年W杯・ポルトガル戦後のミックスゾーンで日本人記者たちに祝福された際も、日本語で「あのゴールはまぐれですよ!」と笑顔で語った、とのエピソードがある。イギリス生活も長く英語も堪能。イングランドのメディアに対応する際には、通訳を介さず英語で対応する。しかし2008年、日本メディアの取材に対し、「英語より日本語のほうが得意」と語っている。現在でも「自分の原点は京都にある」と語り、オフを利用して度々京都に訪れている。

朴と親交が深い松井は、常々インタビューで朴について言及している。松井曰く、同じ歳の2人は自然とうまが合い、いつも2人でキック練習をしていたという。また、既に結婚していた松井の家に朴はよく遊びにいき、松井の妻がキムチなどの食事を出していたという。松井は朴を「2002年W杯の前後で人柄など全てが変わった」と評しており、そのため自分自身も出場してみたかったと語っている。また、朴は1度も食事を奢ってくれなかったとも述べている。その後、松井は2010南アフリカWCのメンバーに選ばれ、朴と共に出場を果たした。京都時代より三浦知良を慕い、また彼からもよく可愛がられていた。2008年にも、「親愛なるカズさんへ」との手紙にて感謝の気持ちを示している。

朴は2007年に『信じるチカラ パク・チソン自伝』を在日コリアンライターの慎武宏の構成・監訳で出版したが、その中で朴の性格は「謙虚、寡黙、自己主張しない…。海外サッカーにおいては埋没しかねない典型的なタイプ」と評されている[18]。普段は穏やかな青年であるがピッチの上では非常に自己主張の強い選手だと知られている。

[編集] その他

  • TVゲームが好きで、休日はいつも家にこもってゲームをしている。
  • 憧れの選手について聞かれると、いつも決まって、「いない」と答える。
  • プレースタイルも全く違うが、地域のスターという意味で、英紙から「アジアのベッカムと呼ばれているようだが」と唐突な質問を受けた。その時に、「僕はベッカムの様にハンサムではないけれど、彼のポテンシャルに近づくことはできる」と答えている[3]

[編集] 受賞

  • 2002年 Jリーグ優秀選手賞[19]
  • 2005年 フットボールアジア 2004-2005欧州で最も活躍するアジア人選手[20]
  • 2005年 タイム誌アジア版スポーツ部門 2005アジアの英雄[21]
  • 2009年 アラブ系スポーツ誌スーパーマガジン アジアサッカー選手賞[22]
  • 2009年 イギリス・サッカー専門サイトチームトーク 今年のチームトーク賞「今年の名も無き英雄(Unsung Hero of the Year)」部門受賞
  • 2009年 ガーディアン 陰のヒーロー(Unsung Hero)活躍に比べて評価が低い「陰のヒーロー」をプレミアリーグ20チームから、1人ずつ選出[23]

[編集] タイトル

  • 京都パープルサンガ(現京都サンガFC)
    • 2001年 J2優勝
    • 2002年 天皇杯優勝
  • PSV
  • マンチェスターユナイテッド
  • サッカー大韓民国代表
    • 2002年 FIFA ワールドカップ4位

[編集] 脚注

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  1. ^ a b Goal.com. “Ji-Sung Park Profile”. 2011年8月10日閲覧。
  2. ^ a b c パクの献身を称えるリオ&エブラ”. Goal.com (2011年5月18日). 2011年8月10日閲覧。
  3. ^ a b Ji-Sung Park – Quote, Unquote” (英語). ManUtd.com. Manchester United. 2011年8月10日閲覧。
  4. ^ Ducker, James (2009年5月26日). “Park Ji Sung is a Seoul star out of the ordinary”. The Times (News Corporation). オリジナル2011年5月26日時点によるアーカイブ。. http://www.webcitation.org/5yyfIfbgf 2011年8月10日閲覧。 
  5. ^ a b 京都新聞 (2002年5月). “W杯 韓国代表 朴智星の軌跡(2)19歳の決意”. http://www.kyoto-np.co.jp/sanga/rensai2002/paku/paku02.html 2011年8月10日閲覧。 
  6. ^ “朴智星の恩師「体が小さくてどこも智星をスカウトしなかった」”. 朝鮮日報. (2005年11月29日). http://www.chosunonline.com/news/20051129000042 2011年8月10日閲覧。 
  7. ^ UEFA (2005年8月22日). “Liverpool stars head nominees”. uefa.com. 2011年8月10日閲覧。
  8. ^ 慎 武宏 (2009年6月25日). “【慎武宏コラム】W杯最終予選B組総括「“チェンジ”したふたつのコリア」新たなリーダーの下生まれ変わった韓国”. FOOTBALL WEEKLY. 2011年8月10日閲覧。
  9. ^ 朴智星、北京五輪出場に前向き”. 朝鮮日報 (2007年9月22日). 2010年3月19日閲覧。
  10. ^ 慎 武宏 (2008年6月). ““アジアの誇り”パク・チソン、胸に秘めたさらなる飛躍”. EAFF.com. http://www.eaff.com/j/fanzone/eaplayers/004.html 2011年8月10日閲覧。 
  11. ^ a b サッカーキング (2011年4月15日). “パク・チソンはマンUの躍進に不可欠な“ビッグマッチ男””. 2011年8月10日閲覧。
  12. ^ Coppack, Nick (2001年3月21日). “リオがパク・チソンの活躍を称賛”. ManUtd.jp. 2011年8月10日閲覧。
  13. ^ Bartram, Steve (2011年4月12日). “監督「チームは最高の調子にある」”. ManUtd.jp. 2011年8月10日閲覧。
  14. ^ Marshall, Adam (2011年4月13日). “Ji-sung is our unsung hero” (英語). MANUTD.com. 2011年8月10日閲覧。
  15. ^ サイモン・ハート (2011年4月13日). “タイミングのいい得点を喜ぶギグス”. Uefa.com. 2011年8月10日閲覧。
  16. ^ Muro, Giuseppe (2010年12月13日). “Wenger - Park is a Ljungberg-type player” (英語). Arsenal.com. 2001年8月10日閲覧。
  17. ^ パク・チソンを信頼するファーガソン”. Goal.com (2011年4月25日). 2011年8月10日閲覧。
  18. ^ ランダムハウス講談社. “信じるチカラ パク・チソン自伝”. オリジナル2008年12月23日時点によるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20081223141941/http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/books/details.php?id=342 2011年8月10日閲覧。 
  19. ^ 京都新聞 2002年12月6日
  20. ^ 2005年6月1日『中央日報』
  21. ^ 2005年10月3日『中央日報』
  22. ^ 2009年1月8日『中央日報』
  23. ^ 2009年8月11日『中央日報』

[編集] 関連項目

  • 辛ラーメン(大韓民国と日本でテレビCMモデルを務めている)

[編集] 外部リンク

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